邪魔だ坊


 深夜の山奥、これほど人が心細く思える場所は、他にそうあるものではない。

 一人の坊主が念仏を唱えながら独り歩いているが、まだ若い僧故、恐怖心を取り除くまでの力も集中力

も無く、しきりに辺りを気にしている。

 その表情は強張り、がさりと音がすれば鬼でも見たかのように目を開き、石を踏んでは無様な程に転げ

まわる。それから再び延々と念仏を唱え続ける。

 恐怖心を祓う為でも、闇に潜む邪気を祓う為でも無く。単に怖いからこそ念仏を唱え、仏にすがってい

るのだ。

 本来は悟りを啓く為、己が心を研ぎ澄まし、霊妙なる境地へ辿り着かんが為に、念仏を唱える。衆生を

救うが為、ありがたい御仏の教えを唱えながら、歩く事もあろう。人を仏の道へと導くのが、彼らの仕事

であり、人の霊魂を鎮めるのもその役目である。

 だが間違っても、僧籍に身を置く者が、自己救済の為に教えを唱えるような事をしてはならない。

 一人の人間ならともかくも、彼は仏に仕えし身、仏弟子である。仏の代わりに衆生を助け、仏に到る為

に修行をしている。その坊主が、闇夜が怖いから念仏を唱えるなどと、あってはならない話だ。己が心に

乱される坊主など、何とも情けない話である。

 そのような法力を持たない、徳の薄い者が教を唱えれば、かえって魔を誘う事になる。仏の教えは魔を

も退けるが、それも徳あっての事。徳無ければ、無用な怒りを買う。

 信心の無い読経などは、悪戯に魔を刺激してしまうものだ。

「ぶつぶつぶつぶつぶつ」

 坊主の教は止む事が無い。か細く、自信の欠片も無いその声は、もはや言葉としての役目を果たしてい

るかどうか。何を言っているのか判別出来ず、ただ泣いているようにも思える。

 それでも何かしらの加護はあったのか、男の前にふと一件の小屋が現れた。

 ずっと以前から建っていたに違いないのだが。気のせいか、突然ぽうっと現れたように感じたのである。

 樵(きこり)、或いは山菜積みでも住んでいるのだろうか。古ぼけたあばら屋であったが、どうやら雨

風を多少は凌げそうだ。

 坊主は疑問を拭い去れた訳ではなかったが。これも仏の加護と手前勝手に思い込み、急いで小屋の方へ

と向った。

 その時にはもう念仏を唱える事も忘れてしまっている。

「もうし、もうし」

 軽く戸を叩いてみるが、一向に返事の来る様子は無い。

 坊主は暫く待って後、決心したようにして、おそるおそる戸を開いてみた。

 戸はひっかかりもなく、すっと横に開く。中は真っ暗で、人の気配も無い。捨てられた小屋か、それと

も主が不在なだけだろうか。

 思案したが、結局は誘惑に勝てず、坊主はそこに泊まる事を決めた。例え主が帰ってきても、僧の身で

あれば、無下には扱われまいという浮ついた心もある。

 徳のある僧など、いつの時代も極々僅かしかいないものらしい。

 坊主は遠慮なく真ん中に座り、蓄えてあった薪を使って火を起こした。

 小気味の良い音がはぜ、小屋内が薄明るく灯される。食料や水の類は見えなかったが、思った以上にし

っかりした作りで、これなら充分に暖も取れ、今夜は屋根の下、ゆっくりと眠れそうである。

「ありがたや、これも御仏のご加護に違いあるまい」

 助かったと思えば、気も大きくなるもので。安心し、ふと思い出したように一通り教を唱えた後、その

ままごろりと横になり、火もそのままにして、まぶたを閉じ、ゆっくりとした呼吸へと変えた。

 疲れもあって程無く意識がうっすらとしていき、坊主は安穏として眠り始める。

 それからどれぐらい経ったであろう。突然。

「邪魔だ、邪魔だ」

 何かで濁らせたような声がし、坊主は隅へと押しやられてしまう。

「何だ、何事か」

 当然目が覚め、辺りを見回すが、何も見えない、聴こえない。囲炉裏の火もとうに消え、燃えかすのよ

うな残り火が、辛うじて微かな光を放っているのみである。

 暫くそうしていたが、物音一つ聴こえない。

 しかし確実に自分は囲炉裏から遠ざけられていた。

「ふうむ、自分で転がり、そのせいで起きてしまったのだろうか」

 よく解らないが、とにかく眠い。考えるのは明日にしようと、囲炉裏の側に戻り、暖かみの残る場所に

て、ゆっくりと確認するようにして目を閉じる。

 そして坊主の吐く息が寝息に変わってきた頃。

「邪魔だ、邪魔だ」

 先程よりも強い力で、坊主は弾き飛ばされた。

 間違いない。自分で転がるようなものではない。確かに坊主は突き飛ばされたのだ。

「あ、あやかしか!」

 しかしどこをどう見ても、やはり何も目に映らない、聴こえない。

 坊主は恐怖に犯されていたが、それだけにそれを認めたくなく。気のせいだと自分に言い聞かせ。囲炉

裏の側にも行かず、その場で目を瞑った。

 見えなければ、それは無いのと同じだとでも、言うように。

 だがそんな事で恐怖から逃れられるはずはなく。身体が震えて、どうしても眠れない。そこで一つ試し

てみる事にした。もしこれで何も起こらなければ、気のせいで終われる。逆に何かあったらと思うが、そ

うでもしないととても眠れそうになかったのである。

 坊主は目を閉じたまま、眠ったような息を立てる。物真似としては下手くそであったが、それは充分に

効果があった。

「邪魔だ、邪魔だ」

「わッ!?」

 ごろりと転がされる。

「で、出たッ!!」

「邪魔だ、邪魔だッ!」

 ごろりと突き転がされる。

「や、止めてくれ、止めてくれ」

「邪魔だ、邪魔だ」

 ごろりごろりと何度も突き飛ばされ。何者かはもはや隠れるつもりも無いらしく、坊主はあっと言う間

に壁まで転がされてしまった。

 坊主の身体はぶるぶると奮え、痛みと恐怖でいつまでも動けない。

「邪魔だ、邪魔だ」

「邪魔だ、邪魔だ」

「邪魔だ、邪魔だ」

「邪魔だ、邪魔だ」

 端まで行っても、声は止まらない。坊主はその度に突き飛ばされ、壁に何度も何度も打ち付けられた。

「邪魔だ、邪魔だ」

「邪魔だ、邪魔だ」

「邪魔だ、邪魔だ」

「邪魔だ、邪魔だ」

「ウハハハハハハハハハハハハハッ!!!!!」

 そうして最後にどすんと強く圧され、坊主は薄い壁を突き破って外まで放り出されてしまう。

「くそ坊主が、目障りじゃ、消えてしまえ! ウハハハハハハ、ウハハハハハハ、ウハハハハハハハッ!」

 坊主は壁を突き破っても止まらず、物凄い勢いで転がっていき、あまりの勢いと恐怖でとうとう気を失

ってしまった。濁った笑い声だけが、愉快そうに辺りに響き渡る。

 薄れた意識の中、その声がただただ怖ろしく、いつまでも笑い声だけが自分の中をこだまし。坊主はま

るで自分がその笑い声を鳴らしているかのような、そんな気持ちのまま、闇夜に溶けて逝った。


 坊主が気付いた時、日はすでに高く、何処を向いても、彼が見た小屋などは影も形も見当たらなかった。

 ある程度の見当を付け、その方角を辿ってみたりもしたが。見覚えのある場所は見付けても、どうして

もその小屋だけは見付からない。

 付近の村で聞いてみると、その妖怪は邪魔だ坊と呼ばれ、この界隈ではよく知られているという。

 特に坊主や身分のある者が狙われやすく、酷い時には一晩中転がされ続け、それでもまだ飽き足らない

のか、夜が来る度にあの笑い声が聞こえ、幾夜も幾夜も。

「邪魔だ、邪魔だ」

 と耳元で声がする事もあるという。

 お坊様はまだ楽な方ですわ、などと村人が笑っていたものだから、もう少しで腹を立てて、思い切り殴

ってしまう所だった。

 しかし村人から、この辺りに居るとまた狙われるかもしれませんよ、という言葉を聞くと怒りも忘れて

がたがたと震え出し。即座に村を飛び出して、一目散に反対方向へ駆けて行ってしまった。

 初めからその元気を出していれば、夜中に山奥で困る事もなく、少々疲れはしても、無事に麓の村に辿

り着き、邪魔だ坊に邪魔にされる事もなかったであろうに。

 村人達は坊主を見て大笑いし、いつまでもその話は、その村で語り継がれている。彼らからすれば、坊

主ほど滑稽な存在はないそうだ。

 邪魔だ坊などというものが出るなどという噂は、坊主に会った村人がこしらえた作り話。単にその坊主

をからかっただけで、まさか必死になって逃げていくとは思わなかった。多分あの坊主は寝ぼけていたか、

或いは狐か狸にでも化かされたのだろうと、そのように村人達は笑いながら噂し、伝え残している。

 だがもしかしたらそれは本当の話で、今もどこかで人知れず、邪魔だ坊が悪戯を繰り返しているのかも

しれない。何が邪魔で、何の為に転がすのか、本当の意味は誰にも伝えられないままで。



                                                            了




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