隠し目


 日が暮れると、一面の闇が降りてくる。

 番兵の焚く篝火(かがりび)が僅かに抵抗するだけで、後は何よりも暗い。

 行灯(あんどん)を点けられる金は無く、平民の住む地域は特に暗い。とても暗い。道に慣れた者でさ

え、時折つまづいたり転んだりする。足下すらよく見えない。

 夜は危険も増える。

 遊び半分で辻斬りするような侍、侍くずれ、それから追剥(おいはぎ)なんかも出る。

 暗い夜道は犯罪を増加させる。見られないと思うからこそ、悪事を働けるのだろう。それこそが悪を恥

じるべき、正当な理由であり、証明なのかもしれないが。悪人には無用な話。

 普段はのんびりしている者も、夜が更ければすぐに家に帰り、戸を閉めてひっそりと暮す。

 闇が闇として残っている、そんな時代。太陽と共に生活をしていた、そんな時代。

 色んな話がある。夜に怯える心が、濃厚に残っている。

 そして今もそう、この街に奇妙な噂が流れている。怯えを助長する話。いつでもある怪談。

 しかし夜闇の力が強い時代では、それは面白半分に話すものではない。

 そこには歴とした恐怖を伴う。

 人は用心としてではなく、恐怖から家路を急いでいる。

 人を恐れさせる、奇妙な噂。

 暗い夜道、独り歩いていると、それに出会う。

 それが何かまでは解らない。

 魑魅魍魎か妖怪か、それとも幽霊なのか。何も解らないが、そういうものが普通に信じられ、また現に

存在していた時代だから、誰もそれを疑う事はなかった。

 それは居るのだ。そしてそれに会うのだ。何が解らなくとも、それだけは間違いない。

 しかし何処にも噂を信じぬ者が居る。奇妙な者や怨霊など、端から信じない者が居る。

 この五平がそうだ。

 彼は生まれ付いてよりおよそ恐怖というものを知らず、幽霊だのお化けだの言われても鼻で笑い、そん

なものは馬鹿の見るものだ、よしんば見たとしても、そんなものが何になろう、という思考の持ち主で。

この男だけは昼夜となく出歩き、平気で夜道を散歩している。

 腕っ節も強く、逃げ足も速いものだから、追剥や辻斬りにあっても何とも思わない。人は恐怖するから

逃げられない、恐怖するから勝てないのであって、襲われようと何だろうと、屁とも思っていない五平は、

ちっとも困る事がないのである。

 相手が弱ければ殴り倒すだけだし、強ければさっと逃げればいい。相手は武器を持っているのだから、

その分足も遅くなる。ただでさえ足の速い五平が、逃げられぬはずはなかった。

 そんな感じだから益々恐怖心を馬鹿にして、色んな事を馬鹿にしていた。

 怖がると云う事は馬鹿のする事だと思い、この噂を聞いても、逆にそんなおかしな奴が居るなら、わし

がとっちめてやると言い出して、今独りで夜道を歩いている。

 昨日今日だけではない。元々気にせず夜道を歩いていたが、最近はわざわざ昼間に寝て、夜になると一

晩中街を出歩いているのだ。

 番兵も初めは注意していたが、慣れたのか呆れたのか、今はもう何も言わない。そもそも彼らは持ち場

を見張るのが仕事なのだから、それ以外を誰がどう行こうと、盗人でも見ない限りは、大して気にしない

でもいいのだろう。

 だから五平は悠々と毎晩歩き通した。

 知合いが止めろ、噂には必ず何かがあるものだ、と説いても、一向に耳を傾けず、毎晩毎晩出歩く。

 そうして幾晩過ぎたのか。もう数えるのも忘れた頃、どっぷり暮れた丑三つ時、からりころりと音がす

る。風の仕業か悪戯か、さりとて振り返っても人影は見えない。

 五平は構わず進む。こんな事で怖がる男ではないのだ。

 しかし進めばまたからりころりと音がする。よくよく聴いていると、どうやらそれは下駄の音だった。

「正体はそんなもんさ」

 五平は笑い、しかし盗人にでも狙われているかもしれぬと思って、足早に急いだ。五平が急げば、誰も

追いつけない。

 しかしその時だけはおかしな事に、いつまで経ってもその音が付いてくる。からりころりと付いてくる。

 それでも五平は怯えない。狐か狸だろうと思い、逆に安心した。

 物取りでなければ心配する事は無い。いつものようにゆっくり歩く事にした。からりころりと付いてく

るが、気にしなければ気にならない。別に音が取って喰う訳でもあるまいし。

 そんな感じで五平は明け方まで歩いた。下駄の音と共に。


 明けて見れば何でもない。近所の悪童達が悪戯しておったのだ。五平を一度驚かしてやろうと思い、阿

呆な事に、一晩中五平の後を必死に付いて歩いたのである。

 隠れるのが上手い子供だったから、五平も見付けられなかったのだろう。複数で交代しながら付けられ

ては、流石の五平もなかなか引き離す事は難しい。

 本気でやれば見付けるか、引き離すか出来たかもしれないが、わざわざそんな事をする意味も無い。だ

から悪童達は結局一晩中五平に振り回され、へとへとになり、その上親にこっぴどく叱られたらしい。

 正に踏んだり蹴ったりだが、自業自得、それはいい。

 肝心なのは、これでまたふりだしに戻ったと云う事だ。五平も悪童と遊んだだけで、お化けだか妖怪だ

かとは、ちっとも会えていない。いくら探そうとも、全く出て来ないのである。

 だがそれでいて、噂は相変わらず絶えない。どこそこで見ただの、どこそこで何があっただの、相変わ

らずどこまで本当だか解らぬ噂が飛び交っている。

 噂は噂だったと捨て置いても良いのかもしれないが、それが不思議な事に、聞いてみると、満更でまか

せとも思えない。

 噂が絶えない以上、何かは居るのだろう。

 ならば、五平は意地でもそれを探す所存だった。


 真偽の程は解らないが、話の筋は大体決まっている。

 暗闇にいつの間にか誰かが居て、片方の目を隠し、こちらを見ている。

 こちらが見返すと、もう反対側の目を隠し、もう片方の目で再び見る。

 そしてその後に両目を隠し、それから・・・。

 どうもここからが良く解らない。

 一体何が怖いのか。もしかすれば、解らないからこそ怖いのか。

 いつも肝心要の所はおぼろげで、何がどうなのか解らない。でも解らないけれども、何かが怖い。そん

なものなのかもしれない。

 五平も随分話を聞いたが、最後の所がどうにもでたらめな話ばかりで、統一性が無く、誰にどう聞いて

も詳しい事を言わない。

 更に聞くと、その後は出会った当人も覚えていないのだ、などと言う。

 確かにその何者かが、両手で両目を覆う所までは覚えているのだが、気付いたら朝になっている。そう

して何か酷く怖ろしいモノを見たという気持があるのだが、まったく記憶に残っていない。いくら思い出

そうとしても、そこからがまったく思い出せない。

 訳が解らないが、だからと言って嘘とも言えない。

 化物なのだから、何をやったっておかしくないだろう。

 それにしても、最後に一体何を見たのだろうか。

 五平はその当人を教えろと強引に聞き出そうとしたが、結局誰もその当人の事は知らなかった。

 皆人伝に聞いた話だという。

 人の話をべらべら喋る奴らに、心底腹が立ったが、怒っても仕方が無い。口の軽い奴はいつも肝心な事

は知らない、とぶつぶつ言いながら、地道に探すしかなさそうだった。


 噂が立ってから一月近く探し回っているが、相変わらず肝心な事は誰も知らない。五平自身も全くそれ

に出会えない。

 胡散臭い話が、これだけ広まり、しかもなかなか衰えない事を思えば、それなりの人が見ている筈なの

だが。その見た当人にも、化物自身にも、一向に出会える気配が無い。

 いい加減噂に弄(もてあそ)ばれているような気がしてきたが、それでも五平は諦めなかった。

 こうなれば、何か解るまでは、決して諦めない所存である。

 五平は無い知恵を絞って考えた。

 何かは居る、或いは何かが在るのだ。しかしどう探してもそれに辿り着けない。

 これはひょっとすると、探すから出会えない、という事なのか。

 又は五平が驚かないのを知っているから、決して姿を見せない、という考え方もある。

 人を驚かす為に出てくるとすれば、五平のような奴は一番面白くもない人間。わざわざ出てこようとは

思わない筈だ。

 まさか住民を一人一人調べて回る訳は無いが、五平はこの辺りでは有名な怖いもの知らず、お化けか狐

か知らぬが、五平の事を知っていてもおかしくはない。

 どちらにせよ、このまま当ても無く探していても、辿り着けはしないのだろう。

 そいつが五平を避けているかどうかは別にして、これだけ探して出会えないのだから、探す方法を間違

っている、と考える方が自然である。

 しかし五平では、いくら考えてもとんちんかんな答えを導き出すのが精々。

「まさかそいつがオレを恐れているたあ、知らなかった。はてさてどうしたもんか」

 などという答えが出るだけで、じゃあどうすれば良いかは、全く浮んでこなかった。

 人並みの知恵はあるが、あくまでも人並みなのである。

 そうして暫く悩んでいたが、やはり何も出てこない。

 困った五平は、隣りの爺に相談してみる事にした。

 この爺は別に何かの先生という訳では無いが、無駄に年を経ておらず、いつも良い知恵を授けてくれる。

ある程度の学識がある。

 そこで近所の連中はその爺を尊敬し、何かあれば相談しに行くのだが。五平などは相談事なんぞある訳

がなく、世話になっているとも思っていないので、単に爺呼ばわりしていた。

 しかし隣り住いと云う事で、それなりに付き合いはしており、五平も特に悪い男ではなかったのと、力

仕事などで色々世話していたから、仲も悪くない。

 爺も身寄りが無いので、五平の存在がありがたく、便利だったのだろう。

 思い出してみれば、初めから相談すれば早かったと、悔しい思いが湧いてくる。

 まだ夜明け前だが、朝の早い爺の事、きっと起きている筈だ。

「こういう時こそ、あの爺を使わにゃあ、いつ使うんでい」

 五平は心を決めると、後はいつも通りの快速で、家路を急いだ。


 爺は思った通りすでに目を覚ましており、五平が行った時には、井戸の前で顔を洗っている最中だった。

 この爺は身奇麗なのが自慢で、いつも清潔を心がけているのである。それも人から好かれている、理由

の一つなのかもしれない。

「爺さん、ちょっくら教えてくれや」

「おう、五平かい。年寄りをあんまり脅かすもんじゃないぞ。うっかりぽっくり逝ってしまうがな」

 突然現れた五平にも、爺は口にする程驚いている風には見えない。にこにこ顔のまま、手ぬぐいで顔を

拭く。余分な肉の無いすっきりした顔で、好感の持てる笑顔を浮かべている。動きもしっかりしているか

ら、当分呆けるような事はなさそうだ。

 肌寒さの残る早朝の風にも怯む様子無く、爺は五平を連れて自分の部屋に戻った。

 二人とも長屋住まいだから、今更気を使う必要は無い。言ってみれば、この長屋全体が家族のようなも

の。こうして助け合う事で、人は一人前に暮らしていける。

「それでどうしたんだい。珍しいじゃないか、朝っぱらから」

 爺は愛用の煙管(きせる)をくゆらせて、品良く煙を吐く。まあ立派な姿で、そういう所もこの爺は心

得ている。人に尊敬されようと思えば、それなりの努力が必要なのだ。

「おうよ。実は噂のあれをとっちめたいのだけどもよ。一向、俺の前に現れねえ。何とかできねえかな」

「ほうほう、なるほどのう。でも流石のわしも妖は専門外だて、なかなかな・・・」

 爺は煙管を煙草盆に乗せて、それらしい腕組みをしながら、ゆったりと考え始めた。

 普段は辛抱するのが嫌いな五平も、連日化物探しに歩き回るように、変に我慢強い所がある。この時も

爺を焦らせる事無く、黙って待っていた。

 何処かで、そうした方が一番早い事を、知っているのかもしれない。

「さうてな・・・・、こうなれば囮でも立てるかね」

「囮だって」

「そう、囮さ。お前さん以外の者は会ってるのだから、そういう会っている者と似たようなのを連れてき

て、歩かせればいい。それを五平が追って行く。そうすりゃ、出てくるんじゃないかいな」

「おう、そりゃあいい考えだ」

 五平はそれを聞くや否や、お礼の言葉も無しに、鉄砲玉のように飛び出してしまう。

「年寄りには、風が一番堪えるのにな」

 開けっ放しにされた戸を見、爺は溜息を漏らした。

 そういう所が気に入っているのだが、そうだから困る事も多い。

 ま、自分で閉めれば良いのだからと、爺は忘れる事にした。


 飛び出したまでは良かったが、そういえばどうしたら良いか全く考えていなかった事に気付く。

 でも今更爺の所に帰るのも面倒だから、この勢いのまま探し回る事にした。

 噂話をしている者に手当たり次第に話を聞き、これだけ真面目に働けば一財産作れるだろうに、と思え

る程懸命になって話を整理してみると。それを見た者は背格好性別はばらばらだけども、総じて怖がりば

かりだと云う事が解った。

「やっぱ、そうかよ」

 五平は自分の考えとも一致したので、それ以上は考えようとせず、とにかく怖がりを探す事にして、ま

た戸を開けっ放しにしたまま、朝から探しに出かけた。

 この男はやる事さえ決まれば後は飛び出すだけで、一度動き出せば誰にも止められないのである。

 まあ、誰も関わりたくなかった、という方が正確かもしれないが。

「怖がりっていやあ、大作がおるが」

 長屋の知り合いに、五平と正反対の性格と図体をしている、大作という男が居る。

 これがまあ名前と全く別で、ちんちくりんな子供のような身体をしており、期待を裏切らず弱々しい。

如何にも臆病者ですという心で、始終びくびくと過ごしている。

 付いた名前が、謝り大作。もう誰とどう話そうが、何でもかんでも謝るのだから面倒くさい。悪くもな

いのに、とにかく謝っていれば良いとでも思うのか、最後はいつも謝られて終わる。

 真に面倒くさい。

 それでも弱々しさが愛嬌になるのか、長屋の者からはそれなりに好かれ。自分に無い物に憧れるのか、

大作は五平を、長屋に住む者の中でもただ一人だけ尊敬していた。

「そういや、あいつ外に出てねえな」

 それだけ怖がりなのに、不思議と噂のあれに出会っていないのは、怖がりが過ぎて、全く外に出なくな

ってしまっていたからだった。

 流石の化物も、閉じ篭った人間にはどうしょうもない。

 五平はどう連れ出すかと思案したが、結局は強引に連れ出す事にし、よく考えもせず、大作の部屋に踏

み入れた。考えるのは性に合わない。

「おい、大作や、大作よ」

「ひぃいいゃあああああっ!!!」

 勢い良く戸を開けると、茄子から搾り出したようなおかしな悲鳴が聴こえ。

「なんまんだす、なんまんだす、なんまんだす・・・・・・・・・・」

 延々とお経らしき言葉を唱える声が聴こえて来る。

「おう、行くぜ、大作」

「ひゃああああっ!! あ、五平の兄貴! な、何するんですか。え、あれ、ああ、なんだか知りません

が、ごめんなさいごめんなさい、勘弁してください」

 平謝りに謝り続ける大作をむんずと掴み、五平は来た時と同じく、勢い良く外へ飛び出す。

「お、おたすけえぇぇぇぇぇっ・・・・・」

 大作の言葉など、初めから聞いていない。声は確かに耳に入っていたが、内容までは一々聞いていなか

った。聞く必要すら、感じてしないのかもしれない。

 しかしそんな五平も、随分走った後、そういえば今はまだ朝、しかも早朝に近い時刻である事に気付く。

 噂の奴は夜更けにしか出ない。今からどれだけ走ったとて、出会える訳が無い。

 しかも爺の言葉を無視し、隠れるどころか大作を小脇に抱えて走っているもんだから、そりゃあ出よう

にも出れるものではないだろう。

「しゃあねえ、爺のとこで飯でもせびるか」

 自分の部屋に帰れば良いのだが、噂を聞いて以来、満足に働いていない為、食い物が底をついている。

 こういう時は爺の手伝いをし、代わりに食わせてもらうのが一番だ。爺はいつも誰かの相談を受けてい

るから、腕っ節の強い五平が出来る事もそこそこある。その上、今は大作も居るのだから、仕事にも困ら

ないだろう。

 大作はこんなだが、腕の良い細工師である。だから家に閉じ籠れる訳で、手先も勿論器用である。大作

も仕事には困らない。

「よっしゃあ、行くぜい」

 景気の良いのが好きな五平は、目を回しぐったりしている大作を無視し、そのまま旋風(つむじ)のよ

うに、爺の居る長屋へと戻って行った。


 五平と大作は爺の所で日暮れまで働き、引換にたっぷり飯をもらい、一休みして長屋を出た。

 辺りはすっかり闇に包まれ、番屋に灯る明かりだけが唯一の光。これならば、問題ないだろう。

 特に当てがある訳では無いが、歩いていれば出くわす筈だ。

「後ろから付いてくから心配するな」

 怯え泣き出す大作を無理矢理説得し、びくびくと絵に描いたような小心者姿で歩く大作の後ろを、五平

は静かに付いて行く。

 大作は怖がりだが、さりとて夜道に慣れていない訳ではない。提灯やら贅沢な物とは縁が無し、貧乏人

は皆多少夜目が利く。酔っ払いでもしない限りは、川に落ちるような事もあるまい。

「なんまんだぶ、なんまんなむ・・・・・・・・・・」

 大作は繰り返し繰り返しお経のようなものを唱えて歩く。

 それさえ唱えていれば、仏様がいつ如何なる時も救った下さるのだと、亡くなった両親に教えられてい

たせいだ。五平は全くそんなものを信じていなかったが、大作はそれを唱えるとほんの少しだが勇気が出

るらしい。

 怖い物知らずの五平ではあったが、そういうのを馬鹿にはしなかった。ご利益なんざ信じていないが、

実際役に立っているなら、それは認める。ようするに証があれば、五平も否定しないのである。

 ひょっとすれば、ある意味一番素直で現時的な人間なのかもしれない。

 追跡も初めは隠れているというものじゃなく、派手な音を立てたり、大作を励ます為に遠慮なく大声で

怒鳴ったりと、全く意味をなさないものであったが。暫くすると、それなりに慣れたのだろう、月明かり

さえなければ、何となく隠れてはいられるようになってきた。

 そうして。

「やっぱり駄目なのか」

 などと思い始めた丑三つ時、びくびくしながらも、地道に歩いていた大作が、突然足を止めた。

 不審に思って目を細めて窺(うかが)うと、まだ大分先の方だが、何か大きな影のような物が見える。

 しかし良く見えない。ここからでは遠すぎる。そこで五平は、今更隠れる事も無いだろうと思い、静か

にだが大胆に近付く事にした。

 ある程度まで近付くと、どうやらそれが人影らしい事が解った。人がそこに突っ立って、何をするでも

なく、大作の方を見ている。

「ひっ、ひっ、ひっ」

 大作は笑い声のような悲鳴を漏らし、それでも五平に義理立てているのか、逃げようとはしない。これ

はこれで、なかなか根性のある男なのだろう。

「なんまんだぶ、なんまんだむ」

 こっちまで聴こえるくらいな声で唱えながら、大作がゆっくりとだが、人影に向かって行く。普通なら

逃げる所だが、今日は妖怪退治という事もあり、怖い物見たさがあったのかどうか。

 おそらく、見ないと気になって仕方なかったのだろう。

 怖がりだからこそ、余計に気になる。怖がりであればある程、知らなくていいものを知りたがる。

 おかしな話だが。考えてみれば、だからこそ怖がりなのかもしれない。

 五平も大作を追うように、ぐっと側まで寄った。

 しかし隠れる事は忘れていない。申し訳程度だとしても、一応物陰に隠れながら、近付く。

 人影は動かない。

「も、もうし、ど、ど、どうかされ、されまし、はいな」

 根性を見せても、震えまでは止まらない。

 何を言っているのかは解らないが、人影はこう答えた。

「いえ、ちょいと落し物をしましてね」

 月がゆっくりと顔を出し、月明かりが人影を照らす。

 大作も五平も息をのんだ。

 そこにはどこぞの太夫(たゆう)かと思うような、とんでもない佳人(かじん)がいた。

 夜鷹(よたか)かとも思ったが、しかしそういう風体ではない。如何にも怪しいが、それを忘れるよう

な美しい女が、何故か片手で片目を抑えながら、何かを探すように、地面を見ている。

 初め大作を見ていたと思ったのは、五平の気のせいだったのだろうか。

「そりゃあいけねえ、俺も探すが」

 大作も良い女には弱い。空元気を出して、少しでも良い所を見せようと、勇気をふりしぼって、必死に

探し始める。

 五平は、流石にこんな夜分におかしいだろう、と思い、じっと見ていたが、それ以上何が起こるでもな

く、二人であちらこちらを探す。

 こりゃあ本当にただの女かと思い、今晩はもう諦めるか、と思ったその矢先、大作が思い出したように、

こんな事を言った。

「姉さん、そういや、何を探してんだい」

 すると姉さんは相変わらず片目を隠しながら。

「はい、大事な物なんです」

 それでは解らないから、もう一度大作が問う。

「そりゃあ解るけど、どんな物なんだい」

「へえ、それは誰でも持っているもので」

「ふんふん」

「大抵二つ持っているものなんです」

「なんだい、謎賭けかい、よしてくれよ」

 大作もようやく何かおかしい事に気付いたようで、ちょっと怒ったように女を見た。

 そして驚く。女がいつの間にか大作のすぐ側に居て、じっと大作の顔を見ていたのだ。相変わらず、片

目を隠したままだが、何だかさっきまでと雰囲気が違う。

 大作は体中が震えてくるのを感じた。

「な、なんだい、姉さん」

「いいええ、ようやく見付かったもので」

「そ、そりゃ良かった。で、一体何処に、それはあるんだい」

「はい、私のすぐ目の前に」

「め、目の前っていうと・・・、それはつまり・・・」

「そう、あんたのをお一つ、おくれでないかい」

 女が両手を伸ばして大作に掴みかかる。その片目には目玉が無く、ぽっかりと夜よりも暗い穴が空いて

いた。

「ひぇえええええっ、お、おたすけえええええええっっっ!!!」

 悲鳴は上がるが、大作は動けない。まるで何かに押さえられているように、ゆっくりと女の手が伸びて

くるのを待っている。何をどう動かそうとしても、ぴくりとも動かない。

「化物女め、そうはさせねえッ!!」

 我に返った五平が、慌てて物陰から飛び出す。

「ちッ」

 すると女は舌打を残し、何処かにすうっと消えてしまった。

 後には震える涙目の大作と、呆然と取り残された五平の姿だけがそこに残された。


 五平は腰を抜かした大作を送り届けた後、相談する為、再び爺の部屋を訪れた。

 流石の五平も、目の前で消えてしまうような相手では分が悪い。どんなカラクリがあるのかは知らない

が、見えない者は追いようがない。

 それに金縛りの事もある。大作は泣きながら、動けない動けなかったんだ、と何度も言った。それが嘘

とは思えない。

 不思議な力の前では、途方に暮れるしかないのである。

「なるほどなあ」

 一通り話を聞き終え、爺は煙草の煙と溜息を同時に吐くような心持で、ぼそっと呟く。

 この様子では大して驚いてはいないようだ。あまりにも反応が薄いので、とうとう呆けたかと思ったく

らいである。

「なんでえ、ひょっとすりゃあ、よくある話なのかい」

 すると爺はふと我に返ったように五平の方へ向き直り。

「いんや、よくある話じゃあないな。そんな事がよくあれば、人間様もこう大手を振って生きてられまい

の。でもまあ、わしも長く生きとるから、聞いた事が無い訳ではない」

「そうか、じゃあどうすりゃ良いんだ。聞いた事があるなら、何か知ってるだろよ」

「うーむ、そう言われてもな。こればっかりは、どうしようもないさな」

 爺がほうっと煙を吐く。

 五平は少し苛々してきた。

「おい、気を持たせておいて、そりゃあねえんじゃねえか」

「おう、こりゃあ爺が悪かった。別に邪険にしている訳じゃあないわい。ただ昔を思い出しておっての。

むかーしわしも妙な事に巻き込まれてな。はて、その時、どうしたかいの」

「おいおい、頼むぜ、爺さん」

 爺はぼんやりしているように見えて、実は昔を思い出していたらしい。

 そう言われれば五平も邪魔する訳にはいかないから、暫く黙って待っている事にした。何かの目的の為

ならば、五平は待つ事も厭(いと)わない。むしろ手伝いたいくらいだ。

 化物をあのまま逃がしておけない。

 自分のせいで大作をあんな目にあわせてしまい、そのくせ化物には何も出来ずに逃げられた。これはも

う男としての尊厳の問題である。五平としては、せめて化物退治でもしなければ、どうにも収まりつかず、

大作にも申し訳が立たない。

 だからじっと待った。

 静かに、待っていた。

 一刻程経った頃だろうか。ようやく爺が思い出し、ある人物を五平に紹介してくれた。

 その人は今もそこに居るか、いや生きているのかすら解らないが。もし生きている、或いは継ぐ者が居

たのなら、きっとその場所に居る筈だと、爺は言った。

 爺の知る限り、その人以外には解決できないだろうとの事。

 僧侶や神主も、最近は質が落ちたもので、化物退治など思いもよらない。唱える祝詞や経文にも、果た

してどの程度の効力があるのか、知れたものではなくなっている。

 しかし爺の言う人物を信用して良いのだろうか。

 胡散臭い話である。爺は嘘を付くような人間ではないが、それでも随分昔の記憶、確かなものとは言え

ない。

 しかし五平にも爺にも他に当ては無かった。ならば、行ってみるしかない。とにかく可能性があるなら

ば、それに賭けてみよう。

 失敗すれば、その時の事だ。可能性があるだけまだましだと、五平は考えた。

 こうして五平は爺の故郷へと向ったのである。

 幸い、そう遠くは無い。近いとは言えないが、一年もかかるような距離ではない。せいぜい一月もあれ

ば、充分に往復出来るだろう。五平の健脚(けんきゃく)ならば、半分近い時間で行けるかもしれない。

 爺でも一月で往復できるのだから、そう時間はかかるまい。

 五平はほとんど無い家財を、全部売り払って何とか旅費をこしらえ、後の事は考えず、とにかく遮二無

二急いだ。

 急げば急ぐだけ旅費が浮く。そしてその旅費が五平の全財産なのである。

 金だけが人生ではないが、生きる為には金が要る。それは五平も変わらない。


 不慣れな道が災いしてか、着くまでに十日もかかってしまった。

 しかし道は解ったから、帰りは早く戻れるだろう。

 五平は爺の話を思い出しながら、教えられたお社へと急ぐ。

 だが初めて見る景色、何処がどうだがさっぱり解らない。

「確か村外れにどうとか言ってたが」

 村人に聞けば良いのかもしれないが、寂れた村で、人っ子一人見えない。ひょっとしたら、もう此処に

は誰も住んでいないんじゃないか、と思えるくらい、静まり返っている。

 それでも寂れているおかげで、暫くきょろきょろと辺りを見回していると、それらしきお社が、少し離

れた場所に見付かった。

「あそこか」

 五平は見付けたお社へと急ぐ。

「何とも古臭いお社だな」

 そこは近付くだけでかびや何かの臭いがしてきそうな、見るからに古そうなお社で、とても人の居るよ

うな気配は無かった。

 流石に気圧される思いがしたが、我慢して戸を開け、中へ入ってみる。

「ごめんくださいよ」

 中は薄暗い。どうやら奥に部屋が在るようで、奥の方に暗い戸口が見える。

 どうにも見え難いので、戸を思いっきり開け、ずいっと進む。すると不思議な寒気がする。誰かに見ら

れているような、狙われているような、背筋がぞっとする寒気。

 気のせいだろうとそのまま奥へ進むと、御神体だろうか、何か光る物が祭られているのが解った。

 気になって近付くと、それはくぐもった鏡で、開かれた戸から入る光を、ゆるやかに反射している。

 もっと良く見ようとすると、突然声がかかった。

「どなたですか」

「あっ、ごめんなさいよ。俺は五平ってもんですが」

「近くの方ではありませんね。何か御用ですか」

 声に驚きつつ、そちらを向くと、何やら黒い影のような男がひっそりと立っている。

 顔がよく見えないが、背が高く、細く、何やら男の視線を受けると、肌がぴりぴりと寒気立つ。お社に

入った時に感じた寒気よりも、強く感じる。

 五平は良く解らない違和感を胸に抱きながら、訪れた目的を男に述べた。

「なるほど、それはそれは。では、少しお待ちいただけますか」

「へ、へい」

 男が奥へ引っ込んだかと思うと、すぐに出て来た。何という早業か、すっかり旅装を整えている。まる

で初めから準備していたとしか思えない早さだ。

「行きましょうか」

「へ、へい」

 五平は寒気が強まるのを感じながら、何故か男に先導されるようにして、帰り道を急いだのである。


 男は道中始終無言で、結局彼が誰なのか、何をしているのか、そしてそもそもあのお社に関係ある人間

かどうか、何一つ話してはくれなかった。

 五平は一度ならず聞こうとしたのだが、どうしても口が開かない。

 しまいには無理矢理抉じ開けてみたが、不思議な事に、一つも言葉を発せなかった。

 不安になる。

 寺社に居るから、その関係の人間だとは限らない。寂れた寺社に勝手に住み着くような人間は、当時腐

る程居た。

 丁度良い雨凌ぎになるし、そのまま居ついて勝手に坊主か神主とでも名乗り、適当にそれらしいものを

唱えていれば、いつの間にか住職として認められてしまう場合もある。

 何か証が要るでも無し、本人がそう言っていれば、そのように受け取るしかない。取り合えずそれらし

い感じであれば、怪しみはするが、表立って文句を言うような者は少なかった。

 だからそのような素性の知れぬ、流れ神主、流れ坊主、のような者は、少なくはなかったのである。

 そういう類であれば、当然何の法力も神通力も無いので、何だかんだ言われた挙句、最後には金をふん

だくられて終わり、という事になりかねない。

 五平はここまで来て騙されては阿呆らしいと思うのだが、やはりどう足掻いても、声を発せない。何も

言い出せぬ何かが、この男にはあったのである。

 絶対的な畏怖というべきか、子供が親に持つ恐れ、人が神に持つ畏れ、不可解な事に対する怖れ、そう

いうものをひしひしと感じる。

 流石の五平も諦め。何か知らないが、力だけはあるのだろうと思い直し、黙って従う事にした。

 よく解らないモノを相手にするには、よく解らない者でないといけないのかもしれないと、そんな風に

思ったのである。

「取り合えず、うちへ来てくださえ」

 こうして無事街に戻り、疲れているだろうからと、誘ってみると。

「いえ、すぐに向いましょう」

 丁度夜更け近くであったせいか、男は素っ気無く断り。これまた不思議な事に、まるで知っている道を

先導するかのように、何処かへさっさと歩いて行く。

 五平がひょっとしたらこの街の者ではないかと思ったくらい、それは自然で、迷う素振りすら見せなか

った。

 五平は色々な事が気になって仕方なく、一つずつ問うてみたかったのだが、どうしてもそれが出来ない

雰囲気を、男はかもし出し。彼の邪魔をする事は、罪であるかのように思わせられてしまう。

 結局ここでも何一つ聞く事が出来ず、五平は収まりの悪い気持のまま、男に続いた。

「まだ少しありますか。暫く待ちましょう」

 そこは紛れも無く例の化物と出会った場所で、何故案内もしないのに解るのかと、今度ははっきりと五

平の中に、男に対する畏れが生まれた。

 それは拭いようが無く、しっかりと心の奥底に達し、決して抜けぬ棘として、生涯残る事になるが。今

の五平は何も解らず、ただ男に従うのみであった。


 見る間に人通りが減り、完全に日が落ちる頃には、すっかり消えてしまう。

 夜鳴き蕎麦の姿も見えず、がらんどうの様な空間だけが残されている。

 平素からそうなのか。それとも噂のせいなのか。はたまた今日だけがそうなのかは解らない。ただ、前

の時も無人だった事を思うと、普段からあまり人通りは多くないのだろうと思える。

 五平は何も出来ず、その場にじっと待っていた。

 不思議と一人だけで待っているような気がしている。まるでこの世から切り離されてしまったかのよう

である。

 ここには男だけが必要で、五平は居ないどころか、邪魔者であるかのようにすら感じた。何故かは解

らないが、この男の傍には、決して誰も居てはいけないような気がするのである。

「・・・・・・ひっ」

 五平は震えてくるのを感じた。

 どこからか解らない。身体の奥底から何かが目覚め、それが身体と心を震えさせている。

 空間が冷えている。ぞっとする程の寒気だが、吹く風は優しげでどうと云う事もなく、一体何が寒いと

いうのだろう。確かに何かが冷えている。

「ふるふるふるえ、ふるふるえ」

 男が何事か唱え始めていた。

 何を言っているのかは良く解らない。ただふるふるとだけ聴こえるが、そんな事を言っているのではな

い事も同時に解る。不思議な感覚だ。

 結局、この男の事は何一つ解りはしないのだろう。

 ふと目を向けると、例の女が居る。

 前と同じく片目を隠しているが、どうも顔が強張っているように見える。

 丁度五平と同じく、何かを畏れているようでもあり、元々そういう顔であったようでもあるが、よく解

らない。

 記憶が定かではない。何かが違うが、その何かが解らない。

「ふるふるふるえ、ふるふるえ」

 男の朗々とした声だけが夜風に流れ、場を支配していく。

 五平は動けない。多分女も動けないのだろう。

 そう思えば、女は五平の鏡であった。

 女の不可解な顔は、五平の浮かべている顔なのだろう。

 この時だけは、五平も女も同じであった。異質なのはただ男だけ。いや、男以外の全てが異質であった

のか。それとも男だけが異質であったのか。女ではなしに、男だけが異質であったのかもしれない。

「・・・・あ、あああ・・あ」

 女が懇願するように男を見たが、男は何も示さない。

 次にまるで助けを乞うようにしてこちらを向くが、勿論五平も動けない。

 他には何も無い。ただひたすらに怖かった。

「少々遊びが過ぎたようだ。私の耳に入るとは、気の毒に」

 男はふるふる呟くのを止めており、いつの間にか女のすぐ傍に居た。

 丁度それは、あの時女がいつの間にか大作の傍に居たのと、同じような調子である。

 凛とした目で女を見るその様は、まるで枯葉でも眺める風で、一切の何モノも込められておらず。男の

居た後には、ただ寒気だけが残る。

「悪いが、いただいておくよ」

 男が無造作に女から片目を抜き取った。

 埃でも取るような、あまりにも簡単な動作だ。

 すると女は。

「ひぃっ!」

 という叫び声を残し、前と同じようにふうっと溶けるように消えてしまった。

 ただ前と違ったのは、理由は知らないが、おそらくもう二度と出てくる事はないだろう、とそんな風に

思えた事である。

 それは余りにも理不尽でありながら、決して抗いようのない事実と思え。五平はただ死という事だけを

想わされていた。

「さて、私はこれにて帰らせていただきますよ。まあ、また何かあれば、来て下さい。例えそれが、何十

年、何百年後だとしても」

「あ、ありがとうございます。俺ではいくらも稼げませんが、お礼は必ず・・・・」

「いえ、お礼はもういただきました」

「え、でも、まだ何も・・・」

「見て御覧なさい。綺麗でしょう。私はこれだけが楽しみでしてね」

 男はぞっとするような顔で手にした目玉を眺め、それを見た五平は、ふうっと何かが抜けて逝くのを感

じていた。


 奇妙な噂がぱったりと途絶え、大作も元に戻り、相変わらずの日々を過ごしている。

 何かが抜けるのを感じた後、五平はいつの間にか部屋に戻されていたが、よく覚えていない。

 ただもう二度と出歩くのを止め、余計な事にかかわる事を嫌い、真面目に仕事に打ち込んでいる。

 幸いな事にもう二度とあの男と会うことは無かったが。もう遅い、お前は一生戻らない何かを失ってし

まったのだ、という気がする。

 ときたまふと思う。本当に触れてはいけないモノは、そう言う風にして存在しているのかもしれないと。

 五平の抜けてしまった何かも、そこへ逝ってしまったのだろう。

 二度と取り戻せない何かへ。

 あの男の居る場所へ。

 寒気が未だ止まらない。




EXIT