大地に影付け


 深く深く澄む空をずっと眺めていると、少しずつ体が浮き、空の彼方へと吸い込まれてしまいます。

 もう何人も何人も吸い込まれてしまいました。

 それだけ空を眺めるというのは魅力的な事なのかもしれません。例えこの世の何処でもない場所に吸い

込まれてしまうのだとしても。

 中には吸い込まれる為に見る人もいます。何処かへ行ってしまいたい。そういう想いの果てに。

 でも多くの人は空の彼方へ逝ってしまいたくありませんでした。そこに行くのが怖かったですし、この

大地の上でやりたい事がまだ沢山あったからです。

 だから人は自分の半分を影として地面に貼り付けて、地面から離れないようにしました。

 こうして初めて人はのんびりと空を見上げる事が出来たのです。どれだけ空を見ても、地上にこの影が

ある限り、空に吸い込まれる事はありません。

 ではもし空に吸い込まれてしまった人の影を地面に貼り付ける事が出来たとしたら、その人は再び地上

へ戻ってこれるのでしょうか。

 長い歴史の中でたった一人、こんな不思議な事を試そうとした人がいます。

 その人はまず自分の影を地面から離してしまい、それを信用できる人に預かってもらいました。

 そして空を見上げ、ゆっくりと吸い込まれていきます。

 でも途中で最後まで吸い込まれてしまう事が怖くなってしまったので。

「貼り付けてくれ、影を貼り付けてくれ!」

 と叫びました。

 影を預かった人は慌てて地面に影を貼り付けましたが、浮いた人は宙に浮かんだまま降りてきません。

 そしてその人は。

「早くしてくれ。早くしてくれ」

 と叫びますが、これ以上はどうしようもありませんでした。

 地面に貼り付けた影は確かに浮いた人をもう一度地面にくっ付けてくれたのですが、地面まで引っ張る

力は無いのです。

 浮いた人はその場所に張り付いたままばたばたと手足を動かすだけでした。

 もう二度と自分自身で動く事も、地上に戻る事も出来なくなったのです。

 でも諦めない人達が居ました。それは浮いた人の家族で、彼らはどうにかして浮人を助けてあげようと

したのです。

 初めは投げ縄の名手に頼んで何とか紐を付け、皆で引っ張って降ろそうとしたのですが、浮人はびくと

もしません。

 空に近付いた事で太陽の光を地上より沢山浴びる事になって、どうやらそのせいで影が濃く強くなって

しまい、縛り付ける力も随分強くなってしまっているようなのです。

 これを引っ張るのはとても無理でした。

 家族はそれでも諦めません。必死に考えます。

 そして最終的に辿り着いた答えが、翼でした。

 地面に影を貼り付けているのに、鳥だけは自由に空を飛び回り、地上へ空へと移動する事ができます。

 一体鳥の何が人と違うのかといえば、翼でしょう。ですからこの翼さえあれば、浮人は自由に地上へ戻

ってこれると家族は考えたのです。

 それから家族の翼作りが始まりました。

 初めは紙を翼の形に切り抜いてみましたが、これでははばたこうとしてもひらひら舞うだけでどうにも

なりません。

 次に木で作ってみましたが、重過ぎて上手くはばたく事が出来ません。

 そこで家族は土台となる枠組みを木でしっかり作って、それに紙を張ってみる事にしました。

 何度も思考錯誤を重ねると、どうにかそれらしき物を作る事が出来ました。何度もはばたいていると紙

が破れてしまいますけども、地上へ戻るくらいなら何とかなるはずです。

 そして軽業師が浮人に繋いだ紐を登って浮人に翼を付けてみたのですが、浮人が何度はばたいても動き

ません。影の力が強過ぎるのです。

 何か方法があるのだろうと鳥に聞いてみましたが、それは鳥の秘密だから人間には教えられない、と言

われてしまいました。

 家族は悩み、それなら太陽の光を遮れば良いという考えに辿り着きまして、浮人の上に何でも良いから

光を遮る物を張り、影の力を弱めてしまう事にしたのです。

 何で遮るかが問題になりましたが、悩んだ末、凧揚げ名人に頼んで、大きな凧を浮人の上空に上げても

らう方法を思い付いたのです。

 これは上手くいきました。

 凧が浮人の上空に昇ると、浮人を縛っていた影の力が弱まり、翼の力を借りてゆっくりと降りてくる事

ができたのです。

 こうして浮人は無事地上に戻る事が出来、心から喜んで家族に沢山お礼を言ったのです。

 でもここで浮人の頭にある考えが浮かんでしまいました。

 それはこの方法を上手く使えば、自由に空の向こうに行けて、いつでも地上に戻ってくる事が出来るの

ではないか、という事です。

 浮人は空の向こうに行くという夢を、怖いけれど諦められなくなりました。

 浮人はその日から新しい翼、そして遮光装置を開発し始め。何年も何年もかけて完成させました。

 そして再び信頼できる人に影を預け、人が止めるのも聞かずに空の彼方へ旅立ち、ゆっくりとゆっくり

と空へ吸い込まれて行ったのです。

 でも彼は一つだけ大事な事を忘れていました。

 浮人が地上へ戻ってくるには、まず影を地面に貼り付けなければなりません。しかし空の彼方へ吸い込

まれてしまった浮人にはそんな事は出来ませんし、それをしてくれと地上にいる人へ伝える方法もなかっ

たのです。

 浮人は空へ上がり、そして降りてくる事だけを考えていたので、肝心の影の事をすっかり忘れてしまっ

ていたのです。

 だいぶ時間が経った後で、そういえばいつ影を貼り付ければ良いんだろう、と影を預かっていた人に思

い浮かび。これは大変だと慌てて預かっていた影を地面に貼り付けましたが、浮人はいくら待っても戻っ

てはきませんでした。

 多分、どこまでもどこまでも吸い込まれてしまっていて、戻れなくなっているのでしょう。

 残念ですが、こうなってしまうとどうする事も出来ませんでした。

 どこかで生きている事を願って、諦めるしかなかったのです。



 そんな事があってから随分過ぎた頃。この帰って来なかった浮人の話を聞いた一人の子供が、この浮人、

そして今まで空に吸い込まれてしまった人達を地上に連れて帰ってあげようと考えました。

 大人達は皆止めましたが、子供は仲の良い子供達と協力して、こっそり翼と遮光装置、そして長い長い

糸電話を作ったのです。

 翼と遮光装置は浮人の作ったという物を参考にしたので、何だか古ぼけて見えましたが。手の器用な子

供と相談して色々と工夫して改良してあります。丈夫で軽く、空の何処まで行っても大丈夫なように作り

ました。

 糸電話も余分の糸を沢山用意して、何処まで行っても会話出来るように考えてあります。

 こうして準備を整え、子供は影を地面から離して友達に預けて、ゆっくりと空を眺めました。

 初めは綺麗だなと思うだけで何も起こりませんでしたが。次第に視線が吸い込まれ、そしてそれを追う

ように体が浮いてくるのを感じました。

 そしてそれは次第に速く強くなり、気付いた時にはもう子供は空の上、手で触れる所に雲があります。

触ってみるとひんやりと冷たく、手に水滴が付きました。

 子供は慌てて手を振って水を払い、もう雲には触らない事にしました。

 随分吸い込まれたので、もうそろそろ誰か見えるかなと思い、子供は糸電話で下の友達に知らせて影を

貼り付けてもらい、周囲をぐるりと見回してみました。

 ところが雲以外に何も見えません。

 しかたないのでもう一度雲を離してもらい、空を眺めて上昇を続けます。

 光が強くなってきましたので頭上を覆っている遮光装置を広げて、浴びる光の量を調節しましたが、そ

れでも熱く感じるくらいの光がさんさんと降ってきます。

 その内光に射抜かれてしまうかもしれないと思って、少し怖くなってきました。

 でも子供は勇気があったので、頑張って昇っていきます。

 そのまま何処までも何処までも昇って行きますと、青かった空が段々薄れてきて、とうとう黒くなって

きました。そしてとてもひんやりしています。その中でたった一つだけ暖かい日光だけが、子供を空へと

導いてくれるのでした。

 辺りはとうとう真っ黒になってしまいましたが、相変わらず誰も見えません。見えるのは無数に輝く白

い丸だけです。

 もしかしたらこの真っ黒に溶けてしまったんじゃないかと思いましたが、自分は全然溶けそうではなか

ったので、そうではないのだと解りました。

 ひょっとしたらこの白丸が空に吸い込まれた人達なのかもしれない。

 そんな風に思ったので、一番近い白丸に行ってみる事にします。

 長い長い時間をかけてようやく子供はその白丸に辿り着きました。でもそこには沢山のでこぼこがある

だけで、誰かが居そうな気配はありません。

 でこぼこの中に隠れているのかもしれないとも思いましたので、その白丸に降り立って、いくつか調べ

てみましたが、何も見付かりません。

 ウサギの尻尾みたいなものを見かけたような気もしますが、気のせいだったような気もします。

 子供は仕方なくまた空へ向かいました。

 ここまで昇ってきて解ったのですが、どうやら子供はまだずっと先に見える赤い大きな丸に向かって進

んでいるようです。

 そうなると今まで吸い込まれてしまった人達は赤丸に居る事になります。でもあまりにも遠そうなので、

子供は一眠りする事にしました。

 昨晩はうきうきしてあまり眠れなかったので、今頃眠気が出てきたのでしょう。


 目を開けると赤丸はぐっと大きくなっていました。大分近くまで来たのだと思います。

 見上げてないのにどんどん吸い込まれていくのは、ここが空だから何処を見ても空を眺めている事にな

るからか、あの赤丸が引っ張っている為なのか。

 そういえば白丸に降り立った時も、白丸に近付けば近付く程白丸に引っ張られているような感じがした

ものです。もしかしたら白丸同士も引っ張りあっこしているのかもしれません。

 それでも自然に赤丸に吸い寄せられるのは、赤丸が一番強いという事なのでしょう。一番強いから一人

だけ赤いのかもしれません。

 でも何だか赤いのは怒っているせいだという気がしてきます。

 子供は怖くなりましたが、もう随分強く引っ張られていて、翼を使っても逆らうのは難しそうでした。

 あまり無理をして壊れてしまうと帰れなくなりますから、子供は我慢して吸い込まれていく事にしたの

です。

 子供がきょろきょろと辺りを見ると、ときどき凄い勢いで何処かへ吸い込まれていく青白い線を見付け

ましたが、他には何も無いので飽きてきてしまい、もう一度眠る事にしました。

 まだ寝るのには早いのかもしれませんが、たっぷり寝ておいた方が元気が出るに決まっています。


 目が覚めた時、視界いっぱいに赤丸があって、それが赤々と燃えているのが解りました。

 とても熱かったのですが、黒い空はひんやりしているので何とか我慢出来ています。頑張ればもう少し

我慢できるでしょう。

 でもこのまま吸い込まれてしまうと、赤丸全体に燃え盛っている炎で子供まで燃やされてしまうかもし

れません。

 熱いのは我慢出来ますけど、燃やされたらもうお仕舞いです。

 子供は慌てて糸電話で影を地面に貼り付けてもらうよう伝えました。

 電話すると友達達はずっと連絡が無かったので吃驚してましたが、すぐに影を貼り付けてくれました。

 皆心配していると言っていたので、今度からはちょくちょく電話しようと思いました。

 こうして子供は燃えずにすんだのですが、そう考えると今まで吸い込まれてしまった人達は皆ここで焼

かれてしまった事になってしまいます。

 子供は悲しくて悲しくて仕方なくなりましたが、どうする事も出来ません。

 周りを見ても頑張って吸い込まれないように踏ん張っている人も居ませんでした。多分光が強過ぎて動

けなくなり、抵抗できなかったのでしょう。

 子供はこれ以上進むのを諦めて、地上に引き返す事にしました。

 今でもぐいぐい赤丸が引っ張っていますが、影を貼り付けていますから、何とか戻れそうです。

 翼をはばたかせて、少しずつ少しずつ戻っていきます。

 とても疲れますが、今度は誰も引っ張ってくれないので自分で頑張って戻るしかありません。

 随分頑張って戻ると、少しずつ赤丸の引っ張りも弱くなり、すいすいと飛べるようになってきました。

 友達と作った翼は頑丈で、思いっきりはばたかせると凄い速さが出ます。それは流れ星くらいに速いの

で、あっという間に遠くまで飛べるのです。

 そうして半分くらい飛んだ頃でしょうか、何処かから、おういおうい、と声が聴こえた気がしました。

 子供はまさかと思いましたが、その場に止まり、ぐるりと見回しました。

 すると近くで何かに引っかかっている人を見付けました。子供は急いでそちらへ飛びます。

「やあやあ、やっと気付いてくれた。また戻ってきてくれて助かったよ」

 どうやら行きは子供が眠っている間に通り過ぎてしまっていたようです。

 子供はごめんなさいと謝って、それから用意していた布をその人に被せました。こうしてあたる光を弱

くすれば、引っ張って連れて帰る事が出来るのです。

 子供が何度か試しに引っ張ってみますと、ぐいぐいと動かす事が出来ました。

 こうして二人でおしゃべりしながら帰る事になったのです。

「僕はね、丁度あの白丸の欠片にぶつかったんだよ。だから運が良かったんだね」

 このおじさんから白丸が、そして子供が居た地上さえも、この空をぐるぐる回っている事を教えてもら

いました。このおじさんはずっと空からそれを見ていたので間違いないと言うのです。

 子供は吃驚しましたが、もしかしたら誰かに引っ張られて、その上振り回されているのかもしれない、

と思って少し白丸が可哀想になりました。

 でも子供一人ではとても白丸を引っ張っていく事は出来ません。白丸はとても大きいのです

 せめて誰かひっかかっていたら助けようとそれからは気を付けて飛んだのですが、このおじさん以外に

は誰も引っかかっている人は居ないようでした。

 そして子供とおじさんは地上へと戻ったのです。


 助けた人も子供も無事影を地面に貼り付けて、いつもの生活に戻る事が出来ました。

 子供達は大人達から叱られましたが、最後には皆許されました。子供が助けた人が一生懸命弁護したか

らです。

 確かにこの子供達が居なければ、この人はずっと白丸に引っかかったまま一生を終える事になったでし

ょう。人助けしたという事だけは大人達も認めるしかなかったのです。

 でも勿論、もう二度とこんな事はしないよう約束させられました。そして翼や遮光装置、糸電話も全て

取り上げられてしまいました。

 こうして全て解決したように思われたのですが、空に昇った子供だけはいつまでも空を忘れる事が出来

ません。

 もう一度昇りたい。

 あの穴だらけの白丸やおじさんがひっかかっていた白丸の欠片だけではなくて、他にも沢山の白丸があ

ります。その白丸をちゃんと調べてみれば、もしかしたら誰かが見付かるかもしれません。

 そして何よりも子供はもっとあの空をはばたいていたいのでした。この地上ではなく、空で生きたくな

っていたのです。

 もしかしたら子供は、あの空に自分の心を置いてきてしまったのかもしれません。

 楽しみ、驚き、喜び、そういった感情をあの空の向こうに全部置いたまま帰ってきてしまったのかも。

 そうだとしたら、それを取りに行かなければいけません。もう一度空に昇って、全てを取り戻し、そし

てまたこの地上に帰ってくるのです。

 いえ、もう帰ってこられないとしても構わない、と子供は思っていました。

 そして子供は大人達との約束を破り、もう一度空へ昇る事にしたのです。

 でも子供一人だけではどうにも出来ません。空へ昇るのは簡単ですけど、地面に影を貼り付けたり外し

たりしてくれる人がいないと、いくら遮光装置があっても、子供はいつまでも赤丸に引っ張られてしまう

事になります。

 空で感じた赤丸の力はとても強く、影でしっかり大地と繋がっていないと、とても地上に帰る事はでき

ません。頑張って抵抗しても、いつかは赤丸まで引っ張られて燃やされてしまいます。

 子供は燃やされるのは嫌でした。

 だから仲間を探しましたが、今度は誰も協力してくれません。皆大人に凄く怒られたので、もうこりご

りなのです。

 それに一度やってしまった事には、皆興味が薄れるものです。他の子供達は空に昇っていませんので空

の気持ちよさも知りませんから、子供がいくら空に昇りたくても興味無いのでした。

 それでも子供は諦めません。何度も何度も頼んで回って、ようやく一人だけ強力してくれる子供を見つ

ける事が出来たのです。

 その子とは普段あまり仲良くしてなくてよく知らない子だったのですが。空の事にとても興味があるら

しく、次に自分も空へ昇らせてくれるなら協力すると言ってくれました。

 これでは子供はまた地上に帰ってこなくてはならなくなりましたが。まあ、順番に昇ればいいやと思い

直し、協力し合う事にしたのです。

 それにこの子以外に協力してくれそうな子がいなかったので、この子に頼むしかなかったのです。

 こうして問題は全て解決したように思えましたが、まだ一つ大きな問題が残っていました。

 そうです。翼などの道具を全部大人が隠してしまっているのです。あの道具が無ければ、地上に帰って

こられなくなります。

 二人は一生懸命探しました。そして何とか隠し場所を見付けると、黙って盗んでしまったのです。

 空に昇る子供はいいですが、後に残る子の方はすぐにばれてまた酷く叱られてしまうでしょう。

 でもその子はそれでも構わないと言いました。空へ昇る為なら、いくら怒られても平気だと言うのです。

 子供は心配でしたけど、最後には空に昇りたいという気持ちに負けてしまいました。

 こうして再び子供は空へ昇って行ったのです。


 子供はゆっくり昇り、辺りが真っ黒になってきた所で影を貼り付けてもらって、一番目の目標を決めま

した。

 それは地上に二番目に近いだろう白丸で、子供はまず近い場所から順々に行ってみようと考えたのです。

 そして方向を慎重に整えた後影を離してもらい、また影を貼り付けしながら、ゆっくりと慎重に進みま

した。

 子供は地上に居る協力者の子の事を心配しながら、糸電話で話しながら何度も何度も影の貼り付け、取

り外しを行い、やっとの事でその白丸に到着したのです。

 もう随分疲れていたので早く休みたかったのですが、その白丸はとても暑く、何だか体が閉めつけられ

るようで居心地が悪く。白丸に降り立った直後から物凄い風が吹いて、吹き飛ばされてしまいそうになっ

てしまいました。

 何とか頑張って切り抜けましたが、おかげで翼の調子が悪くなっているような気がしました。

 幸いな事に段々白丸の地面に近付くに従って風は弱くなってくれましたが。もしあんな凄い風がずっと

吹いていたのでしたら、道具は全て吹き飛ばされて、もう戻れなくなっていたかもしれません。

 糸電話の糸も丈夫なのを用意していたので今の所千切れてはいませんが、あまりにも風が吹いて糸が揺

れる為に、地上に居る子と話すのが難しくなっています。

 このままではいつ千切れてしまうか解らないので、子供はなるべく早くこの白丸から出て行く事にしま

した。

 その為に子供は良い方法を考え出しました。

 あの上空に吹いている強い風、あれに乗ってしまえば少ない時間でこの白丸全部を見る事が出来るかも

しれない。

 子供は影を外してもらい、空を見上げ、またゆっくりと昇っていきました。

 そして風が一番強くなっている所で影を貼り付けてもらい、今度は風に逆らわないように翼を張って、

まるで川に流されるようにして飛んで行きます。

 その速さは今まで体験した事もない速さで、体に当たる風も凄かったですけど、とても楽しい経験にな

りました。

 そうしてぐるりと白丸を一周しましたが、どうやらここには誰も居ないようです。

 仕方ないのでもう一度影を外してもらい、この白丸から離れたのでした。

 ここで子供は休憩するのを忘れていた事を思い出しましたが、今更どうにもなりません。もう一度あの

強風の中に入ると翼がもたないかもしれませんし、諦めて次の白丸に向かう事にします。


 子供は次の白丸まで一生懸命頑張りましたが、とうとう眠気に負けて眠ってしまいました。

 もし地上に残してきた子が起こしてくれなかったら、そのまま赤丸まで引っ張られてしまっていたかも

しれません。

 でもその子が起こしてくれたのには理由がありました。

 その子はずっと大人達から隠れて手伝ってくれていたのですが、二人が居なくなった事で大騒ぎになっ

ていて、それで大人達が皆して探したものですからとうとう見付かってしまったらしいのです。

 事情を説明して、今自分が手伝わないと空に行った子供がどうなるか解らないと言って、何とか大人達

を説得したのですが。代わりにいつも大人に見張られて、その上いつも早く戻ってくるように言え、と言

われるのだそうです。

 でもその子はそんな事をいちいち子供に言うのが嫌で、子供に言っているふりをして騙していたのです

が、それもとうとうばれてしまい、このままでは糸電話も取り上げられてしまいそうだったので、仕方な

くこうして話したのだそうです。

 結果としてそのおかげで子供は助かったのですが、こういう状況では喜んでばかりもいられません。と

にかく早く帰らないと、地上の子がどんな目に遭わされてしまうか。

 子供は本当はもう地上になんて帰りたくはなかったのですけど、こんな事になっては我がまま言えませ

ん。地上の子にはずっと手伝ってもらっていた恩があります。ここで見捨てる訳にはいかないのです。

 それに見捨ててしまって地上に協力者が居なくなれば、子供も帰る道も行く道も失ってしまい、後はこ

こで動けずに一生を終えるか、赤丸に燃やされてしまうかしかなくなります。

 子供はどちらも嫌でしたから、次の白丸を最後にしてなるべく早く地上に帰る事にしました。

 帰ればうんと叱られてしまうでしょうけど、それも仕方のない事です。

 子供は眠って少し気分が良くなっていたので、翼をはばたいて速度を上げ、ぐんぐんと白丸に近付いて

いきました。

 眠っている内にすぐ側まで来ていたので、到着するまで時間はかかりません。

 その白丸は最初に行った白丸と似ていて、地面は穴ぼこだらけで、空らしい空はありませんでした。

 真っ黒な空はありますが、青い空はありません。

 でも今では真っ黒空に慣れていたので、こっちの方が良いような気がしました。

 真っ黒空の方が昼でも星が見れて綺麗なのです。

 勿論青い空も綺麗ですけど、こっちの空も綺麗なのでした。

 この白丸もとても暑くて汗が出てきましたけど、子供は地上へ帰る力を蓄える為、そこで眠る事にしま

した。

 なかなか寝付けませんでしたが、それでも疲れからでしょう、いつの間にか子供はぐっすり眠っていた

のです。


 子供は大きなくしゃみをして目を覚ましました。

 そして体をぶるぶると震わせます。

 いつの間にかあんなに暑かったのが、物凄く寒くなっています。

 このまま居たら凍ってしまいそうだったので、急いではばたいて体を動かし、そのまま白丸をぐるぐる

と回りました。

 その間にも暑くなったり寒くなったりを繰り返します。多分この白丸には夏と冬があるのでしょう。

 そう思うと少し地上が懐かしくなりましたが、我慢してたくさん調べました。

 でも結局ここにも一人も残っていませんでした。

 そこで子供はもう諦めてしまって、影を外して空を見上げ、再び空へと吸い込まれたのです。


 空へ出ると子供は影を貼り付け、一生懸命翼をはばたかせました。

 赤丸が引っ張る力がとても強くなっているので、なかなか進めません。

 それでも頑張って頑張ってはばたかせ、ようやく地上まで戻ってきました。

 青い空に入ると、もう下の方で大人や子供が沢山こっちを見上げているのが解ります。

 その中には勿論協力してくれた子の姿も見えました。

 次はその子を空に昇らせてあげる約束ですけど、暫くは大人の方も厳しくするでしょうから、出来るか

どうか解りません。

 そこで子供は自分とその子が大人になってから約束を果たす事を考えました。

 それまで大人しくしていれば、きっと大人は油断するだろうと考えたのです。

 子供とその子は大人達からこっぴどく怒られましたけど、一度も泣きませんでした。

 もう一度空へ昇るまで、二人でずっと頑張ると決めたのです。

 頑張ると決めたからには、もう泣く訳にはいきません。

 許してもらえた後も、子供とその子にはいつも見張りが付けられていました。

 見張りはとても邪魔で、遊んだり何かする時に素直に楽しめなくなりましたが、子供とその子はずっと

我慢しました。

 ここで諦めてしまったら、もう空へ昇れなくなるのです。

 二人の子供は大人に気に入られるように大人しくして、ずっとその時を待ちました。

 そうしてたくさんの時間が経ちました。

 今では二人の子供は大人になり、随分大人達に信用されていて見張りもいなくなり、逆に子供の見張り

を頼まれるようになっていました。

 勿論見張りは断りますが。初めて頼まれた時なんかは、長い間二人で頑張ってきたかいがあったと喜ん

だものです。

 そして二人は見張りが付かなくなった頃から、こっそりと空へ昇る準備を進めていました。

 翼などの道具は皆子供が戻ってきた後に大人に壊されてしまいましたので、また一から作り直さないと

なりません。

 でもそれはそれで良かったのかもしれません。特に翼は随分おんぼろになっていて、もういつ壊れても

おかしくなかったからです。

 空へ行く為には、もっと丈夫な翼を作らなければなりません。

 だから二人は大人達が壊すのを見てもじっと我慢して、決して泣きませんでした。

 働いてくれてありがとう。壊して御免ね。とずっと心の中で謝っていたのです。

 二人は一生懸命頑張り、時間をかけて何とか全ての道具を作り直しました。

 今では大人になっていますし、時間も沢山使えたので、前よりも丈夫で良い物を作る事が出来ています。

 材料も良い物を使ったので、例えあの二番目の白丸の強風の中でもびくともしないでしょう。何度赤丸

と地上を往復しても、まず壊れる事はありません。

 そして全てが揃うと、二人は長い約束を果たす為に身を隠し、計画を実行しました。

 計画は成功です。無事約束通りに昔手伝ってくれた子を空へ行かせる事が出来たのです。

「こんなの初めて見た。こんなの初めてだ」

 空へ昇った人は子供のようにはしゃいで、何かある度に色んな事を話してくれます。

 それを聞いて地上の大人も昔を思い出してあたたかい気持ちになったりしました。

 でも三つ目の白丸に行って、そこから飛び立った頃からでしょうか、まったく声が聴こえなくなったの

です。

 大人からも空へ向かって鉄糸電話で何度も話しかけたのですが、一つも返事がありません。ただ何か燃

えているような音がしたので、多分赤丸に近い場所を飛んでいるんだろうなと思えました。

 大人はずっと待っていましたが、相変わらず音沙汰ありません。

 それに何だか鉄糸電話が熱くなってきていて、触ると火傷しそうなくらいになっています。

 それでも大人は辛抱強く待ちました。なるべく鉄糸電話に耳を近付けて、いつでも聴こえるように待っ

ていたのです。

 でも随分経ってもやっぱり連絡はありません。

 そして何だか空から真っ赤なものが近付いてくるのが見えるようになってきました。

 それはゆっくりですけど確実に地上に近付いていて、丁度鉄糸電話の鉄糸を辿ってくるように見えます。

 やがてその姿がはっきり見えるようになると、それは鉄糸が燃えているからだという事が解りました。

 この頃には地上は空から降りてくる赤いもので大騒ぎになっていまして、鉄糸も発見されてしまい、大

人は他の大人達に捕まってしまいました。

 事情を話して前と同じように見張り付きで空へ昇った人の帰りを待つようにしてもらいましたが、その

内鉄糸が全て燃えてしまい、地上に残った大人は全ての希望を失いました。

 これで空との繋がりが全て消えてしまったように思えたのです。

 でも本当はもう解っていたのです。

 多分昇った人は赤丸に近付き過ぎて、燃やされてしまったのでしょう。

 そういえばあの人はあの子だった頃から、あのでっかく光る赤丸にとても興味を持っていたのです。

 空に昇ってからは尚更で、近付いて赤丸の姿が大きくなる度にいちいち喜んでいたものでした。

 そんな人でしたから、うっかり近付き過ぎても不思議はありません。

 でもそれを認めたくなかったのです。

 でもこうなってしまったら認めるしかありません。現実に全て燃えてしまったのですから。

 地上に残った人はそれからは何もする気がなくなったようになって、一日中あの場所で黙って空を眺め

続け、あの人が戻ってくる奇跡を待ち続けました。

 でも勿論戻ってくるはずがありません。地面に貼り付けた影と共に虚しく時を過ごすしかありませんで

した。

 そしてそれから随分時間流れた頃、二つの影を残して、地上に残った大人も何処かへ姿を消してしまっ

たのです。

 一人で空へ昇って逝ってしまったのかもしれません。

 そして赤丸に燃やされてしまったのかも。

 それを確認する事は出来ませんが、例えまだ地上に居たとしても、影を捨てた今では空を眺める事はで

きず、ずっと地面を見て暮らさなければなりません。

 空をこがれた人間にとって、それはどんなに辛い生き方でしょう。

 燃やされたか、影を捨てたか、どちらにしても辛い道を選んだものです。

 でもきっと、そうする以外にどうしようもなかったのです。

 後に残された人には、後悔しか残されないのですから。

 二つだけ残された影は、一つは地面に貼り付けられ、一つは地面から外されたまま、その場所に今も置

いてあるそうです。


                                                               了




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