山カエル


 こいつとここで会ってから、一体どれくらいの時が流れたろう。

 切り株に腰掛けたわしに、挑むように睨(にら)みかかるこしゃくな生き物。

 緑の欠片(かけら)のような、まるでこの森の一部を刈り取り、それがそのまま出てきたかのような、

一匹の蛙(かえる)。

 ちっぽけな蛙。わしの指先ほどしかあるまい、このちっぽけな蛙が、こしゃくにもわしを睨んでおる。

 朝日が昇り、天が地に返すまで、この頭上に光りが輝く限り、こやつはわしを睨み続ける。

 何と言う不遜(ふそん)さ、何と言う気の強さ。蛙ごときがこのわしに、このわしに挑むとは、神です

ら想像できまい。

 ぴょいこらぴょいこら可愛らしく飛び跳ねていればいいものを、まったくもってこしゃくな奴よ。

 思えばわしは、いつからこのような事をやっておったのか。

 年寄りの暇(ひま)潰し、そう思ったのが始まりだったか。

 昔は好き放題にできていたものが、いつの間にか出来なくなっていた頃。気付いてみれば皺(しわ)だ

らけになっていた面を一人前にしかめながら、意地になってこの山を登ったものだ。

 息子夫婦への反発心だったのかもしれん。この歳になっても反抗期とは笑わせるが、わしにとっては由

々しき事、自分の老いを認めるなど、そのような事が許される筈がない。

 今更息子夫婦の世話になり、孫の世話でもしていろ、などとそんな風に言われたとて、誰が納得できよ

うか。

 孫が可愛いのも人の情なら、この自尊心も人の情よ。誰が爺臭くなどなってやるものか。

 そうだ、奴らに見せ付けてやろう、そう思ったのだ。他ならぬこのわしに。息子夫婦もきっかけに過ぎ

ん。おそらくわしは、このわしに見せ付けたかったのだろう。わしはまだまだできるのだ、生きていら

れるのだ、現役なのだと。

 その為だけに、山登りを選んだ。

 思えば幼少の頃からこの山を登る事が日課だった。この山こそがわしそのもの、この山がわしの思い出

そのものである。

 そんな山を登っていられれば、この山さえ登る力があれば、きっとまたわしは・・・・。そんな風に考

えたのかもしれぬ。

 しかし現実はどうか。最早半分、いや四分の一すら登れはせぬ。

 いつからかこの山を恐れ、山に登る事すら思い出になってしまった頃、とうにわしは老いていたのだろ

う。それを知るのが怖かった。だから止めたのだ。思い出はそのままで、山登り自体を止めたのだ。

 だから今も結局途上で息が絶え、自らの衰え加減を認めざるをえなくなるだけだったが。ここで引き下

がれば沽券(こけん)に関わる。

 今更家に帰れる訳も無く、わしは山辺に広がる森林へと、手持ち無沙汰に足を向けた。

 心地よかった。平地なのが良かったのか、同じ体とは思えないくらいに、するすると歩け、いつの間に

か息切れも消えて、爽やかな空気だけがわしを潤している。

 そんな時にこのこしゃくな蛙と出会ったのだ。

 この蛙はその頃から、今と同じ切り株の上で、まるで喧嘩相手でも探すように、もう一つの空いた切り

株を睨み付けておった。

 切り株の真ん中、年輪の中心へどっかと座り、まるでわしを待っていたかのようにも思えた。

 傲慢(ごうまん)に、毅然(きぜん)と、誰にも平伏さぬように、挑みかかるように宙を睨む。

 そう、まるでそれはわしのようであった。来るべき時を認めず、そこにある全てのものに挑みかかる、

わしそのものだったのである。

 わしは呼び込まれるようにして、空いた切り株へ腰を下ろした。

 杖代わりに落ちていた枝を拾い、片手に枝を従えて、睨み返すように、その蛙を見た。

 蛙はぴくりとも動かず、こちらを見ている。

 わしもぴくりとも動かず、蛙を見ている。

 どこからどこが蛙で、どこからどこがわしなのか、ふとそんな風に思うくらい、まったく同じ仕草で、

同じ場所で同じように睨み合う。

 蛙と睨み合う爺、絵にでもされそうな光景だったが、わしには笑い事ではなかった。

 負けるものか、こしゃくな蛙ごときにまで負けてたまるか、わしはそのように思っていたのである。

 戦いは休みなく、日が落ち、蛙の姿が見えなくなるまで続いた。

 気付いた時には蛙が何処かへ消えていて。目を瞬かせた後にはすでに姿が無く、黒ずんだ切り株が残さ

れておるのみ。

 わしも立ち上がり、足下に気をつけながら、家路を急いだ。

 不思議と夜目が利き、不自由せず帰れたのだが。蛙との勝負の帰りには、いつもそうであったように思

う。全てが少しだけ良く見えたような気がした。

 翌朝も蛙は同じ所で、じっと片方の切り株を睨んでいた。

 わしもまた同じように空いた切り株へ座る。

 何度でもそうだ。何度でもやった。そしてこれからもやるだろう。今もやっている。

 蛙は絶対に逃げはしない。ならばわしも逃げてはならぬ。

 蛙と向き合い、いつまででもそれを睨み付ける。それが出来ねば、わしではない。

 わしではなくなってしまうのだ。

 こうして蛙と睨み合っていると、知らず知らずわしの人生を思い返してしまう。

 目は蛙を向いているが、頭の中は勝手に想像を繰り返す。

 どうにも止めようが無い。頭と言う奴は真に働き者。もしかすれば、止まる事を知らないのかもしれぬ。

 これそのものがわしだとすれば、多分そう言う事なのだろう。

 これが止まれば、わしも止まる。

 わしが動いている限り、こやつも止まらない、止められない。

 所詮はこやつもわしの僕(しもべ)なのだ。

 人生を振り返り、辿っていくと、様々な事に気付き、悟る事がある。

 しかしそれを今語ろうとは思わない。

 これもまたありふれた人の一生。おそらく誰とも変わりなく突き進む。

 だから話す事もまた同じ。同じ事を何度も話す意味は無い。

 わしはわし、しかし人間の一人に過ぎぬ。

 それはそう云う事なのだ。

 世の中には確かに違う人間もいる。突飛(とっぴ)な体験をした者もいると言われる。

 しかしそれは本当に珍しいのだろうか。結局は全部が一緒なのではなかろうか。

 蛙を睨んでいると、こやつもまたわしと同じに思えてくる。

 こうして睨み合い、こやつもまた己が人生を辿るのか。だとすれば、こやつの一生とはどのようなもの

だったのだろう。

 こやつもまた、自分は蛙の一匹に過ぎぬと思っているのだろうか。

 いや、存外不遜な事を、考えておるのかもしれぬな。

 わしは蛙と語る術を持たない。

 蛙もまた、わしと語る術を持たない。

 通じ合えるのか、合えていないのか。しかしこうしてずっと睨み合っていると、何かが、きっと何かが、

わしと蛙の間に芽生えているのだろうと思う。

 蛙が蛙であるように、わしもわしと思って睨んでいるのだから。

 それは鏡を睨むにも等しい。

 だがそういってしまえば、何かが違うような気がする。

 わしは見下ろし、こやつは見上げている。

 そもそもこやつはわしを見ているのか。わしもこやつを見ているのか。

 わしは地を睨み、こやつは天を睨む。

 ただその間にお互いが居るだけで、一つとしてその視線は交わっておらぬのやもしれん。

 それに虚しさを感じる程には、わしは若くないとしても、それはそれで悲しい事であろう。

 そして今日も日が暮れた。

 日暮れと共に蛙は消える。

 消えた蛙は何処へ行くのか、わしには解らない。

 蛙もまた、わしが何処へ行くのか解らない。

 それで良いのかも知れぬ。

 朝日を浴びれば、何が変わるのか。

 身体は毎日作り変えられているという。それが成長であったり、衰えであったりするのだが、そのきっ

かけは何かと考えれば、人は太陽を思う。暦を思う。この日が昇り、落ちたという、ただそれだけの、た

だそれだけの繰り返しを、不思議と人は大事に思う。

 わしも同じくそう思っている。

 つまりは太陽と共に暮しているのだろう。

 それは作物との関係でもあるし、自然の中に居る宿命とも言えるのかもしれぬ。

 だがどちらとて良い事だ。わしの生に、そんなものが大して係わり合いがあるとまでは思わぬ。

 わしはわし。蛙は蛙。太陽もまた太陽なのであれば。

 今日もまた息子夫婦がやってきた。

 嫁殿は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるが、それもまた哀しいものだ。

 わしは世話になどなりたくはない。人間なら誰でもそう思う。

 わしは衰えた。しかしまだその時ではない。動かなくなるその時までは、わしはわしでいたいのだ。

 それが息子達に解らぬ訳はあるまい。この二人もまた、老いているのだから。

 どちらも若くない。わしが若くないのと同様に、二人もまた若くない。

 ただその言葉が、老いている、か、若くない、かどちらであるか否かだけである。

 誰もが鏡に映った自分自身を労わっておるのだ。

 誰が止めようと、わしは今日も山へ登る。

 蛙と出会ってからも、わしは山登りを諦めきれなかった。

 もう理解している。理解してはいるのだ。それでも登らずにはいられない。

 何故そうしたいのかは解らない。

 どの道、逝く時はこの山の遥か上までも、何処までも昇って行けるというのに。今登る必要があるのだ

ろうか。一体どこを目指しているのか。

 解らない。でも登る。例え最後まで登りきれぬでも、登り続ける。

 それだけがわしの、意志なのだ。

 登れるだけ登ると引き返し、森へ入る。

 蛙は今日もそこへ居た。いつから居たのか、いつまでここへ来るのか、わしには解らん。

 しかしこやつもわしと同じであれば、逝く時まで、ずっとここで睨むのであろう。

 良く解らぬが、そういうものだと思える。

 わしはわし、蛙は蛙。しかしわしは蛙、蛙もまたわしであるのかもしれぬ。

 そう思う。

 小雨が降り始めたようだ。

 朝間は晴れていたというのに、自然もまた止まる事を知らないらしい。

 おそらくそれらもまた、止まる時はその時だけなのだろう。

 人間は人間、自然は自然、しかし人間もまた自然、だが自然は人間ではない。

 それでもいつかは止まる。例え、認めたくなくとも。

 わしもそれは解っている。解っていたのだ。

 結局押し切られ、息子夫婦がわしの許へ来る事になった。

 家と土地、それがあれば何とでもなる。そういう思いもあったのかもしれぬ。

 わしの家が息子夫婦の拠り所、或いは逃げ場となっていたのだろう。

 いざとなればそこがある。そう思うから頑張れる、生き抜く事が出来る。

 しかしそれだけでは駄目になったのであれば、わしは二人とその子供を遠ざけようとは思わない。

 居たければ居れば良い。わしがどう生きるのかとは、それはまた別の話である。

 蛙のやつがどうもおかしい。

 確かにいつも通り真っ直ぐに天を、わしを睨み付けている。

 だがどこかがおかしい。何かが足りない。

 力亡き力とは、こういう事を言うのであろうか。

 病気という訳ではない。元気がない訳でもない。それでも何かが違う。

 こう言う時もあるのだろう。

 次の日に行くと、蛙はもういつも通りであるように見えた。

 わしもいつも通り、いつものように睨み合い。いつものように別れる。

 一体わしらは何が見たいと言うのか。一体何を望んでいたのか。

 そして今も何を望んでいるのか。

 今更ながら、そんな事を考えてみる。

 答えなど出ずとも良い。

 何かをしたい、それは確かだった。山登り、それもそこからきた想いであるはず。

 そして志半ばで果て、この森へ逃げ帰るのもまた、同じ想いからである。

 相反するが、その行動はどちらも一つの所からきている。

 ただその一つ所を言おうとすると、不思議と何も言えない。

 それはおそらく言葉に出来ない何かであるからに違いない。

 そう想う事で、自分に言い訳をしているのかもしれないが。どう考えても、その言葉が出てこない。

 或いは、それを求めてここへ来るのかもしれぬ。

 とすれば、蛙もまた、それを求めているのだろうか。

 わしと同じものを。

 咳をする事が増えた。流行り病かもかも知れぬ。しかしわしはここへ来るのを止める訳にはいかぬ。こ

れを止めてしまえば、最後のわしも崩れ去るのだ。

 わしは恐れていたのかもしれん。いつの間にか望みが恐れに変わっていたのかもしれぬ。

 だが何がどう変わっていたとしても、止める訳にはいかん。他がどうなっても、わしはここで睨むしか

ないのだ。それを解れとは言わないが、止めても無駄だとは何度も言って家を出た。

 息子夫婦の気持ちは解る。孫も心配してくれた、いい子達だ。

 しかし誰にも止められない事はある。それが為にわし自身がどういう事になるとしても、決して止めら

れない。

 いや、それもまた、単なる言い訳に過ぎぬのだろうか。

 不安になる事があるのは、誰にでもある事なのか。だとすれば人はそれをどう乗り越える、どう乗り越

えている。同じようにすれば、わしもそれを乗り越えられるのだろうか。それとも。

 蛙はいつもそこに居る。わしもいつもそこへ来る。

 互いを待っている訳ではない。わしが居る限り蛙が居て、蛙が居る限りわしが居る。それだけである。

 誰かが居て、誰かが在って、初めて自分もそこに居れるのかもしれん。

 そういう何かを、求めていたのかも知れぬ。

 蛙もまた、同じく求めていたのだろうか。

 もっとも、あやつが何を考えているのか。そんな事はわしの知った事ではない。

 夢は夢、現世で見る常世の夢。

 わしもまた、それを見ているのか。

 蛙が鳴いたような気がした。

 何の為か、誰の為なのか、わしには解らないが。何故だかわしに対して鳴いたような気がした。

 わしは返す言葉を想い付けず、そのままにらみ続けている。

 蛙もまた、睨み返している。

 いや、初めから蛙は、睨み続けているのだった。それでも、その時だけは、僅かに視線が触れたような、

そんな気持ちがしたのを覚えている。

 わしは蛙。蛙はわし。

 わしは何を睨んでいるのだろう。

 孫が付いてくると言い出す。

 わしは困り、何とか説いて置いてきたが、そのうち付いて来るようになるのかもしれない。

 優しい子だが、少し困った子だ。

 山登りを諦め、わしは森に向うだけにした。

 半分は孫に心配させない為だったが、半分はわしの身体がもたなくなってきたからだ。

 はっきり言えば、もう足を上げる事さえしんどい。

 森に散歩へ行く、そのくせ帰りは日暮れ過ぎ、それもまた心配かけるだろうが。まあ、それはいい。山

でなければ、その心配も和らぐ、であればさほど文句を言わなくなるだろう。

 孫もそのうち平気な顔で見送ってくれるようになるはずだ。

 もう友人が出来たらしい。子供というのは、なんと適応力があるのだろう。わしが衰えるのと同じく、

子供は成長していく。

 わしが一人に閉じこもる間にも、孫は世の中に開いていく。

 わしにもそんな頃があったのだと、何となく思い出した。

 蛙にも、そんな時があったのだろうか。

 わしが足腰の痛みに苦しむ姿が、あまり見られなくなった為だろう。息子夫婦も孫も、あまり言わなく

なった。

 わしが一日中森で何をやっているのか、多分気になっておると思うが、一言もそれを口にする事はない。

あれはあれなりに気を遣っているのだろう。

 子供や孫に心配されるようになってはもう終わりだ、と思っていたが。今はそれを心地よく感じている。

身体が衰えた代わりに、心は素直になっていくのか。それとも沢山の事を知った今だから、その心のあり

がたみが解るのか。

 わしも心だけは、まだ成長しているらしい。

 蛙が心なしか寂しそうに見える。

 わしがそれだけ足りているという事なのだろうか。自分が満たされた分、蛙が乾いているように見える

のか。

 こやつには、わしのように心配してくれる誰かが居ないのか。

 こんな所へ一日中座り、空を睨む。それを受け入れ、見守ってくれる者は居るのか。

 蛙はここにしか居る場所が無いのではあるまいか。

 人にとっては良くても、蛙にとってはこんな所より水辺に居た方がよほど良いのだろうに。何故こやつ

はこんな所に居るのだろう。

 わしがそうだったように、何かにこだわっているのだろうか。受け入れるしかなくても、受け入れ難い

何かを、この蛙も背負っているのか。

 わしはこの日、地ではなく蛙自身を見ながら、そんな事を考えていた。

 わしの興味は、わし自身よりも、この蛙の方へ向いている。

 それをこの蛙は、解っているのか。

 わしはお前を見ておるぞ。

 わしはお前を・・・・。

 蛙のやつはじっと動かない。

 今日も動かない。昨日も動かない。おそらく明日も動かない。

 だが死んでいるのかと不安を覚えるのは、その目を見るまでの事。その目を見れば、力ある視線をはっ

きりと感じる。そこには生がある。確かな生が。

 わしの頭を貫いて、天まで届くその雄々しい視線が、太陽が出ている間ずっとわしの目を貫く。

 こやつはわしの頭の中が、透けるように見えているはずだ。空にある何物かも、こやつには解るのかも

しれん。わしらには見えぬ何かが見えるのか。それとも見えぬから見えるまで見ているのか。

 わしにはこやつの頭の中が、一つとして見えはしない。

 それが歯痒(はがゆ)くも、安心する。

 今日はあまりにもせがむので、孫を連れて行く事にした。

 結局わしも孫には弱いのだろう。それを知る事でかえって安心したような気がする。わしは足りている

のだろうか、それともやはり衰えているのか。

 不思議な事に蛙は居なかった。

 初めての事だ。

 驚いているわしを後目に孫は退屈し、仕方なく引き返して家へ送り届けた後、もう一度行ってみたが、

またしても蛙は居なかった。

 わしは日が落ちるまで待ってみたが、むなしく切り株と過ごすだけに終わった。

 孫はもうせがむ事をしない。

 飽きたのか、それとも気が済んだのか。

 孫の頭の中もわしには見通せぬが、何となくわしも安心している。不思議なものだ。

 今日は蛙が居た。

 切り株に座り、じっと空を睨んでいる。

 何を睨むのか、その先に何があるのか、相変わらずわしには解らない。

 だが、それもまた、大きな安心を憶えたのは確かだ。

 わしは何も、解りたくはないのかもしれぬ。

 解らない方が、安心なのだ。

 例え何も見えずとも、そこに確かにあるものを感じ取れる。

 わしはそう思う。

 そう思い始めた。

 蛙は、どうなのだ。

 暫く治まっていた痛みが、また少しずつぶりかえしている。

 気候のせいだろうか、それとも天候か、単に疲れが出ただけなのか。

 熱が出てしまったので、流石に今日は家に居る。

 今頃蛙はどうしておるのだろう。

 一人で空を睨んでいるのだろうか。

 それともわしと同じように・・・・。

 一昼夜寝たきりで過ごしたが、熱が引かない。むしろ高くなっているように感じる。

 息子夫婦と孫が心配し、色々と世話を焼いてくれたが、どうにも良くならない。

 喉が熱く、頭の後ろが痛み、わしはぼんやりと天上を眺めている。

 今なら蛙のように、わしも天を覗けそうな気がしたのだ。

 けれども天井は天上にならず、わしは虚しくそれを眺めていた。

 そこにあるしみが、雲のように見えた。

 医者を呼び、ようやく少しだけ熱が引いた。

 医者の話しは難しく、良く解らなかったが、どうやら疲れが抜けない事からきているらしい。

 負担が痛みを超えて熱さに変わり、わしの身体を蝕んでいるのだ。

 ゆっくり休めば治るだろうと言っていたが、何故だかその言葉が、わしの耳には聴こえなかった。

 他の言葉ははっきりと覚えているのに、その言葉だけが解らない。

 後で息子夫婦がそう口に出した時、わしはちゃんと笑えていたのだろうか。

 あまり自信がない。

 蛙はどうしておるのだろう。

 蛙の事が不思議と思い浮かぶ。

 あやつは大丈夫なのだろうか。

 あの暮らしは、蛙に耐えられるものなのか。

 再び熱が上がる。医者ももう、何も言わなかった。どうやら読みが外れた、あるいは当ったらしい。

 何故だか解らないが、もう何も言えないのだろうと、わしはそんな風に医者の顔を見て、考えていた。

 孫も心配して付いていてくれたが、わしは遊びに行くよう諭した。

 子供が老人に付き合う道理はない。好きに遊んでくれた方が、わしも嬉しいのである。

 子供は子供でいればいいのだ。そしてそうできる世の中にするのがわしらの仕事だ。

 わしはその仕事を、全うできたのだろうか。

 先に逝ったあれに聞けば、解るのかもしれん。

 その時がくれば。

 いよいよ危ないようだ。

 家族の視線が悲しく、重く、どうしようもなく、それはまるで濁った水でも見るかのように、何者も映

していない。きっと色々と考えているのだろう。しかしそのどれもがわしの生を否定している。そういう

ものなのだ。そう云う時は、そういうものなのだ。

 わしも何度となく味わった事だけに、その気持ちはよくよく解る。

 体中が熱かったが、それも今は気にならない。それが当たり前になった今、良いのか悪いのかさえ、何

も判別できないだろうと思える。

 呼吸し辛いのだけが、少し嫌だった。

 私と孫が居ない所で、息子夫婦が話す事が多くなった。

 それでも同じ家にいれば、その声は聴こえてくる。この古い家は声が良く通る。

 いよいよ駄目らしい。今更どうとも思わぬが、そうか、駄目なのかと、わしは一人で納得していた。他

に思った事といえば、ただただ暑かった事だけ。

 真夏よりも暑かった。

 それから蛙の事。あやつは今何をしておるのだろう。

 最近は蛙の事ばかり考えている。

 一日中ずっと、蛙の事を考えていた。

 孫がいつの間にか大きくなっている。人は変わっていく。

 ふと楽になった。身体は暑いままだったが、それに慣れたのだろう。わしは腕を上げ、腕を下げ、それ

から上半身を起こし、倒し、また起こして、それからゆっくりと立ち上がった。

 足腰は弱弱しく、軽く叩いただけで折れそうな気もしたが、わしは気にせず森へと向った。

 家族が心配するだろうと思ったが、書置きする力も無い。最後の我侭と許してもらう事にしよう。

 蛙が待っている。わしを待っておるはずなのだ。せめて最後に、会っておかなければならぬ。

 足が不思議と軽い。のろのろとしか歩けなかったが、それでも疲れは感じなかった。もしかすれば、も

う何も感じていなかったのかもしれない。

 血が熱く、空は真っ青で、遠目に雲が見え、頭の上が焼けている。

 それでも心地よく、緑混じりの風は、肺を浄化してくれるかのように、とても心地よく。辛かった呼吸

も、今は前のように、いつでもすっきりと行なえた。

 この熱さが無ければ、すっかり治ったと思っていたかもしれん。

 森は変わっておらん。相変わらず森は森。四季に応じるには、まだまだわしの過ごした時間は短い。

 だからこそわしはそこに居たのかもしれず、わしが思っていたよりも、蛙との縁は、ごくごく短いもの

であったのかもしれぬ。

 だからといってわしの心は変わらん。ずっと蛙の事だけを考えていた。

 ぽつりぽつりと滴り落ちる水滴が、肌に心地よかった。

 蛙は待っていた。いつもは天を睨んでいたその目が、今はわしの方をじっと見ている。

 心なしか、蛙の奴も苦しそうであった。こやつもそろそろ限界なのかもしれぬ。

 人も蛙も、逝く時は逝くのだ。

 わしは切り株に対座し、ゆっくりと蛙を眺め見る。

 あまりにも小さく、あまりにも強い視線。お前は一体何を見ていたのだ。わしにもそれが、見えるのだ

ろうか。

 わしは何を求めればいい。

 身体から力が抜ける。歩くのは楽しかった。

 ああ、楽しかった。

 蛙は飽く事が無いように、わしをじっと見ている。

 空ではなく、この蛙は初めからわしを見ていたのだろうか。

 だとすれば、わしの先を見ていた事になる。

 わしの先はどこにあるのだろう。わしの先はわしの頭の後ろ、そのまたうしろのまた先に、ずっと天ま

で居るのだろう。

 この蛙はどのわしを見ていたのだろう。

 見続けているのだろう。

 満足しているのか。足りているのか。それとも足りないのか。

 なんであれ、もうわしを見る事はなくなる。蛙は次は何を見るのだろう。何も見ないのか。

 そしてわしは、一体何を見るのだろう。

 あの先で、一体何を見るのだろう。

 わしはゆっくりと昇り、再び蛙を睨み付ける。

 蛙はもうそこには居なかった。

 わしももう、何処にも居なかった。

 初めから何も居なかったのかもしれん。

 そしてわしは空に溶け、あの先へ向かう。

 蛙がとうに逝っていた場所へ。

 わしもまた還るのだ。

 わしは蛙で、蛙はわし。行き着く果ても、同じ筈。

 孫が何か言っている気がした。




EXIT