川を渡りたい話


 この川を渡りたい。

 そう思ってどれくらいの時が流れただろう。今ではもうその理由さえ失われてしまった。

 それでも諦められず、この川を渡る為だけに生きている私は、一体何者なのだろうか。解らないが、いつの

間にか過程が目的になってしまったようだ。

 本来ならすぐにでも終わる仕事であったはずなのに。

 さるお方に仕えていた私は、決して裕福ではなかったし、地位と呼べる程の身分も与えられていなかったが、

衣食住に困る事は無く、ある意味安楽な暮らしが死ぬまで続くはずであった。

 しかしある日命じられた、この重要な役目。隣の国に居るあるお方へと主の手紙を届ける。

 それは救援を乞うもので、その方は主の遠縁にあたる隣国の有力者。

 今はもうどうしているか知らないが、ずっと待っておられるのかもしれない。

 いや、それは私の願望か。

 急ぎの救援であり、急ぎに急いだ。

 休憩どころか飲み食いさえせず、特別に今だけ乗る事を許された名馬を使い、駈けに駈けた。

 しかしそれもこの川と出合うまでの話。

 確かその前日までは緩やかで、膝丈くらいしかない浅い川だったはずなのに。何故かその日は大地を埋め尽

くさんばかりの大河となって、私の前に立ちはだかった。

 初めは馬で渡ろうとしたが、あえなく溺れ、大事な馬を失う結果となってしまった。

 だがそんな事で諦めていい役目ではない。馬を乗り捨て、自力で向こう岸まで泳ごうとした。

 それは途中までうまくいっていた。すでに半ばを越えていたし、この川を越えれば隣国はすぐだ。馬がなく

とも数時間とかかるまい。

 だがそう思ったその時、突然恐ろしい音が響いてきたかと思うと、川上から濁流が襲い、どこをどう流され

たのか、気付けば元の岸まで戻されていた。

 そして目を開けた私を待っていたのは、さらに大きく広がった川の姿である。

 目を疑った。

 悪魔か魔法使いにでもたぶらかされているのか。しかし主は敬虔なお方、そして私も主に従い、毎日の祈り

を欠かさない。

 僧ほどの加護は得られないとしても、悪魔が付け入る隙などないはずだ。

 天はいつも私達を見ておられる。

 私はひざまずき、天に祈りを捧げた。

 邪悪な者が私を行かせまいとしているなら、それこそ私に与えられた役目が天の道にも適う証。どうぞ見守

り、成就させて下さいと。

 すると荒れ狂っていた川がぴたりと鎮まった。

 私は天に感謝し、その力を身近にした。

 だがこれほどの広さになると、さすがに泳いでは渡れない。

 下手というほどではないが、上手くもない。休憩も取らず急いできた疲れもあって、到底泳ぎきれるとは思

えなかった。

 渡し舟があればいいのだが、本来は浅い川なのだからある訳がない。

 仕方なく私は一度付近の村まで引き返し、舟を調達する事にした。

 舟はすぐに見付かり、なけなしの金をはたいてその舟を借り受けた。足りない分は後で払う約束し、その為

に主の名を出す事になってしまったが、仕方ない。

 多少迷惑をかけたとしても、やり遂げるだけの意味がある。

 そして舟で川に出たのだが、数分としない内に冷たさを感じた。

 そう、穴が空いていたのである。

 舟の持ち主の不手際なのか、何者かの仕業なのかは解らない。どちらにせよ、それ以上進むのは不可能だっ

た。必死に水をかきだしても焼け石に水。半時もすると完全に舟は沈み、私は大河に放り出された。

 でも私にはまだ舟をこぐ為のかいが残されている。

 もうこぐ舟はないが、このかいにしがみ付いていけば、何とか渡れる。

 私は残る力を振り絞って泳いだ。それは不恰好ではあったが、確実に進み、対岸へと近付く。

 そうしてあと少しで対岸だと言う所までたどり着いた時、そうだ、その時だ。あのこしゃくな鳥が私の前に

現れたのは。

 その鳥は白く、両手にかかえられるくらいの大きさで、一見して天の使いかのように見えた。

 だがその性根は邪悪そのもので、私をこう脅してきたのである。

「お前の下を泳ぐ魚をよこさねば、そのかいを食ってしまうぞ」

 事実その鳥はかいをついばみ始めていた。木製のかいなど、丈夫なくちばしにかかれば問題にもならない。

見る間に食い削られ、半分の長さにされた。

 私は慌てて止めてくれるよう頼み、この役目を遂げれば必ず戻ってきて、お前に魚を与えよう、と約束した。

その上、他に好きなものがあれば、買い与えようとまで言ったのだ。

 しかし鳥は無表情に。

「欲しいのはお前の下の魚だけだ。早くよこせ」

 と言って、聞かない。

 残された道は頷くしかなく。残る力を振り絞って水中に潜った。

 天の力で穏やかになった川は澄み切っており、私の目でも魚を追う事ができた。

 しかし魚はすばしこく、とても私の泳ぎでは捕まえられそうにない。

 仕方なく一度かいに戻り、せめて道具を持ってこさせてくれ、対岸に行けば網か釣竿があるだろうから、と

言ったのだが。鳥は。

「だめだ、だめだ。そう言って逃げるつもりなんだろう」

 と言って聞かない。

 私は何度も魚獲りに挑戦したが、小魚一匹捕まえられず、結局は鳥にかいを全部食べられてしまい、溺れる

結果となった。

 そして気付いた時、再び岸に流されていたのである。

 命が助かったのは天恵と喜んだが、川は渡れていない。私を邪魔する存在は天の力も及ばないのか、それと

も不思議な方法を用いて天を欺いているのか、どちらにしても天に頼るだけではどうにもならないようだ。

 私は再び近くの村に引き返し、網と釣竿を借りてきた。できれば舟が欲しかったのだが、もう貸してくれる

者はいなかった。舟がなければ、皆死ぬしかないのだ。これ以上貸してくれる訳がなかった。

 舟の持ち主には必ず償うと約束しておいたが、もはや二度と誰も私に舟を貸してくれまい。道具を貸してく

れるだけまだましというものだった。

 これも主が領民に慕われているおかげだろう。

 私は川辺に行き、釣竿を垂れ、網をしかけたが、いつまでたっても一匹も獲れない。

 釣竿は投げる度に餌を取られ、網はしかける度に破られる。

 それでも長く苦労して、やっと小さな魚を一匹だけ獲る事ができた。

 私は舟の代わりに樵(きこり)から調達した丸太を浮かべ、魚を持って対岸へ向かった。

 すると見計らったかのように鳥が降りてきて、魚をせびる。

 勿論、惜しまず渡した。しかし。

「ほしいのはお前の下を泳いでいる魚だ。これではない。何度言ったら解る」

 と言って受け取ろうとしない。

 どの魚だって同じじゃないか。と言っても、全く聞き入れない。

 結局丸太も食べられ、溺れて岸まで流された。

 あの鳥は初めから取引に応じるつもりなどないに違いない。でなければ、あんな無茶な事は言うまい。

 そこでまたしても村に戻り、今度は鳥撃ち銃を借りてきた。

 古い銃だが射程は充分、丁寧に手入れされていて錆が一つとしてない。弾も何十発もあるし、鳥を一匹撃ち

落すくらい訳ないはずだ。

 銃の名手とまではいかないが、私も主の狩りのお供で扱いには慣れている。

 今に見ていろと鳥に銃を向け、狙いをすましていると、なにやらぽたぽたと降り落ちるものがある。

 雨だ。

 突然振り出した雨は一分とかからぬ内に豪雨に変わり、散々に私と銃を打ち据えた。

 それは手に持っていられない程で、うっかり落としてしまった銃は弾ごと川に流れ、沈んでしまった。

 慌てて後を追って潜ったのだが、この雨で土砂が流れ込み、視界が悪く何も見えない。この分ではすぐに土

砂で埋められる。

 残念だが諦めるより他なかった。

 ここに到って私はさすがに絶望に打ちのめされた。

 主の館を出てからどれほどの時間が経ってしまったのか、もう間に合わないかもしれない。

 到着が遅く、不審に思った主が助けをよこしてくれるかもしれないが、それを待っている時間はない。

 とにかく急がなければ。

 しかしその方法がない。

 天に祈る事で雨脚は弱くなったが、それが精一杯で、私には天にさじを投げられたようにも感じられた。

 落ち込んでいても仕方ないと頭を働かせてみたが、何も浮かばない。できる方法は全て試した。

 いつまでも息が続くのなら、或いはこの川を渡れるのかもしれないが。

 その時ふと思い出した。昔麦わらを使って、水を吸い出して遊んだ事を。

 水が吸えるのならば、逆に水の中から空気を吸えるのではないか。

 村に行って麦わらを譲ってもらい、それを何十本も束ね、川に戻った。

 水に入って試しにやってみると、慣れは必要だったが、何とか息ができる。

 泳ぎで何が疲れるかといえば、呼吸である。酸素の薄い中で動くから疲れてしまう。息継ぎもまた疲労が多

い。だからこうしていつも空気を吸っていられるなら、今の体力でも泳ぎきれるはずだ。

 私は勇んで水に飛び込み、懸命に泳いだ。

 最後の力を振り絞る。そんなつもりで泳ぎ続けた。

 そのおかげかすぐに対岸が見えてき、もうすぐで手が届く所までたどり着けた。

 しかしその時。

「ずるはいけないな」

 と言わんばかりに鳥が現れ、麦わらを全て食ってしまったのだ。

 突然麦わらを取られた私になす術はなく、勢い水を飲んでしまい、溺れ、例のように岸まで流された。

 最早それ以上の力はなく、私は絶望と共に気を失ってしまった。


 どれくらいの時間が流れただろう。

 私が目覚めた時、雨はすっかり上がり、全てに光注ぐ光景がはっきりと見て取れた。

 一息つき、立ち上がろうとしてみたが、ふらふらで上手くいかない。何とか岸に上がる事はできたが、それ

までに一時間はかかっただろう。

 私の体力は水の中で奪われたのか、まったく回復していなかった。

 そして陸に上がり安堵したのか、再び絶望と共に眠りに落ちた。

 目覚めた時、すでに日は落ちた後。

 そこには暗闇だけがあり、抜け出す術はないとでも教えたいのか、大きな影が私に降り注いでいた。

 見るとそれは大きな巨人で、伸ばされた手で無造作に抱え上げられた。

 確かこの付近の巨人は全て退治されたはずだが。生き延びていた者がまだいたとは。

 私は始め抗おうと考えたのだが、今の体力では逃げる事すらできないだろうと思い直し、捕まるに任せ、寝

たふりをしながら機を待つ事にした。

 巨人はこちらを死んだものと思っているのか、全く注意を払わない。

 撃ち落した獲物をかつぐように、私を肩に乗せ、迷いのない歩調で川沿いを進む。

 もしかしたら川を渡ってくれるかもしれない、と思った私の希望は叶わなかったが、諦めるのはまだ早い。

この巨人の住居に行けば、何かあるかもしれない。

 それにここまでは鳥も追ってこないだろう。逃げ出した後、川幅の狭い場所を探し、渡ればいい。

 そんな事を考えながら、息をひそめた。

 巨人は私を置くとさっさと出て行ったので、ここには居ない。

 すぐ隣に大きな建物があったから、おそらくそっちだろう。

 幸い鍵はかかっていないようで、いつでも逃げ出せる。大きく重そうな戸だが、頑張れば抜け出せるくらい

の隙間を開けられた。これで安心だ。

 さっさと逃げても良いのだが、巨人の住処に生きたままこれる事なんて滅多にない。探ってみよう。上手く

いけば、役立つ物を見付けられるかもしれない。

 巨人の持ち物は全て大きく、建物の中に居ると私は年端も行かぬ子供のように見える。

 身長は私の三倍くらいだろうか。もしかしたらもっとあるのかもしれないが、正確には解らない。

 でも力はもっとありそうだ。私を軽々と持ち上げて運んできた事を考えても、太刀打ちできるとは思えない。

 戦うなら軍隊が必要だ。

 そこまで考えた時、私にふと名案が浮かんだ。

 この巨人を味方にできれば、隣国まで行かなくても何とかなるのではないか。

 確かに難しい。不可能と思える。しかし巨人もまた人間、話して解らない事はないはずだ。

 それにこの調子では隣国に着けるどうかも解らない。それに今更隣国へ行っても間に合わないだろう。この

頃にはそれがはっきりしていた。

 救援してもらうにも色々な準備が必要である。それらを計算すると結構な日数がかかる。私が順調に向こう

に着けていてぎりぎりだったのではないか。

 でも今ここでこの巨人を味方にして戻れば、きっと間に合う。

 巨人の足は速い。それは背中に担がれていた私が誰よりも知っている。主を救うには、無理でも巨人を味方

にするしかない。

 説得するにはまず対価が必要だ。

 私も巨人がただで協力してくれるなんて考えていない。

 しかし対価など一体どこにある。

 主の所まで戻れば、何でも用意してくれるに違いないが、そんな約束を信用してくれるとは思えない。

 巨人というものは大体人間を嫌っているか、食料の一つとしか見ていない。中には友好的な巨人も居るらし

いが、私はそんな巨人に出会った事はなかった。

 それが今たまたま出会えたと考えるのは、あまりにも虫のいい話である。

 さて、どうしよう。

 この場で全てを支払うのは無理だが、前金程度でも払えたら、信じてもらえるだろうか。

 しかし今の私の持ち物の中で価値がありそうな物があるとすれば、身分証明になる主から与えられた短剣し

かない。

 これで気を引けるだろうか。

 いや、何としても受け入れさせなければならない。

 覚悟を決め、隣の建物に向かった。

 隣の建物も同じくらい天井が高く、広く、子供に戻ったような錯覚を受ける。

 家の作りこそ生まれ育った家と似ても似つかなかったが、不思議となつかしく思えたのは、その為かもしれ

ない。

 置いてある道具は大きさを除けば私達の使う物と大差ない。

 おそらく生活習慣もそんなには違わないのだろう。

 価値観も近いかもしれない。そうであってくれれば、望みが出てくるのだが。

 堂々と廊下を進み、奥へ向かった。

 しばらく進むと何やら声が聴こえてくた。これは歌だ。巨人が歌っている。驚く事に歌詞も理解できた。言

葉遣いに特徴はあるが、我々の言語とほとんど変わらないようだ。これなら充分話もできるだろう。

 私は一度大きく息を吸って、巨人に向かって進み出た。

「おい、そこな巨人、少し頼みたい事がある」

 主の代理として頼むのだから、卑小な態度では臨めない。少々大仰かとも思ったが、そんな風に大声で述べ

てみる。

「むう、このわしを呼ぶのは一体何者だ」

 料理をしていたのか、振り向いた巨人は手に大きな刃物と野菜を持っていた。これで私を一緒に料理してし

まうつもりだったのか。

 しかしそうはさせない。

「私はこの国のさるお方の使いである」

「ほう、そのお使い様の死にぞこないが、わしに何のようだ」

「主はお前の手助けを望んでいる。勿論褒美もたんと出す。ほれ、その証にこの剣を与えよとの事だ」

 私が短剣を渡すと、巨人はしばらく眺め回していたが。

「ふうむ、確かに値打ち物らしいな。わしに何をしろと言うのだ」

 私は大雑把にだが、必要な事を全て話して聞かせた。

 巨人は黙って聞いているようだったが、野菜が気になるのか手持ち無沙汰なのか、しょっちゅうそれを触っ

てはいじくり回している。

 怒鳴りたくなったが、我慢した。ここで巨人を怒らせる訳にはいかない。多少の非礼は見逃そう。

「ほお、なるほどなあ。しかしわしには関係のない事だ。それにわしにとってこんな剣などより、お前の肉の

方が大事じゃわい」

 巨人は手にしていた短剣を放り投げ返してきたかと思うと、手にした刃物を私に向けて勢い良く振り下ろし

てきた。

 間一髪避ける事ができたが、髪をざっくり切られてしまった。報告前に床屋にいかなければ、恥ずかしくて

お目見えできない。

 しかしその時は勿論余計な事を考えている余裕はなく、命からがら逃げ出した。

 その時鍋が噴く音がし、巨人がそちらに気を取られたから良かったものの、そのまま追われていたら、きっ

と数分もしない内に捕まり、巨人の腹の中に収められていただろう。

 おかげで命は助かったが、これで私は価値ある全てを失った。

 短剣を拾っている暇などなく、財布もほぼ空だ。

 さて、これからどうしよう。

 とにかくここに居ては不味い。何も得られず、失うばかりだったが、急いでここから離れなければ。

 私はとにかく急ぎ引き返し、何とか見覚えのある場所まで戻る事ができた。

 逃げる最中巨人の姿が見えなかったのは、諦めてくれたからだろうか。

 まあ、いい。とにかく命だけは助かったのだ。生きてさえいれば、役目を果たす可能性は残る。ならばそれ

でよしとしよう。巨人などの力を借りようと考えた、私が愚かだったのだ。

 過ぎた事は置いておき、今どうするかを考えよう。

 しかし考えれば考えるほど、道が無い事に気付く。

 道具を借りてこようにも、主の使者たる証の剣がない。村人が顔を憶えてくれていたとしても、それが無け

れば主の命と証明できないのである。

 悪くすれば、私が主の名を騙っていると取られかねない。ただでさえ私は様々な物を借り、売ってもらった

が、それを全て失っている。村人の間には不信感があるはずだ。私は一体何をやっているのかと。

 これ以上の協力は得られないと考えた方が良いだろう。

 この川まで連れてくれば、状況を理解してくれるかもしれないが、だからと言って何がどうなるとも思えな

い。一緒に途方に暮れるだけだろう。

 だが何もなしで渡れる程この川はあまくない。

 私はしばらく考えた後、巨人の家まで引き返し、そこから必要な道具を盗んでくる事にした。

 危険なのは解っているが、他に当てはない。

 気休めに落ちていた細長い棒を拾い、それを手にして静かに来た道をたどる。

 本当の所、私はいつ巨人に出くわすか出くわすかとそれだけを考えていた。私には勇気も力もない。本音で

はすぐにでも逃げ出したい。しかし、それでも、やる時はやらなければならない。

 それが男というものだからだ。

 もしそれをしなければ、本当に駄目になってしまう。自分でそれが解るのである。

 それは死ぬ事と同じ。だからどれだけ辛くとも、怖くとも、私はやるしかない。

 これが運命という奴なのだろう。


 巨人の家は静かだった。木陰に隠れて周囲を見、様子を窺っていたが、動きはない。

 近づいてみると歌のようなものが聞こえてきたから、中には居るのだろうが、外から見る限り静かなもので

ある。森のささやきの方が目立つくらいだ。

 私は閉じ込められていた物置へ忍び入った。相変わらず鍵はかかっていない。さっさと物色し、気付かれな

い間に逃げてしまうのが賢明だろう。

 物置の中には、ロープ、網、猟銃など色んな物があったが、どれも大き過ぎて使えない。重さも相当なもの

で、運ぶには大人が数人は必要だ。

 他に何か無いかと探してみるのだが、目ぼしいものはどれも大きく使いようが無い。私でも運べそうな小さ

な物もあったが、手入れしていないのかぼろぼろだった。多分、迷い込んだ人間から奪ったか、私と同じよう

に連れてこられ、道具だけが残ったのだろう。

 しかしいい加減諦めようかと思ったその時、おかしな物を見付けた。

 空飛ぶ壷とでも言えば良いのか。妙な形をした入れ物がさりげなく浮いている。ごみごみした中に一緒くた

に放り込まれていたので、今まで解らなかったのだ。

 古ぼけた良く解らない代物だが、もしかしたら使えるかもしれない。

 これに乗っていけば、川も楽に渡れるだろうと。

 私は興奮した面持ちで壷の上に立とうとした。

 するとなんという事だろう。すっぽりとその花瓶程度の大きさの壷の中へ、落ちてしまったのである。

 壷の中は薄暗いがやけに広く、窮屈な感じはしなかった。

 目が慣れてくると、私の体が物凄く縮んでいるらしい事が見て取れた。壷と比較するに、握り拳くらいの大

きさか。

 何だか不思議な気分だが、ここは寒くも熱くもなく、慣れれば案外快適な空間である。

 私の他には誰もおらず、辛うじて壷の口から外が見える。

 あそこからなら出れるかもしれない。

 しかし高い。

 どうにかならないかと辺りを見回すと、壁の一角にはしごのように溝が掘ってあるのを発見した。勇んで登

っていくと簡単に外に出る事ができた。

 外に出ると体も元の大きさに戻り、異常なども見られない。

 壷もその場に浮いたままである。

 このような仕組みなら、色んな物が壷の中に入っていてもおかしくないのに、とぼんやり考えながら見てい

ると、ふと壷のふたらしきものが目に入った。

 なるほど、ふたがされていたからか。

 理解してすっきりした所で外に出ようとすると、地鳴りのような足音が聴こえてきた。その音と振動はどん

どん強まってくる。

 おそるおそる戸口から覗いてみると、向こうから前に見たのとは別の巨人が数人こっちに向かっているらし

い。木々の間からその姿がちらちら見える。

 巨人の住居前に到着すると、彼らはどこから持ってきたのか酒や食べ物を取り出して、勝手に飲み食いし始

めた。

 程無く住居からも例の巨人が出てきてその輪に加わり、宴会が始まった。

 それは好都合なのだが、外にそうして居座っていられると物置から出られない。

 いつかは酔い潰れるか、自然に終わるだろうが、それまで待っていられない。もうかなりの時間が経ってい

る。一秒でも早く隣国に行かなければ。

 しかし今出て行っても酒の肴にされてしまうだけ。一体どうすればいい。

 無い知恵をしぼって考えると、一つ閃いた事がある。

 この壷だ。この壷に入って移動すればいい。

 横向きに置いた壷に入り、そのまま横向きに押し走れば上手く転がってくれるだろう。

 壷の形からして真っ直ぐ転がるとは思えない、などの不安もあったが、他に方法はない。とにかく転がって

いけば、どこかには出る。

 覚悟を決めて横にした壷に入り、懸命に走った。

 壷は不安定に右に左にと位置を変えながら、じぐざぐに真っ直ぐ進んでいる。

 声からして巨人達がこちらに気付いた様子はないが、壷は緑に映える色をしている。気付かれない内に急ぎ

脱出しなくては。

 私はとにかく一心不乱に走り続けた。

 どれくらい走っただろう。突然重力が消え、胃が持ち上がるあの気持ちの悪い感覚がしたと思うと、派手な

水音が聴こえた。

 川に落ちたのだろう。

 その証拠に壷の口からどんどん水が入ってきている。

 水もここに入ると縮むようで、いっぱいになるまでにはまだ時間があるようだが、長くはない。

 慌てて出ようと口の方へ向かったが、走る度に壷がころころ回るし、勢い良く流れてくる水に足をとられ、

どうにも出られない。

 何とかはうようにして少しずつ進んでみるが、そんな調子では水流に抗えるはずもなく、どうしようもない

まま水が入ってくるのを見ているしかなかった。

 しかし私はある事を思いついた。

 水が入ってくるから押し戻されるのであって、この壷がいっぱいになってしまえば、後は簡単に泳いで出ら

れるだろうと。

 その目論見は当たり、無事外に出る事ができた。

 私はそのまま壷をつかんでひっくり返し、水を捨ててから壷を立てさせた。すると壷は前のように浮かんだ。

この壷に掴まっている限り、溺れずに済みそうだ。

 この機会に川を渡ってしまうと思い、周囲を見回してみたが、川岸がどちらも崖のようになっていて、水量

がある今でもちょっと登れそうにない。

 しかたないので流れるに任せ、適当な場所を探す事にした。


 結局、以前川を渡ろうとしていた場所にまで戻る事になった。

 どうやらこの付近が一番渡りやすく、だからこそ道が造られた。道理である。

 私は以前居た岸の方へ戻った。この壷があるから楽に泳げるが、行けばあの鳥が邪魔してくるだろうし、一

度態勢を整えたほうがいい。

 鳥に見付からないよう慎重に泳ぎ、ようやく岸に辿り着く。時間はないが、だからこそ一時間ほど休む事に

した。疲労がたまっている。ここで無理に行くより、かえってその方が早くなるだろうと思ったのだ。

 急がば回れ、という言葉もある。

 私は体を横にすると、鳥をどうするか考え始めた。

 このまま行けば丸太の時と同じになる。壷なんか簡単に割られてしまうだろう。

 あの鳥をどうにかしなければ、渡る事はできそうにない。

 体を休めた後、私は再び川に出た。

 すっかりとは言えないが、泳ぐのも楽になった。壷の力を借りれば、何とか行ける。

 鳥に対しても一つ考えがある。

 多分、何とかなるだろう。

 急ぎ泳ぎ、もう少しで対岸にたどり着く、という所で鳥が現れた。

 相変わらず憎たらしい態度で、人を馬鹿にしきったような邪悪な顔をしている。壷のおかげで始めてじっく

りと見る事ができた訳だが、まったくなんという顔をしているのだろう。ぞっとする。

「お前の下を泳ぐ魚をよこさねば、その壷割ってしまうぞ」

「まあ待て、解っている。だからこの壷に入れてもってきたのだ。確かにここにある」

「ほほう、そういうなら、出してみるがいい」

「いや、ここで出すと逃げてしまう。この壷の中にあるのだから、そのまま食べてくれ」

 鳥はしばらく考えていたが、諦めたのか、食欲が勝ったのか。

「そういう事ならしかたない。そのままいただくとしよう」

 その顔から察するに、魚を食べても姿が見えないから確認しようがない、などと難癖をつけようとしたのだ

ろうが、そうはいかない。

 私は鳥が近付いてきたのを幸い、えいやっと壷をひっくり返してすっぽりと中に鳥を入れ、そのまま川に沈

めてやった。

 自由に空は飛べても、水中は泳げまい。もしかしたらそれでも出てくるかもしれないが、川を渡る時間は稼

げるはずだ。

 私は対岸へと必死に泳いだ。

 正直身体は疲れ果て、まともに泳げもしなかったが、気力だけで何とか手足を動かし続ける。

 そうすると不思議なもので、思っていたよりも体を動かせる。

 もしかしたら自分で考えている限界というものは、ずっと基準が低いのかもしれない。

 本当はもっとずっと力を出せるのに、臆病にもその一歩、いや二歩も三歩も手前で止めてしまう。

 それは本当の限界を自分で知る事が、或いは他人に知られる事が、怖いからかもしれない。

 そんな事を思いながら、泳ぎ続ける。

 後もう少しだ。

 対岸はすぐそこまで来ている。

 私は踊りだしたいような気持ちになって、更に速度を上げた。

 現金なもので、手が届くとなると、疲れも吹き飛ぶ。

 速度もいくらでも上がられた。水面を飛ぶように泳ぐ。

 しかしそんな私を何かが止めた。

 足が動かない。何か強い力でぎゅっと掴まれている。

 痛みを覚え、思わず声を上げた。しかしどんなに頑張っても足は動かない。

 水面に顔を上げるだけがやっとだった。

 このままでは溺れてしまう。

 後もう少しなのに。

 私は覚悟を決め、一度だけ思いっきり水面に顔を出して、それからざぶんと一息に潜った。

 足首を見みると、何かが絡み付いている。海草だろうか、植物が何重にもぐるぐるに巻かれていて、それが

強い力で引っ張っている。

 私は何とか引き千切ろうと力を入れたが、びくともしない。

 息がこぼれ、渇きを覚える。

 急いで水面に顔を出そうとしたが、植物は益々力を強め、海底へ引きずり込もうとする。

 必死に抵抗したが、結局はそのまま水中で気を失ってしまった。


 気付いた時、私は何度もそうだったように、川岸に流れ着いていた。

 一体何度こんな事をすれば終わるのか。

 悪辣な鳥を何とかできたと思ったら、今度は海草だ。きっと海草を何とかできたとしても、また別の何かが

出てくるのだろう。

 神の加護あればこそこうして生きていられるが、それ以上の事はしてくれない。

 それ以上は手が回らないのだろう。

 神も万能ではない。或いは別の神が邪魔しているのか。

 解らないが、自らの力で何とかするしかなさそうだ。

 例えそれが絶望しかなく、今更渡河に成功しても決して間に合わないとしても、私はやり続けなければなら

ない。

 他にどうしようもないからだ。

 諦めることは許されない。

 私が主の許に戻った所で、何の力にもなれない。

 絶望させるだけだろう。

 それならここで溺れ死んだ方がましだ。

 しかしその望みも叶いそうにないか。

 私は護られている。

 でも護りたい人達を護れない。

 私は死なないが、誰も護れない。

 いや、初めから私に人を護れるような力は無かったのだ。

 何一つできず、ここで立ち往生。それがせいぜい。

 天を仰ぎ、答えを求める。

 しかしいつまでも、誰も、何も、答えてはくれなかった。

 確かに、それこそが神だ。

 そして悪魔なのだ。

 どちらが味方なのかは知らないが。


 こうして私はまだ渡れずにいる。

 勿論、諦めた訳ではない。あらゆる手を尽くし、懸命に役目を全うしようとした。だが、それでも、何をし

ても、最後にはここに流される。

 まるでその為だけに生きているかのように。

 悪い夢であれば良かったのだが、この年老いつつある肉体を見れば、嫌でも現実である事を思わされる。今

では黒髪を探す方が難しい。手足も細り、弱弱しいものになってしまった。

 今の私では対岸まで自力で泳ぎ切れない。

 だから舟を作りもし、この川を渡る旅行者や役人に助けてもらおうともした。しかしその度に私だけが災難

に遭い、戻される。

 ああ、いつまでこんな事を続ければ良いのか。

 それともこの場所に一生を捧げる事が私の役目なのだろうか。

 運命なのか。

 生まれてきた、そして生きる意味なのか。

 今更渡れたとして、何も変わらない。全て終わってしまった後だとしても、何とかこの役目だけは果たして

死にたいのだが、それも叶わぬ夢だ。

 何を望むべきか、それすら失ってしまったような気がする。

 それでも尚、私は生きている。生かされる。

 神がそう望む限り、私もまたそれを望んでいるのだろう。

 生きている限り、可能性は消えない。

 例えそれが終わってしまっても、生きている限り、また何かが始まるかもしれない。

 それこそが最も偉大な事実だと、私は学んだ。

 なら、それだけで満足するべきなのか。

 解らない。

 解らないまま、私は今日も立ち向かう。

 それが生というものなら、私はそれを認めよう。

 永劫に報われないとしても、私はそれを行なおう。

 できるできないではない。それを私が望んでいる限り、希望は失われない。

 それこそが絶望なのかもしれないとしても、私は




EXIT