焔花


 人の想いと共に咲く花、焔花。

 感情を寝床にして成長する不思議な花。

 高揚すれば育ち、消沈すれば干からびる。

 瑞々しくも崩れ落ちるような風情は、人の心の憶測をひっそりと魅了する。

 育てば美々しく咲き誇り。

 干からびるとも、寂びた風情で慰める。

 人の感情の抑制。

 その為にこそある花なのかもしれぬ。



 ある所に焔花を求めて旅立った男が居た。

 あるはずのない物と知りつつ、求めたのには訳がある。

 男には借金があった。

 男自身の物ではない。

 元々は彼の友人の親が借りたものなのだが、その親は才も無いのに商いに手を出して破産し、心労がた

たって亡くなってしまった。

 残った借金は彼らの娘である男の友人に押し付けられ、友人は身売りするよりほかなくなった。

 男はそんな友を放ってはおけず、借金の肩代わりを申し出たのである。

 幸いというべきか、男は天涯孤独の身であり、親しい親類もいない。

 何をしようと迷惑をかける者も、口うるさい者もいなかった。

 だが家族や親しい親類がいないという事は、頼れる者がいないという事でもある。

 それに男は裕福ではなかった。

 友人の背負った借金はあれよあれよという間に膨大なものになり、男の財産ではとてもまかないきれない。

 それでも必死に訴えていると金貸しも根負けしたのか一つの条件を持ち出してきた。

 焔花である。

 男の国の王は珍しい物に目がなく、様々な物品に賞金を課している。

 それは莫大なもので、焔花の賞金を得られれば借金を返すにも余りある財を得る事ができた。

 しかし焔花など誰も見た者はいないし、実際にあるのかどうかすらも解らない。

 金貸しも馬鹿ではない。この世に存在しない物を取って来いなどとは言わない。一計があった。

 何も本当に焔花を探してくる必要は無い。そんな花は誰も見た事はないし、聞いた事もない、本来探し

ようがない花だ。

 だが逆を言えば誰も本物を知らないという事だ。

 だからなんでも良い。それらしい物を見付け、王さえ納得させられたなら、賞金は手に入る。

 嘘でも何でもそれを信じさせればそれが本物になるのだ。

 いいか、三年だけ待ってやる。その間はお前の友には手を出さない。

 その三年の間に焔花だと王を納得させられるような物を探して来い。

 金貸しの話は無茶苦茶であったが、男はその案を受け容れるしかなかった。

 それに言われてみればその通りだ。決してできない話ではない。王さえ納得させられれば良いのだ。

 男はすぐさま家財一切から住むべき家、はては田畑まで売り払って旅費をこしらえ、友人に別れを告げ、

当てもない旅へ出る事になった。

 三年という月日は長いようで短い。一刻のゆうよもなかったのだ。



 男はまず都を目指した。

 人が集まる場所に情報は集まる。

 男の住む町も小さくはないが、しょせんは田舎町、高が知れている。誰も知らない物を探すのであれば、

まず都へ行くのが近道だろう。

 最近遠国との交易も始まったという噂であるし、もし遠国の商人と話す事ができれば、有力な手がかり

を得られるかもしれない。

 少なくともこの国で得られるような物では、王に焔花として納得させられはしない。

 都への道のりは遠いが、男にはなんでもない道のりだ。

 元々足腰は丈夫で、小さな頃から力仕事をして生計を立てていた事もあり、程よく筋肉で包まれた大柄

な体は頑丈で少々な事ではびくともしない。

 盗賊や夜盗の類と出会っても少数ならば引けを取らないし、さっさと逃げればどうにでもなった。

 毎日真面目に働いてきた男に追い付ける足など、その手の者達が持ちようもない。

 色々あったが旅は順調に進み、無事都までたどり付く事ができたのである。

 都は男を圧倒した。

 人の数、店に並ぶ見た事も無い品の数々、聞いた事もない言葉、その全てが宝石のようにきらきらと男

の目に耳に飛び込んでくる。

 男はしばし呆然と立ち尽くしていたが、少しすると友人の顔を思い出し、はっと我に返って、まずは酒

場を探す事にした。

 幸い、ここまでほとんど徒歩で来たので金は充分に残っている。

 みすぼらしい家と痩せた土地でも売ればそれなりの値が付く。

 男は財布をしっかりとにぎったまま、それらしき店へと入っていった。

 店は外以上に賑わいを見せ、かいだ事もないような香りがみっしりと詰まっていた。

 中にはそむけたくなるような臭いもあったが、大半は心地よく、心をとろかすようなものだった。

 それに酌をする女の美しい事美しい事。

 見ているだけで思わず顔がほころび、口元がゆがむ。

 男は知らず知らずの内にお金をどんどんと使ってしまっていた。

 だが無駄に費やした訳ではない。しっかりと情報を仕入れ、遠国の商人と親しいという客と仲良くなっ

て、簡単な紹介状をもらっていた。

 大分使い込んでしまったが、友を助ける為なら高くはない。

 男は満足そうな顔で店を出、安宿で一晩明かし、早朝から教えられた場所へと向かったのである。

 教わった商人の家は途方もなく大きく美しく、まるで王侯貴族のそれであり、これほどの富を持つ者な

らば焔花に足る珍しい花を知っているだろうと思わせた。

 だがそんな男を待っていたのは門前払いである。

 男がまだ酒の臭いをまとっていたのも悪かったが、そもそももらった紹介状がまったく役に立たなかっ

たのである。

 門番はその紹介状を読んでからあわれんだ目で男を見、お前はだまされたのだと言った。

 そもそもそこに書かれていたのは文字ですらない。男はほとんど字が読めなかったのでそんな事すら気

付けなかった。

 門番の話しによれば、年に数回このような事があるという。

 あまりの事に呆然とし、その後に泣き崩れた男をさすがに見ていられなかったのか、門番は少しやわら

かい口調になってなぐさめてくれたが、結局通してはくれなかった。

 お前を通しても主人は会わないだろうし、門番が厳罰を受ける。かわいそうだとは思うが、どうにもな

らないのだと。

 男はそれでも通してくれと頼んだが、門番はいい加減うるさく思ったのか、そうする方が優しさと考え

たのか、大きな拳で男を殴りつけて追い払い、それ以降は話を聞いてくれようとはしなかった。

 男はもうどうして良いのか解らなくなってしまったが、確かに門番の言う通りである。例え主人と会っ

たとしても、追い返されるだけだろう。

 商人が金にもならない貧乏人に時間を割いてくれる訳が無い。

 諦めるしかない。

 だがこれからどうするべきか。

 誰に頼めば良いのか。

 考えに考えた末、男は港に行こうと考えた。

 王にこれは焔花だと信じさせる為には、王ですら見た事がない程美しい花が必要だ。

 そんな花が国内にあるとは思えない。どちらにしても外国へ、それも遠い遠い国へ行く必要がある。

 そう、初めから行くべき場所は決まっていたのだ。

 遠国へ行くとなれば船を用いるよりほかない。

 男は涙を拭いて港へと向かった。

 色々あった末、男は無事船に乗る事ができた。

 ただし客としてではない。人足としてである。

 遠国は文字通り遠く、船を用いても片道に半年という時間がかかる。行って帰るだけで一年という時間

がかかり、それだけの時間を船で過ごすには途方も無いお金がかかる。

 それこそ王侯貴族でもなければ払えない金額である。

 男が持てるようなお金では片道の運賃すら支払えない。

 酒場で使っていようがいまいが、元々足りないのである。

 人足になるくらいしか方法はなかった。

 幸い、次の船は一月先だという。それまで必死に働けば少しはお金もたまるだろう。

 船に乗った所で遠国へ無事たどり着ける保証はなく。また着いた所で焔花に代わる花を見付けられる保

証もなかったが、他に選択肢は無い。

 男は無事見付けられる事を信じ、懸命に働いた。

 友の顔をはげみにして。



 一ヵ月後、船は無事出港した。

 この間に男は仕事ぶりを認められ、十人頭の役をもらっている。

 給金にそう差がある訳ではないが、人から信頼された証であり、今の男にとっては大きな慰めだった。

 人足仲間達とも随分仲良くなっている。

 初めはよそ者扱いされていたが、男は素直に教えを乞い、その上真面目に誰よりも働いた。彼らからの

信頼を得るのには時間がかからなかった。

 それを妬む者もいたようだが、その者も男の働きは認めているようで、多少とげとげしい口調にはなっ

ても、表立って邪魔するような事はしていない。

 ただ船酔いには大いに悩まされた。

 時には一日中起き上がる事すらできない日もあった。

 それでも半年の航海で少しずつ慣れていき。遠国へ到着する頃には酔ってはいても支障なく動けるまで

になっていた。

 慣れとは尊ぶべき人の特性である。



 遠国は見た事も無い物で溢れ返っていた。

 男はいくばくかの給金をもらい、人足仲間達に別れを告げ、早速焔花を見付ける為に動き始めた。

 半年の航海生活の中で遠国の言葉を少しだけだが教わっている。

 たどたどしい言葉でも遠国の人は旅人に優しく、必死に聞き取ろうとしてくれ、身振り手振りを交えて

説明し、誰もが親切に応対してくれた。

 勿論、中には相手にしてくれない人も居たが、男はそんな事には慣れっこだ。

 そうしてたくさんの人達に話を聞いたのだが、良い情報は得られていない。

 たまにそれらしき話を聞いても、実物を見るととても焔花と思えるような花ではなかった。

 男は途方にくれた。

 時間も金も限られている。早く見付け出さなければならないのに、手がかりがない。

 一体自分は何の為にこんな所にまできたのか。

 そんな風に悩む事も多かったが、男はそれでも辛抱強く焔花を探した。

 一月もするとそんな男は街の噂となり、親切な人はわざわざ男を捜してそれらしき情報を伝えてくれる

ようになった。

 そのほとんどは役に立たない情報だったが、ある年寄りから一つ興味深い話を聞く事ができた。

 少し離れた所に大きな山が連なる場所があり、そこは仙人達の修行場になっている。

 その山の中に世にも珍しい赤い花が咲く高い高い山があり、仙人達はその花の蜜を吸って仙力をたくわ

えているらしい。

 だがその花を得られるのは仙人となって悟りを啓いた者だけで、普通の人間は見る事さえ叶わぬとか。

 どこにでもありそうな眉唾話にも思えたが、これだけ話を聞いてもこの一つしか出なかったのだ。この

ままこの場所で頑張っても良い情報は得られまい。

 男はその話に賭けてみる事にした。

 年寄りも詳しい事は知らなかったようだが、古い記憶をだどり、どうにかその方角だけは教えてくれた。

 例えそれがただの噂であっても、高い高い山ならば誰も知らぬ花が咲いていてもおかしくはない。

 途上で死ぬかもしれないが、あるとすればそこだろう。

 男は覚悟を決めた。



 山を見付けるのにはそれほど苦労しなかった。

 大きな山という目印があるので、方角だけ解れば何とかなる。

 そこは話通り大きな山が連なった山脈で、その中でも一際大きな山の麓(ふもと)に小さな村があり、

そこで確かに世にも珍しい赤い花が山頂に咲いているという話を聞く事ができた。

 ただし村人はその大山を神聖視、というよりは恐怖を抱いており、誰も登った事が無いのだそうだ。

 以前は誰でも登れるような山だったのだが、いつ頃からか邪仙が住み着き、登山者に悪さをするように

なったようで、今では登る者すら稀だという。

 そんな噂があるならもう少し広まっていても不思議はないように思えたが、何でも犠牲者を一人でも少

なくする為に村人達が団結してその秘密を守っているらしい。

 どんな噂でも流れれば人が来るものだからと。

 男は何だか腑(ふ)に落ちない気持ちでいっぱいになったが。まあそういうものかと思い、一晩宿を借

りて、翌日登ってみる事にした。

 村人は皆親切で、宿代も取らず、食事や湯まで頼みもしないので与えてくれた。

 男は旅の疲れもあったのか、湯で体を拭いた後はすぐに眠りこけてしまった。

 何だか声がする。

 目を開くと辺りは真っ暗なままで、日が昇る気配もない。

 静まり返った夜に人の声はささやきでもよく通る。

 男の耳には色んな声が入ってきた。

 ぼんやりとその声を聞いていたが、その内会話内容が異常である事に気付いた。

 初めは男はどうしたか、もう眠ったのか、まだ起きているのか、というようなものだったのだが。

 そろそろ良い頃合だろう、始末しよう。いや、まだまだ寝込んでからの方がええ。寝ていれば痛みも感

じねえし、せめてもの供養になろうよ。などという話が聞こえてきたのである。

 訳が解らなかったが、このままでは危険である事ははっきりしていたので、そっと身支度を整え、人の

声から離れるようにして家を出た。

 外に出ると闇夜にも人の気配がうようよしている。

 村中の人間が集まってきているようだ。

 そしてそれら全ての人間が男を殺す算段をしている。

 正気とは思えない。

 彼らこそが話に聞いた邪仙なのではないかと思ったが、隠れて話を聞いているとそうではない事が解っ

てきた。

 そもそもこの辺りに邪仙など存在していない。それら全ては村人の作り話で、山に誰も登らせない為の

嘘だった。

 彼らは皆仙人になりたくてこの大山に集まってきたのだが、志半ばで断念し、そのまま居付いてしまっ

た者達の末裔で、代々この山々を護ってきた。

 おそらく初めは志を同じくした者達を助けようという心があったのだろうと思う。

 しかしそれがいつの間にか変貌してしまい、護るという意味が変わってきたのだろう。

 仙人を目指す者を助ける為の村が、いつの間にか仙人になる為に必要な焔花を仙人を目指す者達から護

る村になってしまったのだ。

 言い伝えが曲がって伝わってしまう事はよくある事だ。

 当たり前のように旅人を殺す算段をする村人達の声を聞き、男はこの人達がもう随分昔から正気ではな

くなってしまっていたのだと思った。

 村人に疑問や罪悪感はどこにもなく、作物を刈り取るように男の命を奪う話をしている。

 作物が実った、では刈ろうか。そのような風である。

 だがそれは世にも珍しい花がこの山にある可能性が高いという事でもある。

 男は奮起し、何としてもその花を手に入れなければならないと考えた。

 幸い、村人達は男が寝ていた家の周りにだけ集まっている。

 今なら逃げるのは難しくない。

 男は頃合を見計らい、そっと山の方へと移動していった。

 そして無事村を脱出する事ができたのである。



 初めは緩やかな山道が続いていたのだが次第に険しくなり、数刻も進むとそこに立っているのさえ困難

になってきた。

 尖った岩肌、先の見えない地形、どこも手をかければすぐに崩れる程もろい。

 村人が追ってくるという焦燥感もある。

 彼らは男が逃げた事にすぐに気付くはずだ。逃げた事で諦めてくれれば良いが、おそらく追っ手を差し

向ける事だろう。

 村人は男よりもこの山々に詳しい。同じ道を行けばいずれ追いつかれるに決まっている。

 焦りが冷静さを奪い、男の体はみるみる内に傷だらけになった。

 元々傷つきやすい斜面を乱暴に登るのだから、そうなって当然だ。

 全身に細かな傷が付き、そこから血が滲み、男の体は真っ赤に染まってしまった。

 それが闇夜にも目立ちそうで、更に男の心を動揺させる。

 しかし道が一つ、登らなければ命は無いという状況が男に力を貸してくれた。

 それに何よりこの上には焔花があるという確信。

 その想いが男を上へ上へと引き上げていった。

 飲まず食わず休みもせず、男は必死に登り続けた。

 友の顔を思い出して。

 夜が明け、照り付ける太陽が傷口を焼いても、男は構わず登り続けた。

 もう道がどうとか、追っ手がどうとかは考えていない。

 とにかく上へ、少しでも早く、少しでも高く。

 男の頭の中にはその事しかなくなっていた。

 疲労、空腹、眠気に襲われ続ける中で、それ以外の感情、思考ははぎ取られるようにして消えていった

のである。

 だがそんな強行がいつまでも持つ訳は無い。

 男は一昼夜飲まず食わず休みもせず登り続けた後、ふっと力尽きて気を失ってしまった。

 いや、随分前から男も正気というものを失っていたのかもしれない。

 男は夢の中でも登っていた。

 ふわりふわりと確かな物はない。

 地面があるのかさえ解らない。

 解らないまま上へ上へと昇って行く。

 その内、ああ俺は死んだのだな、と思うようになった。

 山ではなく天へ昇って行くのだと。

 自分が死んだ事に悔いは無かったが。友を助けられなかった事だけが強く心に灯った。

 その光は昇るに従って輝きを強くし、耐えられないまでのまぶしさとなった。

 男は目を開けていられなくなり、目を閉じた所で目が覚めた。

 まぶしい日差しが男を覆っている。

 全身に布が巻かれ、ひりひりとした痛みも感じた。

 ゆっくり首を回すと、小さく丸く削られたような洞窟の中に居る事が解った。

 全身には消えたはずの力が戻っている。不思議な程元気だ。

 男は身体を確かめるようにして起き上がり、手足を伸ばし、指を握り、開いてみた。

 痛みは感じるが、動かすのに支障は無い。

 ここはどこなのだろう。

 ここが死者の国なのか。

 大きく開いた出入り口から外に出ると、ゆったりした衣に身を包んだ少年の姿が見えた。

 蒼い衣が遠い空によく映えている。

 その空が驚く程低く見えた事に男はまず驚いた。

 少年はそんな男を見て微笑んでいる。

 そして器を差し出した。

 器には水が満ち、それが海のように波打っている。

 驚いてまばたきすると水は鎮まり、穏やかな水面には友の顔が映った。

 その顔は不安そうに心配そうにゆるく歪み、見ていると胸を締め付けられる表情をしていた。

 少年はそれを飲み干すように男に言った。

 言われるままに目をつむって飲み干すと、自分の中にあった焦燥がすっと消えていくのが感じられた。

 心の中の友の顔は穏やかに微笑んでいる。

 少年は男に赤い花が欲しいかと問うた。

 男が頷くと、少年はそれを得る為には修行が必要であると言った。

 男があまり時間が無いのだと言うと、少年は首を横に振った。

 男はその声無き声に従うしかなかった。



 一年という歳月が流れた。

 傷もすっかり癒え、空気の薄いこの高所にも慣れた。

 山は男を傷付けず、男もまた山を傷付ける事はない。

 自然と生を共にする事を学んだのだ。

 最低限の修行は終わった。

 本来なら数十年とかかるものなのだが、少年が付きっ切りで助けてくれた事と男の命懸けの頑張りのお

かげで一年で済んだのだ。

 驚異的な事だが、少年は珍しい事ではないと言った。

 時間などそもそも関係なく、その心さえあるなら、一息にその高みに昇れてしまう。

 そして誰しもその心を生まれながらにして持っているものなのだ。

 男はしかしそのような事を生まれてから一度も考えたことがなかったから、準備段階に一年もかかった。

 遅いとも言えるし、早いとも言える。

 或いはその両方であるのかもしれない。

 でも本来は数十年とかかるものではないのか、と男が反問すると。少年はそれこそがおかしな事なのだ

と笑った。

 男は訳が解らなかったが。解らない事を無理に解る必要はないという事は知っている。

 それにそんな問いも答えも必要ではなかった。

 求めているのは赤い花であり、これが悟りであるというのなら、それもまた花を手に入れる為の手段に

過ぎない。

 少年はうなづき、赤い花を渡そうと言った。

 そして男の為に作ってくれたのだという鉢植えを手渡し、自分で取ってくるよう指示した。

 花は山頂にある。

 後はそこへ行くだけでいいと。

 山頂にはすぐに着いた。

 今の男には高さも距離も無意味である。

 そこに在ると言えば行ける。そういう修行を積んできた。

 つまりあれは山頂に登る為の修行であったのか。

 となればそれが悟りなのか。

 解らない。

 一年も仙人と一緒に居たが、結局何一つ解らなかった。

 あの少年が仙人であるかどうかさえ、本当は解っていない。

 でもそれで良いのだろう。

 男にとって重要な事ではない。

 花は無数に生えていた。

 大地が草木に覆われているのと同じ。それが緑か赤かの違いだけだった。

 しかしその赤は、まるで体内から血が噴出すかのようにも見える。

 溶岩の代わりに血が噴出すかのように。

 美しいが、何となく近寄りがたい。

 男は少しの間、それに手を伸ばす事をちゅうちょした。

 だが友の顔を思い出すと、そんな迷いは消えた。

 花は容易く手折れ、根元から切ったように綺麗に取る事ができた。

 本当なら根から掘り起こして持って行きたかったのだが、これほど密集していては手が出せない。

 それでもその花は鉢植えにきっちりと収まり、生き生きと輝いた。

 男は喜び勇んで山を降りていった。

 少年に会う必要はない。

 別れはとうに済んでいる。その程度の事が解るくらいには一緒の時を過ごしたのだから。

 男はおそるおそる山を降りたが、ふもとの村に着いても辺りは静まり返っており、どこにでもある普通

の村に見えた。

 当然だろう。男が村人に追い立てられるようにして山を登ったのはもう一年も前の話だ。

 忘れられるには充分な時間である。

 男はそれでもあの時の事を思い出すと怖くなり、夜更けまで待つ事にした。

 ゆっくりと日が昇り、落ちていく。

 それを見ていると不思議と涙が出てきた。

 もう二度とこの場所に来る事は無いのだろう。

 そう思うと今更ながら感傷めいた想いが浮かんできたのだ。

 男はしばらくの間静かに涙を流し、この地と少年にゆっくりと別れを告げた。



 一年ぶりに戻った男を覚えている者は居なかったが、街の賑わいは変わらなかった。

 ただたくさんの兵隊の姿が見える。

 街中がどこか物々しく、人の顔にも不安、というよりも悲しみの色があった。

 戦には別れが付き物。

 悲しさもまた共にある。

 男が聞いてみると、驚いた事に男の故国と戦争状態にあるのだという。

 交易による摩擦が原因だとか、元々戦争する為の情報収集として交易を始めたのだ。

 などなど様々な憶測が飛び交っていたが、交易に関する事に原因があるのだという意見は一致している。

 皆が一致しているのだから、多分何かしら信憑性のある噂なり、情報が流れたのだろう。

 男は不安になったが、国同士の問題を悩んでいてもしかたない。

 とにかく帰る手段はないか、行き来できる船がないかと探してみた。

 どこにも無い。

 故国への行き来は厳しく制限され、素性も知らぬ遠国の男が乗れる船など無かった。

 戦争が終わるまで待てば良いのかもしれないが、いつ終わるか解らないし、終わった所で以前のように

行き来できるようになるまでには時間がかかるだろう。

 間に合わない。

 おそらく金貸しの約束の期限には間に合わない。

 今故国へ行く船に乗れるとすれば方法は一つだけ。

 男は決意し、敵国の兵に志願した。

 幸い、この一年の間に男の姿はこの国に似つかわしいものに変わっている。

 どこがと問われれば答えられないが、なんとはなしにこの場所になじんでいる。

 今ならこの国出身だと言っても疑われないだろう。

 それに戦時中という事で、王は広く兵を募っている。素性は問われず、体さえ頑丈であるならば問題な

く取り立ててくれる。

 男は生まれ付いての頑強な体、一目で兵長に気に入られた。

 こうして何の因果か、男は敵国の兵士となってしまったのである。

 兵にはなれたが、すぐに遠征船に乗れる訳ではない。

 相応の訓練も積まなければならないし、一度に送れる兵の数にも限りがある。

 腕の良い者から乗せられていくのが当然であり、新兵となれば尚更難しい。

 男は船仕事のおかげで船上には慣れていたが、戦となると話しは別である。

 武器の扱いが下手であったし、鎧を着て動くのも苦手だった。

 それでも真摯にはげみ、三ヶ月の訓練の後、何とか遠征兵に選ばれた。

 それは同時に戦争が激化し、兵が間に合わなくなっているという事でもある。

 男は何とも複雑な心境であった。

 故国に着けば人知れず逃げるつもりなのだが、仲の良い兵もできたし、何より目をかけてくれた上官に

恩をあだで返すようで後ろめたい。

 戦争が激しくなっているのであれば、兵への罰も自然と厳しくなる。自分が逃げれば彼らはどういう目

に遭わされるだろうか。

 誰かを救う為に他の多くを犠牲にしても良いのだろうか。

 眠れぬ日が続いた。

 男は迷いをごまかすように必死に働き、船も順調に航海を続けた。

 しかしどうしてもその心は晴れなかった。



 故国はすぐそこだ。後一月もすれば港へ着くだろう。

 懸命にはげんだおかげか男は皆に一目置かれるようになり、上官の覚えもめでたく、十人隊長に出世し

ていた。

 文字通り十人の兵を率いる者という意味だが、率いる兵の数は一定ではない。二十人率いる者もいれば、

数人しか部下がいない者もあった。

 男の部下は五名。

 多くはないが部下は部下。人を任される立場になったのだ。

 苦悩が更に増した。

 男はこの者達に対して責任を負わなければならない。

 自分が戦場から逃げ出したとなれば部下はどうなるか。

 敵前逃亡は重罪である。全員が死刑という事も充分にありうる。

 といって、今更十人隊長の任を解いてくれとは言えない。

 軍は厳しい縦社会である。命を出されれば受けるよりほか無く。拒否権など初めから存在しない。

 だが五人の命は大き過ぎる。

 男は悩んだ末、直接部下に相談してみる事にした。

 敵国の人間であると解れば自分の身は危うくなろう。逃げる意志があるとすれば尚更だ。

 それでも黙って去るはしのび難く、結局男は他人に選択を投げるという楽な方へと逃げてしまった。

 部下達は皆神妙なる面持ちで話を聞いてくれ、ほとんどは同情さえしてくれたのだが。その中の一人に

密告され、男は密告者を除く四人の部下共々奴隷の身分に落とされてしまった。

 部下には何の罪もないのだと弁解しても、誰も聞いてはくれなかった。

 以前は親身になってくれた上官も憎しみの目を向けてくるだけで、口を開くことすら許されなかった。

 船で奴隷が行う仕事は一つ。

 船こぎである。

 男は必死にこぎ続けた。

 元部下を助ける事はできないが、五人横並びで一本の櫂をこぐので、男が頑張れば頑張るだけ一緒にこ

いでいる彼らが楽になる。

 男は部下に打ち明け、彼らを巻き込んでしまった事を恥じていた。

 償いなどできようもないが、少しでも彼らを助けたい。

 それは自分の心を助ける事でもあった。

 初めは多少なりとも思う所があった元部下達も、男のそんな姿を見ていると何も言えなくなり、一緒に

なってはげむようになった。

 お互いがお互いを少しでも楽にする為に、血汗が出る程にはげんだのである。

 そんな姿は自然と人の目に止まり、やっかまれる事も多かったが。奴隷長達から目をかけられるように

なって、少しだけ休憩時間や食事の量が増やされたりもした。

 すると男はまた恩義を感じ、更にはげむ。

 それにこの一こぎ一こぎが故郷へと男を導く。そう思えば辛くはなかった。

 そしてあっという間に一月という時間が流れた。



 生まれ育った国の土がすぐそこに見える。

 この船から一歩踏み出せば、帰る事ができる。

 だがその手段は無い。

 兵が不足しているのか、奴隷も望めば兵に取り立ててくれると告げられ、男も我先にと声を挙げたのだ

が、取り合ってもらえなかった。

 それはそうだろう。男は敵国の人間であり、兵になったのもこの地に帰るが為。誰が逃げると解ってい

る者を兵に取り立てるだろう。

 そんな将はいない。

 わざわざ遠国まで行き、仙道の修行までしたというのに、結局友を救う事はできないのだろうか。

 いや、諦める訳にはいかない。

 友を救えるのは自分だけなのだ。

 男は考えた。

 しかし妙案は浮かんでこない。

 男は元々計略を練ったりといった事が苦手である。

 正面からぶつかる事しかできない。

 そんな器用に生きられたなら、男は今こんな所にいなかっただろう。

 友も別の方法で、もっと早く救えたのかもしれない。

 たまらない気持ちになり、目頭に力を入れる。

 正直さ、素直さ、頑強な体。今まで男を救ってきたこの三つはもう役に立たない。

 どうすれば良いのか。

 どうすれば良いのか。

 そんな男を見かねたのか、元部下達が手を貸そうと申し出てくれた。

 今の境遇を考えれば男を恨んで当然のはずなのに、何故また手を貸そうと言うのか。

 情と一言で言えば簡単だろう。

 それが人なのだと言えば簡単だ。

 しかしそれだけではないような気がする。

 よく解らないが、そういう定めであったのかもしれない。

 男がそうであったように。

 彼らもまたそうであったのだと。

 元部下達は言った。

 今は戦時下、しかもここは前線、はるばる遠征してきた地である。

 どの兵も焦り、逸っている。ここで手柄を得なければ、命を賭けて航海してきた意味が無くなる。

 出世、わずかばかりのお金。その為に彼らはここに居るのだ。義心ではない。もっと現実的な理由がある。

 だから皆最前線の状況ばかり気にしている。

 ちょっとでも助かりそうな場所へ。少しでも手柄が立てられそうな場所へ。

 情報をかきあつめ、必死に探している。

 奴隷の見張りなど二の次であり、誰もが見張り役として船に残されないよう上官に取り入るので必死だ。

 敵国にありながら、船内の規律はかえって緩んでしまっている。

 今なら逃げるのは難しくない。

 元部下達はその状況を利用して話を盗み聞きし、兵を観察し、協力して警備が手薄になる時間帯と場所

を探り当てた。

 必ず脱出できる。

 そして最後に、脱獄に協力する代わりに自分達も一緒に連れて行って欲しいと言った。

 最早戦場で手柄を立てて兵に復帰する望みは無い。このまま国に戻っても奴隷として一生を送り、家族

にも会えず、人に笑われたまま死んで逝くだけだろう。

 それなら一か八か男に賭けた方がいい。

 貴方なら少なくとも自分達を捨てたり、笑ったりはしないだろう。

 男は初め我が耳を疑った。

 そして感激の余り涙を流した。

 後は何度もうなづく事しかできなかった。

 もう何も考えられなかった。

 涙は止まらなかった。

 脱獄は比較的容易であった。

 赤い花の鉢植えも価値無しと思われたのか物置に捨て置かれており、簡単に取り戻す事ができている。

 その辺の事もしっかりと調べてくれていた。

 元部下達の、いや仲間達の計画は周到で、規律が緩んでいた事も幸いし、特に問題となる事は起こらな

かった。

 例え何かあったとしても、仙人見習いと言える男の身体能力があれば何とでもなったかもしれない。

 他の奴隷達も誘ったのだが、付いて行こうという者はいなかった。

 敵国に逃げても、いずれ野たれ死ぬだろう事は解りきっていたからだ。

 奴隷達は男達を冷ややかな目で見送った。

 男に同情的であった者達もそれは変わらなかった。

 折角拾った命をわざわざ捨てに行くなど阿呆のする事だと彼らは思ったのだろう。

 少しさみしく思えたが、そんな心に構っている余裕は無い。

 男は全てを振り切るようにして船を後にした。



 外は喧騒に溢れ、前ばかりを気にし、船に注意を払う者など一人もいなかった。

 それでも闇に紛れ、慎重に慎重に進む。

 程無く安全な場所まで出た。

 もう兵達の声は聞こえない。静かな夜である。

 男は改めて土に触れた。

 忘れようも無い、故郷の土。

 やっと、やっと帰ってきた。

 男は懐かしさに涙を流した。

 しかしいつまでものんびりしている訳にはいかない。

 男は仲間達に事情を話し、生まれ育った町に向かう事を了承してもらった。

 帰ってきたのだと思うと友人知人様々な顔が浮かんでくる。

 会いたい。

 そう強く思った。

 でも脱獄囚となった男などと関わってしまえば、どんな目に遭わせてしまうか解らない。

 それにもう二年以上の歳月が経つ。今更顔を見せた所でどうなるものか。

 ひょっとしたら彼らの中では、男はもう死んだ事になっているかもしれない。

 一抹の不安とわびしさを思いながら、男達は人目をしのぶようにして生まれ育った町へ向かった。



 野草や木の実を食べ、川や泉の水を飲み、男達は何とか故郷の町にたどり着いた。

 だがそこで待っていたのは、友人がとうに身売りされてしまったという事実であった。

 金貸しは初めから約束を守るつもりなど無かったのである。

 話を聞くと男が町を出るとすぐに身売りされ、今はもう行方も知れないという。

 仲間達はそれを聞いて怒りの声を挙げたが、男にはどうでも良い事だった。

 だまされたとか、そんな事はどうでも良い。

 それよりも友だ。早く助けてやらなければならない。

 色々と辛い目に遭ったはずだが、その過去を変える事はできない。

 でもこれから起こる不幸をなくす事ならできる

 この赤い花と引き換えに身請けできれば、友の未来を救う事はできるはずだ。

 男は考えた末、都へ向かう事にした。

 金貸しを探すのは後だ。

 まずはこの花を金に換える。相応の金を積まなければ、金貸しは取り合ってくれない。

 赤い花を渡してもまただまされる可能性がある。

 確実に友を救うには、まず王から賞金を得なければならない。

 男達は知り合いの村人からわずかばかりの食料を分けてもらい。代わりに畑仕事をしばらく手伝いつつ

情報収集をしてから、都へと向かった。



 都は少し思い出の姿と違っていた。

 戦時で物々しいというのとは別に、町並みにも変化が見られる。

 都の時間は流れるのが速いというが、確かに落ち着きなく、たった二年かそこら見ない内にすっかり変

わっているような場所まであった。

 そのせいか懐かしさは感じなかった。

 男は早速王に謁見を求める為、王城へ向かった。

 門番は初め取り合ってくれなかったが、男が何度追い返されても真摯にそれを願う姿に負けたのか、う

んざりしたのか、上官を紹介してくれた。

 上官とはいえ門番の知っている程度であるから高が知れているが、一応城内に出入りできる身分ではあ

り、幸いにも面倒見の良い人であったので、男の話を全部聞いてくれ。

 王は今戦によって心痛であられる。珍しい品を献上すれば慰みになるかもしれない。

 最後にそう言って、上官に願い出てくれ、それが何度か続いた結果、なんと王が直々に会ってくれると

いう運びになった。

 この頃は戦況がこの国にとって思わしくなく、それが為に何かしら景気の良い事、喜ばしい事を皆欲し

ていたのだろう。

 つまり戦争という凶事が回りまわって男を王に引き合わせてくれた事になる。物事というものは不思議

なものだ。

 男は仲間達を控えの部屋に待たせ、大臣だか何だかいう身分の高い何某かから借り受けた衣装をまとい、

体を綺麗に洗われた上、香りまで焚かれて謁見の間へ通された。

 そこは見た事もないような天井の高い部屋で、この一室だけで男の住んでいた町の住民が全員暮らして

いけそうな気がした。

 度肝を抜かれたが、友の事を思い出し、たどたどしい言葉で謁見を望んだ理由を申し上げ、その後に例

の赤い花を見せた。

 その花はあの山から折り取って半年以上は経とうというのに瑞々しく美しく朱に灯り、見る者をこの世

ならざる気分にさせた。

 むしろ山に咲いていた時よりも盛っているようで、歌声でも聞こえてきそうなその香りも一層強く、目

と鼻から人々の心をしっとりと満たした。

 誰もが驚嘆の声をあげ、溜息をもらし、確かにこれこそが話に聞く焔花であろうと頷いた。

 初めはかたりであると思っていた人々もその花を見ては何も言えず、素直に賞賛の念を送り、男の事を

まるで自分よりも貴人であるかのような目で見始めたのであった。

 王もまた気持ちは同じであり、男に対してその花を得た経緯を話すよう求めた。

 男は身動き一つせず、たどたどしい言葉で淡々と、しかし誠意あふれる心で話し、その一切を王に告げ

たのである。

 そして言った。

 友を助ける為に賞金をいただきたい、と。

 王はそれを聞いて立ち上がり、その眼からはらはらと涙を流した。

 悲しい表情を満たすような優しい涙に、見ている者は皆息を呑む。

 男の心に感動したのであろう。

 幼き頃から権謀術数の中にあった王にとって、男のような存在はまさに仙人が如く得難い存在に思えた

のである。

 王は男に、実権は無く名誉だけの低いものではあるが、爵位を与え。直々に労いの言葉をかけると、す

ぐさまその友を身請けして共に暮らせるよう家と土地まで贈った。

 皆その厚遇に驚いたが、異論を述べる者は一人もいなかった。

 男は王城を辞するや仲間達と共に友の行方を調べ上げ、身請けした。

 変わり果てたその姿、表情や仕草からは苦労と哀しみの色が強くにじみ出ていたが、笑顔は昔と変わり

なく、そしてまた例えようもなく美しかった。

 この時男は初めて友の事を愛していた事に気付いた。

 男は友に求婚し、友からは自分はもう貴方の知る自分ではないのだと何度も断られたのだが諦めず、最

後には一緒になる事ができた。

 一心に遠国から焔花を持ち帰ったような男である。友もまた男の事を悪しからず思っていたからには、

その一徹な想いを拒む事などできはしなかった。

 仲間達は二人を祝福し、ささやかながら式を挙げ、なんと王から祝いの品までが届いた。

 それから男は余ったお金を惜しみなく仲間達に与え、それぞれに家を持たせ、仕事を与え、この国で生

きる道を拓かせた。

 それが男にできる仲間達に対する唯一の償いであったのだろう。

 余談ではあるが、それから程無くして一人の男が王城に現れ。

 その赤い花は偽物です、全ては私があの男に入れ知恵した事、王はだまされているのです。

 すぐさま男を罰し、本来私に与えられるべきであった褒美の品をいただきたい。

 などと言ったそうだが、その男は誰にも取り合ってもらえず、それでも諦めずしつこくしたものだから、

最後には不敬に当たるとして、その場で斬首されたようである。

 それがあの金貸しであった事は言うまでも無い。



 男が友と結婚して半年が経った頃、長く続いた遠国との戦は痛み分けに終わり、国交は回復され再び往

来が始まる運びとなった。

 男は通訳として船団に雇われたが、次第に重きをなして出世し、遂には船団を一つ任されるまでになった。

 それでも男は変わらず、いつも真摯に働き、その姿勢は見る人の心を打った。

 彼の妻となった友もまた謙虚さを崩さず、彼女を知る者に悪い心を起こさせる事は一度として無かった

という。

 中には成り上がり者として彼ら夫婦を嫌う者もいたが、その者達も王のお気に入りである彼らに何をす

る事もできず。

 夫婦の方も嫉妬者に対して何とも思わず、分けへだてなく接したので、大きな問題とはならなかった。

 そうこうしている間に別の成り上がり者が出て、嫉妬者の意識がそちらへ向かうと夫婦の名が挙がる事

さえなくなってしまった。

 男はそんな喧騒をよそに着実に仕事をこなし、成果を挙げ続け、しかし船団の長以上の身分には成ろう

とせず、政治からも常に一歩離れた位置に居て、一種独立した立場を築くようになった。

 そんな男を皆一目置くようになり、次第に信頼するようになっていったのである。

 一言も誰かの悪口をいった事もなく、仕事も丁寧で心優しい。そんな人物なら敵より味方にするが得に

決まっている。

 思えばそれが男の処世術であったのかもしれない。

 王はそんな男をずっと手元に置き、死する時には遺言として彼を最も若い子の教育係にするよう命じた。

 男もまた老齢となっており、頑強であった体もおとろえを見せ、一線からは退いていたのだが。王に深

く感謝していた男は快く承諾し、生涯をかけてその王子に尽くした。

 その王子は一番若く、また母親も低き身分であった為に王位からは最も遠かったのだが。疫病の流行や

戦の勃発などで王子達が早くして次々と亡くなり、王位に就かされる事となってしまった。

 王子、いや王は政治や権力闘争とは無縁で、男に似たのかそういう欲を忘れてしまっていたような所の

ある人物に育っていたのだが。こうなっては仕方ないと真摯に丁寧に政務をこなし、遂には長く続いたこ

の王朝の中でも五本の指に入るような大王と称される人物となった。

 男はその偉業を見る前に死したが、その顔には一つの悔いも無かったという。

 何事が起きても、起こらなくても、人がやる事はいつも同じ。

 ならば真摯に、丁寧に、自分のやるべき事をやる。それを一所懸命にはげむだけ。

 男はそれだけをして死んでいった。

 王に贈られた赤い花も懸命に美しく咲き続けていたのだが、男の死を追うようにして程無く枯れたそうだ。

 男の人生が幸せであったかどうかは解らない。

 それを不幸と呼ぶ人も多いのだろう。

 だが男自身は幸せであった。

 労多く、実り多い生だった。

 それが彼が最後に残した言葉であり、公に残された唯一の言葉である。



 星が一つ流れ、少年はまた一人見送った事を知った。

 道を究める事が幸せなのかどうか。

 こういう時、ふと疑問が浮かぶ。

 だがそれで良いのだろう。

 誰も自分の人生に自信など持てないし。

 持つ必要も無い。

 幸せであってもよく。

 不幸であってもいい。

 どちらにせよ、死ねばそれは同じなのだ。

 苦悩も喜びも無い。

 この世には生と死があるだけ。

 それの何と喜ばしい事か。

 永遠の生の何とさみしい事か。

 これは罰であろう。

 人でありながら人を超えようとした自分に対する、罰であろうよ。

 長く生きているとたまに男のような人物が現れる。

 人の生の悦びを実感させるような。

 その死をその生の完成だと思わせられるような。

 そんな人間が。

 焔花があるとすれば、そんな人間にこそ咲く花なのだろう。

 いや、そんな人間自身が他人にとっての焔花なのかもしれない。

 少なくとも少年にとって、あの男は焔花であった。

 少年が創った赤い花などおもちゃのようなものだ。

 天を眺め、今日もまた少年は悔いる。

 終わりなき懺悔に、救いなどあるのかと問いながら。

 そして今日も待つ。

 焔花を。

 そう成れる人間を。

 そして彼はまた一つ人を知るのだ。

 それが仙道であり。

 仙生である。

 完結はせず、満たされもしない。

 永遠に続く欲。

 焔花からは最も遠い。

 やはり罰である。

 少年は今日もまた哀しみを知る。

 終わらない哀しみを。




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