黒衣の召喚士


「我が名はガミジン、古の盟約に基き、汝が望みを叶えよう」

 魔方陣の中に気高き仔馬が一頭浮かんでいる。小さくか弱きその姿に反し、目は鋭く闇に輝き、しわが

れた声には叡智(えいち)が見える。

 それに対峙するように黒衣の人間が居る。おそらく召喚者であろう、杖を持ち、掲げ伸びた腕は枯れ枝

のように細く頼りない。まるで生まれてこのかた肉体労働などした事もないかのようだ。

「我が友、ガミジンよ。まずは相応しき姿になってもらおう」

「よかろう、小さき者よ、汝が望む姿を言え」

「うら若き乙女を所望する」

「汝が望むままに」

 仔馬が炎色をした衣を着る、美しく長い髪の乙女に姿を変える。神々しいばかりに美しいその姿は、全

ての男性を魅了せずにはいられない。

 いや、女性でさえ例外ではないかもしれぬ。

「さあ、次なる望みを言うが良い」

 しかしその声はしわがれたままだ。

「うーむ、ガミジンよ。その声は何とかならんのか」

「無理を言うな。我とてできる事と同じだけできない事がある。それが摂理というものぞ」

「じゃあもういいや。何か適当にその声にあった姿に変われ」

「よかろう」

 何となく緊張感の抜けた男を尻目に、ガミジンは初老の男性に姿を変えた。眼鏡をかけ、丁寧に髪を後

ろに撫で付けたその姿は、人の良さそうな老執事といった所か。

「これで満足かな、小さき者よ」

「そこまでやったんだったら、その話し方もなんとかしろ。やる気なくすわ」

「う、うむ。心得た」

 男はもう完全に興味を失ったかのように両足を投げ出して座り込み、そっぽを向いている。その表情は

目深に被った頭巾に隠され、窺い知る事ができない。その声と背格好から年齢や姿を察し難く、執事姿に

なったガミジンよりも数段悪魔らしい。

「では、これでよろしいですかな」

「ん、まあ、良いだろう」

 男は機嫌を直したのか立ち上がり、杖を立てて体重を乗せる。どうもあまり足腰が強くないようだ。こ

の杖も魔術的な意味合いより、本来の役目の方が強いように見える。

「それで私は何をすればよろしいのですかな」

「うむ、それよ」

「望むのでしたら、あらゆる質問に答えましょう。亡き人の魂を呼び出す事も造作も無い事です」

「うむ、それよ、それ」

 ガミジンはつくづく厄介な人間に出会ったと思った。今まで無数の人間に召喚され、その望みを叶えて

きたが、こうもつかみ所のない人間は始めてだ。自分を召喚できるとなれば、相応の力を持った魔術師な

のだろうが、一体どのような事が聞きたいのか。

 それとも亡き家族、恋人ともう一度話をしたいのか。

 まったくもって顔が見えないというのは話しにくい。

「心でも読めれば楽なのだが」

「ん、何か言ったか」

「いえ、何も。それで、貴方の望みというのは・・・」

「ふうむ。悪魔のくせにその程度の事も解らんのか」

「・・・・申し訳ありません」

 ガミジンは流石にカチンときたが、召喚された以上望みを叶えるまでは帰れない。とにかくさっさと聞

き出して、さっさと叶えて帰るべきだと考える。

 実に賢明な判断だ。

「この愚かな悪魔めに、どうかお教え下さい」

「ふうむ、仕方ないな。ではまあ、聞け」

「ははっ」

 男の話はこうだ。

 この男は名高い魔術師だそうだが、目立つのが何よりも嫌いで、人からごちゃごちゃ言われるのも大嫌

い。だからこうして隠遁生活をしてきたが、金に困るし、女も欲しい。それに仕事もせずに一人で家にこ

もっていると付近の住民からは不審がられ、悪魔付きではないか、悪魔崇拝者ではないか、などという噂

も出てくる事になる。

 このままでは異端審問官でも呼ばれて面倒な事になるかもしれない。そこで何かしら仕事をしたいのだ

が、今更健康的な仕事をしてますと言っても信用されないだろう。そこで思い付いたのが失せ物探し。

 まあ便利屋とでも言った所か。これならある程度変な事をやってても文句を言われないだろうし、色ん

な意味で物を失くさない人間などいないのだから、仕事を失う事も無い。

 こうして方策は練ったが、そんなのやった事もないし、今から学ぶのは面倒だ。そこで相棒というのか、

実行員、労働者、なんでもいい。そういうのに役立つ悪魔を呼びたかったのだそうだ。

 確かに自分ならばうってつけかもしれない、とガミジンは思った。

「では私は貴方の部下という事で」

「そういう事だ」

「それで何をすれば良いのでしょう」

「うむ、すでに仕事は得ている。この先の大きな屋敷の老主人がこの間亡くなったのだが、それが後家を

得た矢先だった為に色々悶着している。俺もあんなくそ爺が若くていい女を得たのがどうしても納得いか

んのだ。まあ、死んだからせいせいしたが、この揉め事を無事片付けてやれば、その事が知れ渡り、仕事

には困らなくなるだろう」

「それは単に押しかけるという事ではありませんか」

「どっちだって同じだ。解決すれば満足する。さあ、行くぞ」

「しかし旦那様。このような夜更けに出向いても、誰も起きていないでしょう。」

「ちッ、皆俺と共に起き、俺と共に眠ればいいものを。仕方ない、朝まで寝る。日が出たら起こせ」

「ははっ」

 男が無造作に横になると、程無くいびきが聴こえてきた。

 まったくこの人間は図太いのか馬鹿なのか。悪魔を前に寝首をかかれるとは思わないのか。

 ガミジンは呆れたが、同時に興味も持った。この人間であれば退屈はしなさそうであるし、たまにはこ

のような事も悪くない。いつもは願いを聞くだけの受身の姿勢だったが、捜査となれば積極的に動く必要

がある。

「存外、楽しめそうぞ」

 ガミジンはほくそ笑んだ。



 結構男が起きたのは日が高く昇ってからだった。ガミジンは懸命に起こしたのだがとにかく起きない。

叩いてもゆすっても駄目で、ガミジンの方がぐったりと疲れてしまった。

 つまり起きたのは自発的にであって、ガミジンの行為に意味は無い。

 男はぶつくさ文句を言い、屋敷へ向かう最中にも散々文句を言ったが、我慢するしかなかった。確かに

悪魔が人一人すら満足に起こせないなどと、誰かに言える話ではない。さすがのガミジンも己が事が情け

なくなり、黙って文句を聞いている。

 着いた屋敷は確かに大きく、男の家がいくつも中に納まりそうだった。片田舎の辺鄙(へんぴ)な場所

でもこのような大きな屋敷は珍しい。よほど荒稼ぎしたか、なにやらきな臭い事をやったのか。ガミジン

は少し興味が出てきた。

「もうし、もうし」

「はぁい、どちら様」

 何度か扉を叩くと、使用人らしい女が出てくる。

 見るからに若く美しいが、どことなくぼんやりしていて、くみしやすさを感じさせる。しかしその目の

奥には鋭いものが感じられ、その全てとは言わないが、半分以上は演技である事が解る。この女は男がど

んな女を求めているか、本能的に理解しているのだろう。

 参考になる。

「街の外れに住んでいる者なのですが」

「ああ、あの・・・」

 女の顔がさげすむようなそれに変わる。今回の主人は良い噂を立てられていないらしい。それはもう理

解していたが、こうして確認できると多少うんざりしないでもない。

「一体、何の御用でしょう。ご存知の通り、ただいま立て込んでおりまして」

「それは重々解りますが、少し話を聞いてもらえませんかな。決して損はさせません」

「何か売り付けにでもきたの」

「いえいえ、もめておられるとの事で、主人が力になれればと申しまして」

「へぇ・・・」

 女は相変わらず不審そうな顔をしていたが、ともかくこちらの用件は伝わった。という事でさっさと終

わらせたい所だが、そうもいかない。

 持ち前の知識を活かして説得し、何とか話だけは聞いてくれる事になったが。半分以上は仕方なくガミ

ジンが差し出した宝石のおかげだろう。だがこの程度の大きさの石で済めば、むしろ幸運というものかも

しれない。

 人間の女は悪魔と同じくらい欲が深い。

 この女自身も色々と話したくて仕方がなかったらしく。一度口を開くとぺらぺらと言わなくて良い事ま

で喋ってくれた。

 それによると使用人達も後家が財産狙いで結婚したのだと見ていて、後家の普段の態度が気に食わない

事もあって、腹に据えかねているそうだ。できれば追い出したい所だが、遺言状も完璧で、生きている間

に遺言状を子供を揃えて読み上げている。子供や親族がいくら頑張っても、財産相続を阻止できそうには

ない。

 あんなどこから来たのかも解らない女に全部持っていかれてたまるものか、と女は酷く腹を立てている。

その話し振りからすると、自分が後家の座を狙っていたのかもしれない。

 どっちもどっちだが、似ているからこそ憎しみも増すのだろう。

「まあ、そこまで言うなら、あってみると良いわ。今丁度旦那様、つまり亡くなった旦那様の息子と言い

争っている所よ。前の旦那様が亡くなってからずっとそれよ。さすがに嫌になるわ」

 女は主人に許可を得る為に奥へ引っ込んだが、三十分もしない内に戻ってくると、すぐに主人に会うよ

う言ってきた。

 藁をもすがる気持ちだろうな、と思いつつ、ガミジンは嬉しさを隠せない。さっさと解決して、魔界に

帰ろう。

 主人も満足してくれたようで、怒りもせず突っ立ったままだ。相変わらず頭巾の奥に潜む表情は読めな

いが、怒っている空気ではない。

 魔界の大侯爵である自分が情け無い事だとも思ったが、召喚された以上はどうしようもない。ただ従う

のみである。

 屋敷の主人はもう若くなく、主人と言われてもまったく違和感がない。という事はこれの父親である前

主人はそれなりの年齢という事で、今更後家を貰うという事に対し、ガミジンは若干あわれみを抱かない

ではなかった。

 もうすぐ死ぬ事を理解しているだろうに、知ってて揉め事を残して死ぬとは愚かだが、それ以上にあわ

れである。

 それとも、もうすぐ死ぬからこそ、短絡的な欲望に従ったのか。

「まことに人間らしい考えかたよ」

 そんな独り言が黒衣には不満だったらしく。背後から嫌な気配を感じる。悪魔を脅すとは何と言う人間

だろうと思ったが、使い魔に堕ちている今の境遇ではしかたのない事。ガミジンは素直に受け容れた。

 不満があるなら自分でやれば良いのに、黒衣はずっと黙っているようだ。ガミジンが率先して働かなけ

ればならない。まああの口の悪さでは黙っておいてくれた方が仕事しやすいか。

「いらっしゃいませ。ばたばたしておりまして、まことに申し訳ありません。なんでもお力を貸していた

だけるとの事で・・・・」

「ええ、我が主人にかかれば、一切の事は解決いたします」

「ほほう、それは心強い」

 口ではそんな事を言っているが、信じていないのだろう。目が明らかに疑っている。それでも頼むのだ

から、相当窮しているに違いない。

 暑くもないのに汗を滲(にじ)ませ、目はきょろきょろと落ち着きなく動いている。根は小心者なのだ

ろう。

「では、詳しい話を窺いましょうか」

「ええ、では奥の部屋で・・・」

 通されたのは一番奥の小さな部屋。他にも多くの部屋がある中でわざわざこの部屋を選んだという事は、

密談するに適した部屋という事なのだろう。

 壁も厚そうで、扉を閉めれば音はもれなさそうだ。空気まで固まっているような気がする。

「まあ、ここに来たという事は、ある程度知っておられるのでしょうが・・・」

 主人が話してくれたのは聞いていた話と特に変わりなく、それ以上でも以下でもない。良くあるといえ

ば良くある遺産争いの話である。

「それでは、その女性が遺産目当てにあなたの父上に近付いたのですな」

「その通り。父は真面目な人だったのですが、最期の最期に魔がさした、という事なんでしょう。おかげ

で私は大変ですよ。まだあの女一人なら良いのですが、他にも叔父やら伯母やら、父は兄弟が多かったの

で、調整にほんとに手間取りまして・・・」

 黒衣の男は退屈そうにあくびしている。ガミジンも正直これ以上聞いていたくはなかったが、よほど溜

まっていたのか、主人の話は尽きる事がない。事情説明というよりは、単なる愚痴になっている。

「・・・という訳で、もう一度父と話できれば良いんですが」

「なるほど」

「ばたばたしているので大したもてなしはできませんが、この先の部屋にお茶を用意させました。この屋

敷内で好きに過ごされてよろしい。協力していただけるというのなら、本当に今は猫の手も借りたい状況

ですから、喜んで依頼させていただきます。その代わり、成功報酬という事で、よろしいか」

「なかなかしっかりしておられる」

 黒衣を見ると静かに頷く。何でもいいから早く終わらせろという意味だろう。

「承知いたしました。それではそういう事で、正式に依頼を受理させていただきます」

「では、そういう事で。私はやる事がございますので、何かありましたら執事に仰って下さい」

 そう言って主人が手を二、三度叩くと扉が開き、黒尽くめの執事らしい男が現れた。歳はあまりいって

いない。まだ若いとさえ言える。この歳で信頼を得ているのだから、よほど仕事ができるか、何かしら深

い繋がりがあるのだろう。

 そしてすぐに現れたという事は、扉の前に立って見張っていた事を意味する。でなければ音など聴こえ

るはずがないからだ。

「さあ、ご挨拶申し上げろ」

「執事のジルでございます。御用があれば、何なりと仰ってくださいませ」

「うむ、後は任せたぞ」

 主人はそそくさと出て行く。

 黒衣とガミジンは執事に案内され、広間に通された。お茶と言っていたが、食事の用意がされており、

望めばいくらでも食べさせてもらえそうだ。

 ガミジンは形ばかり食べておいたが、黒衣の方はガミジンが見ても呆れるくらいにがっついて、まるで

一年分ここで食べんばかりの勢いで食べ続けた。

 そうして食べている間に日も暮れ、結局何することもなく終わっている。

 しかし夜になれば人が屋敷に戻るので、これはこれで捜査に適しているのかもしれない。黒衣が狙って

そんな事をした訳ではないだろうが、ガミジンは良い方に解釈しておく事にした。

 暇だったので、この間に執事に色々話を聞く。こういう時に人間の心でも読めれば楽だと思うが、それ

はガミジンの担当分野ではない。地道に聞き込むしかなかった。

 しかし結局聞けたのは主人が話していたのと似たような事で、後家の味方はどこにもいない、という事

を確認できたのみであった。

「とにかくその女に会ってみませんか」

「そうだな。お前の爺面を見るのも飽きた所だ。そろそろ女が欲しい」

「おかしな事はしないで下さいよ」

「フン」

 口調は相変わらずだが、食べるだけ食べて機嫌はいいらしい。多分今まで黙っていたのも、捜査の邪魔

にならないようにと言うよりは、単純に喋る気にもならなかったという事なのだろう。

 まったくどちらが悪魔だか解らないが、悪魔を呼び付けるような人間などこんなものかもしれない、と

ガミジンは思い直した。

 女は前主人の寝室に居座っているらしい。妻は妻なので今の主人も追い出す訳にいかず、とりあえず食

べ物は与えているようだ。この屋敷においておいた方が監視しやすいという事もあるのだろう。

 歳は明らかに若い。少女から脱して間もなくと言ったところか。今の主人の半分も歳がいってなさそう

な事を考えれば、前主人とは孫どころかひ孫くらいの年齢に当たるのではないか。

 ガミジンも色々な人間を見てきたが、ここまで極端なのは初めてだ。遺産狙いの結婚など珍しくも無い

が、ここまであからさまなのは珍しい。この女はそんな事で上手くいくと思っていたのだろうか。正直少

々頭が足りないのではと勘ぐってしまう。

「あたしは、彼と愛し合っていたのよ。だから彼のもっていた物はきちんといただくの。それが夫婦って

ものでしょ、違うかしら」

 女は久しぶりに話し相手ができたとでも言うように、べらべらべらべらとよく喋る。初めは目を輝かせ

て見ていた黒衣が、三十分としない内にうんざりして興味を失った事を思えば、どういう具合だったかは

察せられるはずだ。

 それでもガミジンは辛抱強く話を聞き、何とか最期まで聞き通す事に成功した。

 こんなに疲れたのは久しぶりだったが、ガミジンはやり遂げたのである。

 しかしその頃には黒衣はぐっすりと寝込んでおり、それに腹を立てた女に早々に追い出される事になっ

てしまった。あれだけ話を聞いてやったのに、儚いものだ。いや、聞いてやったからもう用済みという事

だろうか、それなら納得できる。

「これで一通り話を聞く事ができましたな」

「ああ、そうか。それで犯人は誰だ」

「犯人も何も、前主人は殺された訳ではありませんよ」

「だが事件があれば犯人がいるに決まっている」

「そんな事を言われても・・・」

「まったく、とっとと解決して金をもらえばいいものを、何をぐずぐずやっておるのだ。それでも名立た

る悪魔か、この役立たずめ」

 ガミジンは多少腹が立ってきたが、契約している以上迂闊(うかつ)な事はできない。

 それに確かにこれは悪魔的なやり方ではなかった。こんな事なら人間の探偵を雇った方が早い。地道な

捜査というのにそろそろ飽きてきた事もある。

「それでは手っ取り早く解決しましょうか」

「ん、犯人が解ったのか」

「ですから・・・・。いや、もう良いです。ともあれ、主人にしろ、女にしろ、両者の意見が食い違って

いる事が全ての問題を引き起こしているのです。ならば当の本人に聞いてみるのが一番早いのではありま

せんかな」

「ふぅん」

「・・・・ようするに死者の魂を呼び出してですな」

「もう良いから、さっさとやれ」

 黒衣は明らかに飽きてきているようだ。まあ、その気持ちはガミジンにも解る。正直彼もうんざりして

いた。が、それにしてもこの態度は無いだろう。

「まったく、このガミジンがなんたるざまか・・・」

 ガミジンはぶつぶつ良いながらも、前主人の魂を呼び出す事にした。

「やれやれ・・・・おお、居ましたぞ。煉獄にて苦しんでいるようで。この世に罪を犯さず死ぬような人

間はおりませんからな」

「・・・・・」

 黒衣は最早返事すらしない。ガミジンは自分がとても惨めに思えてきたが、こんな事で魔界の大侯爵た

る悪魔が泣く訳にはいかない。とにかくさっさと用を済ませて開放させてもらおう。

 しわがれた声で明瞭に呪文を唱え、罪深き魂を呼び出す。この一時だけは苦しみから解放される為、死

者の魂は喜んで召喚に応じる。たわい無いものだ。

「汝、この屋敷の前主人であるか」

「・・・その通りでございます」

 姿は見えないが、声だけはよく聴こえる。冷え冷えとし、悲しみに満ち、どこからどう聞いても救いよ

うのない声だ。こんな声をしているような人間は早々に死んだ方が良い、と黒衣は考えたが。すでに死ん

でいる事を思い出し、一人納得しておいた。

「遺産争いが起きている事をしっておるな」

「へえ、存じております」

「それに関する全ての事を、我が前で話すがよい」

「承知致しました」

 前主人の魂によると、女は本心はどうあれ、良く尽くし、愛してくれてはいたらしい。あまりよく素性

も知らないが、自分も年老いて贅沢など言えない身分だ。少しでも愛してくれるなら、そのふりでもし続

けてくれるなら、愛していると騙しもしない息子などよりは遥かにましに思えた。

 だから遺産を半分は残してやるよう遺言し、息子への当てつけも込めて堂々とその事を公開したのだ。

 正直な所、女へ遺産を残したのも、結婚したのも、息子を筆頭に家族親戚への当てつけという方により

大きな理由がある。むしろ女を利用したのは前主人の方であり、だからこそ余計に不憫(ふびん)でなら

ないという事だった。

 息子には残り半分の遺産の管理を任せてあるし、その中で親戚にも多少分けなくてはならないとしても、

相当な額が残るはずである。前主人も鬼ではない。きちんと息子を愛する気持ちもあるし、だからこそそ

の態度に腹を立てていたのである。

「・・・・でありますからして、私としてはあの女に財産をやり、この屋敷から開放してやりたいのです。

愛を誓ったのも死が二人を別つまで。それ以上は望みません。あの女には充分楽しませてもらいました。

金額分の価値はあったと思います」

「なるほど。その歳でやる事はやってたか。そりゃあ死ぬわな」

 黒衣が大きく笑う。

 その声に驚いた執事がやってきたが、黒衣は明日には解決するとだけ言って追い返した。執事は不思議

な視線で見ていたが、やがて諦めたように去って行った。

 それを見送ってからガミジンが慎重に口を開く。

「確かに解決はしましたが。どうやって信じさせるのです。悪魔の仕業などと言っても、誰も信じはしま

せんよ」

「信じさせる必要などない。ただ夢枕にでも立たせれば良いのだ。それで駄目なら何か方法を考えろ。そ

の為の知恵だろうが、この役立たず」

「・・・・、承知いたしました」

 ガミジンは魂に命じ、黒衣の言う通りにさせた。召喚される時間が長ければ長い分だけ地獄の責め苦を

逃れる事ができる。魂としてもありがたい。

「これで終わりだ。今夜はもう寝かせてもらおう。執事を呼べ」

「かしこまりました」

 執事に床の準備をさせると、黒衣はすぐに寝てしまった。疲れていたというよりは、早く結果を知りた

いのだろう。黒衣にはそういうせっかちな所がある。

 ガミジンもやる事がないので、一緒に寝かせてもらう事にした。

 営みを別にすれば、悪魔が人間と一緒に寝るというのもおかしな話だが、まあ何事も経験しておく方が

良いと思い直し、とにかく寝たのである。



 黒衣、ガミジンが目を覚ますと、屋敷中が大騒ぎしていた。前主人が夢枕に立った、くらいならまだし

も、それが屋敷中の人間に立ったのだから、驚くのも無理はない。

 右も左も上も下もその噂で持ちきりで、興奮しながら叫び合っている。会話になどなっていないが、こ

ういう場合はとにかく話せれば良いのだろう。一方的に。

 冷静なのはあの執事くらいか。おかしな奴だが、何かをしてくるそぶりはない。だからそれ以上深くは

考えない事にした。

 悪魔は無益な争いを好まない。それは争う事が嫌いではなく、争う事が損だからだ。

 利に聡い悪魔が愚かな人間のように争ったり、殺しあったりという無意味な行為をする訳が無い。

 悪魔が争いを好きなのは、自分ではなく他者がそうしている時だけである。人にさせて自分はしない。

それが悪魔の悪魔らしいやり方というものだ。

 まあ、今のように人に使われていてはどうしようもないが。

「何の騒ぎだ!」

 とは黒衣は言わなかった。うるさそうにしているが、この状況には満足しているらしい。

 そして執事に用意させた食事を済ませると、主人の許へ向かった。呼ばれたのである。

 前主人の魂に黒衣に世話になったよう伝えさせる事も忘れていない。その成果が出たのだろう。

「ようやく金が入るぞ。まったく面倒な仕事だった」

 それは自分のせりふだ、とはガミジンは言わなかった。悪魔は賢明である。

「おお、ようく来て下さいました。ささ、どうぞ、どうぞ」

 主人は昨日とは打って変わった丁重な態度で二人を迎え、用意された椅子に座らせた。前には料理や酒

が所狭しと並べられている。酒と食い物、実に田舎者らしい礼の仕方だが、悪い気はしない。それくらい

腹が減っていたのだ。

「昨夜父が夢枕に立ちまして、色々と説明してくれたのです。それが私一人でしたらただの夢と片付けも

しますが。なんという事でしょう。屋敷中の者が見たようで。これでは信じない訳には参りません。そし

て父が言うには、全てはお二人のおかげとか。是非お礼を申し上げたく、こうしてお呼びした次第です」

 主人の隣には着飾った女が居る。こうしてみると確かに美人で、ガミジンも多少興味が湧いたが、まあ

よしとしておいた。縁があれば、利用できる時が来るだろう。

「あたしのとこにもきたの。仲良くするか、それができないならこの屋敷を出て行きなさいって。でもあ

たし家族が居ないし、行く当てなんか無いから、ここにお世話になろうと思って。皆色々してくれるし。

それにこうしてみると、この人すてきじゃないかって思うの」

 だらしなく見詰め合う主人と女。その間に何があったのかは知らないが、まあ、悪くない事だ。これで

円満解決になるし、この二人がどうなろうと大した事ではない。

「ちッ」

 黒衣の方は多少不満だったようだが、素直に諦めたようである。確かに女なんて腐るほどいる。それが

美人とは限らないが。美人が居ない訳ではない。

「では少ないですが、御礼です。よろしければ、またいつでもいらして下さい。お二人なら歓迎いたしま

す。そしてできましたら、また何かあった時、ご協力いただければと思う次第で・・・」

 現金なものだが、役に立つと解れば仲良くしておきたいと思うもの。それが狙いの一つでもあるし、喜

んでおく事にする。

 充分過ぎる額が入っていた事もあって、黒衣も機嫌良く応じ、余計な事が起きない前にとガミジンが気

をきかせ、早々に屋敷を辞する事にした。

「ありがとうございました」

「ありがとね」

 主人と女に見送られ、執事に先導してもらいながら、玄関に進む。

「いやあ、鮮やかなお手並み、感服いたしました」

「いえいえ、貴方には及びませんよ」

 ガミジンの言葉に執事が帯びていた空気が変わる。

 しかしそれも一瞬の事で、すぐにいつもの少しとぼけた感じを装う切れ者という姿に戻った。一瞬見せ

たのも狙ってやった事なのだろう。その意味は明白だ。

「それは、どういう意味でしょうか」

「いえ、お世話になったという意味で、感謝の意を示したまでですよ」

「それはそれはありがとうございます」

 その後はにこやかに談笑しながら玄関を抜け、帰路に着いた。

「どういう事だ」

 家に戻るとすぐ黒衣が問い質す。

「おそらく、同業者ですよ」

「悪魔という事か」

「そのようで」

「しかし一体誰が」

「おそらくあの女性でしょうな。そうであれば辻褄が合います。都合よくね」

「ふぅん」

「まあ、我らの望みは達したのです。それで良しとしましょう」

 にこやかに述べるガミジン。しかし黒衣の男は不思議そうに問う。

「望みが達しただと」

「はい、これで資金を得、貴方の事は評判になるでしょう。多少面倒も増えますが、不審がられる事はな

くなるはずです。これにて我らが契約は、無事履行されたという訳だ」

 人の姿を捨て、ガミジンは仔馬へと姿を戻す。たまに人間になるのも悪くないが、やはりこちらの方が

しっくりくる。

「さあ、契約は果たされた。我は帰らせてもらおう」

 ガミジンは何か言われる前に早々に帰ろうとした。しかしいくら願っても、命じても魔界との門が開か

ない。自分をこの現世と結びつける何かを感じるだけだ。

 それは即ち・・・・。

「な、何故だ。何故終わらない。汝が望みは果たしたはず・・・」

 すると黒衣は呆れたように言う。

「馬鹿な馬が。文字通りの馬鹿だな、お前は。確かに俺は一つの望みを達した。これで暮らし難くも生活

に困る事はないだろう。しかしその為に必要なのはお前の力。ここで去られてはこの状態を維持する事は

できない。つまり・・・」

「契約が果たされない・・・と。で、では、いつになったらそれが果たされるのだ」

「そんなもん、俺が死ぬ時に決まってるだろうが」

「・・・・馬鹿な・・・」

「そうだ、お前はとんだ大馬鹿悪魔だ。解ってるじゃないか、ふははははは」

 黒衣の乾いた笑い声が響き渡る。

 ガミジンは今なら神に祈りを捧げても良いと思った。例え人の一生が悪魔にしてみれば瞬きのような時

間でしかなくとも、この人間と共にするなど考えられない。

 昨日今日だけでも何度うんざりさせられた事か。まさに下僕。魔界の大侯爵であるこの自分が、たかが

人間一人に一生こき使われなければならないとは、一体どういう事か。これが神の罰なのか。

「まあ、そういう訳だ。よろしくな」

 ガミジンはそこにサタンの笑みを見た。

 まさか魔王が暇つぶしに人間に姿を変え、自分をからかっている訳ではないだろうが。それも否定しき

れない所に恐怖がある。

「・・・・汝が望むままに・・」

 老執事風の姿に戻ったガミジンは、それだけを言うのがやっとだった。

 これが神の御業であれ、悪魔の所業であれ、同じ事。自分は今、囚われたのだ、この黒衣の男に。己が

愚かさを否定したくとも、契約を結んだ後では叶わない。

 これを絶望と言わずしてなんと呼ぶ。

 人間こそが悪魔を越えた魔物である。

 ガミジンは改めて思い知る事になった。だからこそ人は悪魔を使役できるのだと。

 こやつらこそがサタン、絶対的敵対者。神と悪魔を脅かす者。

 黒衣の男とガミジンの奇妙な共同生活はここから始まる。

 全ては必然にして、あるがままに流れ行く。

 運命は幸いなり。




EXIT