自由と云う名の孤独


 街は今日も動く、機能的に。

 個が確立され、人類としてよりも人間として重んじられるようになり、全ての分類は排除された。属す

る国や組織、そして家族、友人、恋人という人間関係、今では全てのそういう呼び名は死語となり、歴史

の授業や研究者が使うのみとなっている。

 個人の権利は何よりも尊重され、それを侵害するものは容赦なく削除されるのだ。

 しかし変わらず法はある。人間がそれでも大衆の中で生きる事を望む限り、その中での戒めと縛りは必

要である。

 法は組織や全体という入れ物ではなく、個人に適用されるものであるから、個を優先する以上、尊重さ

れて然りともいえるのだろう。

 法も個と同様に強化され、秩序の名の下に、全ては機能的に行われている。

 全人間は地球に住まうただ一人の個であり、それ以上でもそれ以下でもそれ以外の何者でもない。我々

は人類ではない、ただ一人、この世界に唯一の人間なのだ。

 私もその中の独り、多数の個に紛れて暮す、ただ独りの人間。何者にも左右されず、ただ己が意志で動

き、法と良心を逸脱しなければ、全ての意志は許される。それがその者の思考、個の意志である限り、何

よりも尊重されるのである。

 全体としての意志、全体としての秩序などは後回しにしていい。今更全体としての括りや纏まりなどを

気にする者もいない。国家、民族、人種、そのような差別はない。人と人は別なのではない、異なのでは

ない、あくまでも個性であり、その全ては個を彩る素晴らしき特性なのである。

 誰に卑下する必要もなく、誰に遠慮する意味も無い。我々は自由な一人の人間であり、それこそが唯一

無二の原則、護るべき法の中の法。全ての責任は個の前に膝を屈す。

 そういう当たり前の世界に私は生きている。人が望み、ようやく手に入れた世界。

 だがそんな理想郷に生きる私の心に、ある種の迷い、空虚が生まれている事を、ここに記さなければな

らない。

 それが何故なのか、どんな理由で孤独を感じるようになったのか、何故少しも満たされないのか。それ

らは私自身にも解らない。もしこれを誰かが見てくれるのなら、是非とも私にその答えを教えて欲しい。

それがどんな答えであれ、私は歓迎する。

 願わくば、誰かの目に触れる事を祈って。



 私は一般的な家庭に生まれた。それが家庭という定義に治まるのかは知らないが、一番実感の湧く言葉

であるから、この言葉を用いたい。

 家庭という言葉はご存知のように死語である。私は興味から昔の人間の関わりを調べるようになり、そ

の為にこういう言葉を身近に感じるのだが、こういう言葉を今使う者は、似たような変わり者か研究者、

歴史家くらいのものだろう。

 もし貴方がこういう言葉に馴染みがない人だとしたら、多分その方が多いのだろうが、申し訳なく思う。

この文章はあくまでも私の私的な文である為、こういう言葉も多く出てくる筈だ。その都度説明する事も

あるかもしれないが、しない事もある。それはご了承いただきたい。

 出来るなら自分でも調べて欲しいが、それほどの興味が湧かないのであれば、捨ててしまって構わない。

自分の意志を優先すれば良いのだ。

 最初であるから、家庭の意味を簡単に説明しよう。

 家庭というのは、ようするに父、母、子を基本として構成された一つの最も私的かつ、最も公的な繋が

りで、昔はこういう単位の中で人間は集団生活していたのだ。今の人間からすれば窮屈極まりないかもし

れないが、昔の人間はとてもこの家庭という繋がりを大事にしていたらしい。

 尤も、それはあくまでも建前の事で、それがまともに営まれていた事は、歴史を通しても珍しい事であ

ったようで、良く解らない部分も多い。繋がりの最小単位の一つだと考えてもらえればいいだろう。

 そんなものは無意味だと考えるのなら、これも無視してもらっていい。

 ちなみに父は子を持つ男の事であり、母はその妻、そして子は父と母の子を意味する。訳が解らないな

ら、無視してくれ。

 私の言う一般的な家庭というのは、当然昔のような意味ではない。

 すでに個しか認識されなくなっている今、私はある男とある女、いやある人とある人から生まれた一人

の人間であるに過ぎず。誰から生まれたとか、誰の血を引いているとか、そう言う事には意味が無い。

 男女の営みの末に生まれた、ただの結果でしかなく。そういう意味では家庭と云う言葉は最も相応しく

ない言い方であったのかもしれない。

 正確さを優先するのであれば、私は大多数と同じく、独りの人間としてこの世に生を受けた、と記すべ

きなのだろう。

 人は生れ落ちてすぐ、生んだ女とは別の場所、赤子専用の保育施設へ送られ、そこで物心付くまで、自

動的に育てられる事になる。

 あくまで自動的に、そして公平に。その言葉が多分一番相応しいだろう。それだけを想像してもらえれ

ば事足りる簡素な生活なので、その間の煩わしい描写は省く。

 保育施設で成長し、自分なりの意志、つまり何か意見を持ったり、疑問を浮かべたりする年齢に達する

と、我々はすぐに社会に出される。

 いや、そもそも社会とそれ以外という区別もないのだ。全ての人間はその人間としてのみ扱われ、その

他の何ものにも影響は受けない。生まれながらに個である私達は、一生涯等しく社会に居ると考えた方が

良いのだろう。

 年齢に関係なく、全ての人間は一人の人間であるので、当然といえば当然である。

 ただし年齢による身体能力などは勿論考慮され、その仕事内容はそれに応じたものが与えられる。10歳

の者と二十歳の者では仕事内容は変わってくる。

 平等というのは万人に同じ事をさせるという事ではない。その特性と能力に応じ、人に備わる力を無理

なく引き出せる機会を与えるという事だ。

 例えば三歳児に建設作業をやらせるような者が、一体どこに居るだろうか。

 肉体的だけでなく、精神的というのか、例えば計算能力や暗記力でも多少与えられる仕事は左右される。

勿論、自分が望むのなら、他の事を選んでもいい。そんな事に何の意味があるのかは解らないが、自由意

志というのは重要である。

 我々は能力の良し悪しに関わらず、一人の自由で完全なる人間なのだから、生まれついての能力によっ

て、不当に選別されたり、与えられる仕事やその結果を限定されては困るのだ。

 その中にある差異は、あくまでも一人の人間の中での個性という名の違いでなければならない。

 足が速い、計算が得意、という個性であっても、そこから不当なる恩恵を得てはならないのである。

 何故ならそれは全人間に与えられた個性という枠組みから、大きく外れてしまう事になるからだ。個が

重視されると云う事は、一人を特別視しないという事である。あくまでも等しい待遇、等しい権利、等し

い機会、その中で誤差が生まれるのは仕方ないとしても、それが初めから決定しているような事はあって

はならない。

 運というものは認められるが、才能などというものはあってはならず、社会が決して認めてはならない

ものの一つである。

 そんなものを認めてしまえば、個の平等性、権利が薄れてしまうからだ。誰もが平等でなければならな

い、誰かだけが当然のように得をする事は許されない事である。

 例えそれがあったとしても、賞賛されたり、特別視される事は決してあってはならない。

 だが、それは努力する事を評価しない事ではない。努力というのも自分を高める為に、自らの意志で行

った事であるから、それは評価されなければならない。

 努力こそが平等に誰にでも行え、誰にでも効果があるもの。その効果に多少の差があったとしても、そ

れは誤差として認められる。我々は人間が数値通りにいかない事などは、とうに知り得ているのだから、

それを否定する事は無い。

 人は自らの意志で、一切の差別無く、幸福な道を歩む権利がある。

 この世界に強制という言葉は不必要である。

 しかしだからといって何もしないのは放り出すのと同じであるから、人が選択を迫られた時、ある程度

の知識を教えられる。それを私は、与えられる、と表記する。他に適当な言葉を知らないからだ。

 それは結局自由ではないと言われれば、そうかもしれない。

 この制度に改善の余地がある事は広く知られる事だ。だが誰もこれに変る良いやり方を思いつけない。

人に教育が必要である事は、間違いが無いのかもしれない。

 まるで人は生まれながらにして完全ではない、と証明されるようで、これはあってはならない事なのだ

が。認めなければならない事は、確かにあるのかもしれない。

 まあ、このようなくだらない話はどうでも良い事だ。次に進めよう。



 私はまず初等訓練所へ進んだ。

 仕事をするには技術が要る。保育施設を出てからの数年間は、その技術を学ぶ為の時間として公的に推

奨されている程で、それを選ぶ事に何の哲学的問題も有しない。いわば個として立つ為の準備だと思えば

良いだろう。

 この段階では基本的な事だけが教えられ、等しく等しいだけの技術が与えられる。習得が早い者も、決

してそこから逸脱してはならない。教えられる事以上に学んではならない。これは義務であり、それを為

しえない者は厳しい罰が科される事になる。個の尊厳を護る為には、必要な事なのだ。

 初等訓練所で最低限の技術を身に付けた後は、好きに生きればいい。初等訓練所を出た段階で、生活す

る分には充分なものを備えている。後は各々が文字通り自由に生きればいい。

 どこへ行くにしても、試験などというものも必要とされない。ああ、試験とは問いの集合体であり、そ

の成績如何によって人をふるいにかける事である。今の世界には害でしかない。何処でも望めば入る事が

出来るし、定員とか成績といったものは一切考慮されない。何も望まないのであれば、何もしなくてさえ

いいのだ。

 今の機能的な世界ならば、人が生きていくに必要な事は極僅かである。だからこそ個の尊厳が保たれる

のであり、全てに保障があるからこそ、人は自由という名の檻に甘んじていられるのだ。

 私は無限とすらいえる選択肢の中から、人類史研究とでもいうのか、そういうものを選んだ。

 それは今までの人間の歴史から、思想などの様々な人間に関する事を研究する学問で、私が昔の人の暮

らしや昔の言葉を多く知るようになったのはこの為である。

 最も人気の無い、というよりも私自身何故こんな事を思い立ったのかすら解らない無意味な学問に、私

は何故か非常な興味を覚え、昔の事を知る度に、何故か懐かしいような、心が落ち着いていくのを感じ、

とても安らいだのを覚えている。

 そして今も、家庭、家族、夫、妻、子供、こういう古びた言葉を用いる度、何とも云えない心地良さを

感じるのである。

 今思い返してみれば、私はこんな時分から随分な変わり者であったようだ。



 人類史研究所、これは自分で名付けた、を出てから、私は始めて本当の意味で道に迷った。

 何故なら、この研究を活かせる場所など一つもなかったからである。

 もう少し昔であれば、まだこういう昔の事を題材として話を書いたり、演劇をしたり、或いは論文を書

く事が出来ただろう。しかし今となっては誰もそんなものに興味は持たない。理想の世界である今、昔の

不完全な世界の事など、知る必要も意味も無いからだ。

 勿論書くのは勝手なのだが、誰も見向きもしないし、誇れるような事でもない。

 何をしていても、能動的でさえあれば、資金が与えられ、生活することは出来る。しかしそんな誰も関

心のないような事をしていても、幸福になれるとは思えない。

 それが無意味であり、自らの幸福に対し、何の効果もないからこそ、それは無駄であり、誰もしなくな

るのである。だからそんな事をしても、私に一体何が得られるのかと言えば、自分でさえ答える事が出来

ない。

 例えそれが私の好奇心を一時的に満たすとしても、その事の虚しさまで補われる訳ではない。むしろ一

時的に満たされるからこそ、余計に虚しくなる事だろう。

 いや、虚しさとは何だ。自分の好きなようにすれば良いのだから、それをやるべきではないのか。好奇

心を一時的に満たす。それで充分ではないか。飽きればまた別の事をすれば良いのだから。

 個が尊重されるのだから、例え誰も関心がないとはいえ、いや誰も感心がない酔狂なものであればある

ほど、社会的にも喜ばれる。誰もやらぬ事だからこそ、個としてやるべき価値があると評せられさえする

かもしれない。

 だが何故か私の心は躊躇した。そうだ、この時からすでに私の中に、拭えぬ虚しさと寂しさがあったの

だ。昔を研究した私の心に、何故かそういうものが芽生えたのである。

 虚しさは、今のやり方、求められる事、を全て否定し、耐えようも無い悲しさだけを私にもたらしたよ

うに思える。

 ここで止めておけば良かった。今ではそう思う。ここが最後の分れ目だったのではないか。

 しかし結局私は、人類の歴史、特に家庭に関わる事を書く事に決め、そのように生きていく事にしたの

だった。

 おそらくこの時の私は、まだこの虚しさを正確に理解できていなかったのではないだろうか。何か嫌な

ものが自分の心に圧し掛かっているとは思いながら、その理由も、それが一体何なのかさえ、全く理解、

いや想像してさえいなかったに違いない。

 考えてみれば、この時この世界の流儀に従い、自らの個を優先させた事が、私の運命を完全に狂わせる

事になったのだろう。



 私は今まで研究、調査してきた事を一冊の本にまとめる作業に入った。それは酷く孤独で、自由である

が故に寒気すら覚える作業で、書く度に苦しさを覚えた事を思い出す。何とか仕上げる事が出来たが、苦

悩しか残らなかったような気もする。

 一冊の本が仕上がると早速それは印刷され、販売される事になった。

 当然のように売れはしなかったが、そんな事はどうでもいい。とにかく形を残す、自らの意志を見せた

という事で、それは評価され、次の行動の為の資金を得られる。

 勿論、得た金は趣味や異性に対して用いてもいい。それは自由である。異性でなくとも関係ないし、動

物や植物に使ってもいい。全ての個は尊重され、全ての趣味はそれが法に触れない限りは尊重されるのだ

から、誰がどんなモノを相手にしようと、他人が口を挟む筋合は無いのだ。

 ミミズを愛そうと、ネズミを愛そうと、そこに大した意味はない。愛するという事が全て等しい感情で

あるならば、その趣味嗜好は尊重され、迫害される事はない。迫害すら死語である。

 それを犯せば重い罪を科せられるが。例えそういう法を規定しなくとも、誰もそんな事はしないだろう。

 人の事に口を挟むような習慣はとうに廃れてしまっている。それを罰する法律も昔の名残を残すだけで、

有って無きが如し、という奴だ。

 法で縛らなくても当たり前に護る。それこそが人の目指す道だった筈なのだから、我々の世界は確かに

理想の世界である。

 しかし私が何をしたかといえば、呆れる事に、再び執筆に取り掛かったのである。それが苦痛であった

筈なのに、私は満たされぬ心を感じ、吸い寄せられるようにそこへ向かわされた。そう表現する方が適当

だろう。もう私の意志とは思えなかった。今もそうだ、私の意志とは思えない。

 古い言葉を借りるなら、私は書くという事に取り付かれてしまったのだろう。それ以外に私を表せる言

葉は見付からない。



 また一冊の本が仕上がり、印刷、販売された。

 すると私は、もう想像出来るかもしれないが、また執筆作業に取り掛かったのである。この辺りの感覚

も上手く説明出来ない。まるで書く事が私の人生であるかのように、それは決まってしまったのだと、そ

う言うしかない。

 そしてこの頃か、丁度私の歯止めが利かなくなった辺りから、不思議な事を考え始めた。

 私は、あろう事か、今の世界が異常なものであるかのように思ったのである。

 勿論、こんな事を誰かに相談する訳にはいかない。いや、相談という事自体がこの世界には無い。相談

とは人に悩みを打ち明け、解答を得る為の手助けをしてもらうという事だが。そのような恥ずべき行為す

ら、私にはとても魅力手に思えたのである。そうだ、私はおかしくなっている。

 書いていると様々な事が浮ぶ。そしてまるで私自身が私の書いている昔の時代にはまり込んでしまった

かのような錯覚を受け、その世界で生きているような気さえしてきた。異常である。

 最後には、私はこの当時から今の世界へ、何かの偶然で紛れ込んでしまったような気にさえなってきた。

 そんな馬鹿な話はない。別に時間移動した訳でも、それを望んだ訳でもないのに、私の頭の中だけが、

みるみるうちにこの時代、遠く過ぎ去った古き時代へと、巻き戻されて行く。

 それに気付けたのは、取り返しが付かなくなってからの事だ。もしもっと早くに気付いていれば、それ

を止め、退行を防ぎ、治療する事さえ出来たのかもしれない。しかしそれを知った時はもう、当たり前の

ようにその時代が、頭の中に染み付き、剥がれなくなっていたのである。

 私にとって、この世界は最早奇妙でしかなく、異常で恐ろしい悪夢でしかない。

 一切の秩序も尊厳も無く。責任すら無く。自由の名の下に全ての繋がりを捨てた今の世の中は、まさに

昔の文献に書いてあった地獄や冥府のように思えた。

 それは永遠の孤独であり、孤独を孤独と知る事すら出来ない孤独である。

 常に独り、最後まで独り、誰と何をしても独り、何処で何をしても独り、誰と誰が何処で何をしようと

も常に独り。人は独り。

 遊びに行こうと、夜を共にしようと、散歩に出かけようと、街中で人の波に紛れようと、この人が溢れ

る世界で、洪水の様に流れる人々は、全て独りきり。全てが偉大なる独りであり、まさに孤独。

 人が焦がれるように望み、そして辿り着いた理想の世界。誰もが自分の思うままに振舞える世界。誰も

が人を批難する事も見下す事もない世界。

 確かに素晴らしい望み通りの世界が、今私と共に在る。素晴らしい。

 それなのに何故私は満たされないのか。

 何故心が凍り付くような恐怖を抱くのか。

 何故私はこうも落ち着かない。

 私の全てが乱れ、壊れていく。

 在るべき私はすでに無い。

 解らない、何故だろう。この世界は素晴らしい筈なのに。

 育児も人付き合いも、友人も恋人も、全ての干渉や束縛から無縁で、その時その時の幸せを求め、そし

てそれが受け容れられ、可能である世界。

 それが万人の望む世界だったのだ。

 例え私の頭が昔の人間になっているとしても、その人間達もまたそれを強く望んでいた筈なのだ。

 なのに何故、私はより多く満たされない。この当たり前に享受できるこの世界の人間よりも、その世界

に焦がれていた筈の私が、何故より満たされないのか。

 逆ではないのか。私は昔を知る事で、今の生活の素晴らしさを再確認できた筈なのに。

 何故だろう、この虚しさは。この寂しさは、何だろう。

 私には解らない。しかし最早取り返しの付かない事だけは解る。そしてそれがまた私に深い絶望を与え

るのである。

 これが罰だとすれば、一体何の罰なのか。私がどういう罪を犯したと言うのだろう。



 私は絶望を抱えながら、今も書き続けている。

 初めに書いていた歴史書のようなものでも、歴史の解説のような事でも、昔の風俗や文化を紹介する事

でもない。今の世界に相応しく、それに対する自らの考えだけを書き記している。理想的個の世界の住人

として、私は私の考えを書き続けている。

 この文章もその一つであり、この文自体に意味は無いが、これを書く事自体には今の世の中では意味が

あると云う、私の退行した頭で考えると非常に矛盾した愚かしい事をやっている。

 書けば書く程、様々な事が私の頭に浮び、私の考えや想いが整理され、はっきりとした形を取っていく

のが解る。それによって昔から何故人が文章を書くのか、という疑問に対する答えは出たが、それもまた

無意味なものである。

 その事で、私が賞を受けたとしても、一体それに何の意味があるのだろう。単に当たり前の事に気付い

たというだけではないか。私自身も更に寂しくなるだけだった。その賞も賞金も虚しさを増すだけで、私

を埋める事は出来ないようだ。

 しかし賞状だの何だのを捨てると、少しだけすっきりした。

 後捨てられる物といえば金だが、金を捨てる程の度胸はないので、変わりに全て使ってしまおうと思い。

折角だから昔の生活に近づけてみようと、家を買い、土地を買って機械に耕させ、会社などという愚かな

組織を真似して作り、そこに独りで通ってみたりした。

 それもまた評価されたが、やはり虚しくなっただけであった。今では入場料をとって見世物にしている。

 作った畑で取れた作物も、確かに嬉しくはあったが、すぐに虚しくなった。私のやる事など無意味なの

だと、思い知らされた気がする。

 昔ならば動物を飼うという手段もあったようだが、今の世でそのような権利侵害を行えばただでは済ま

ない。動物であれ、人と等しく権利を保障されているのだから、愛するのならまだしも、飼うなどと一体

どういう料簡だろう。

 植物ならば育てられる物もあるが、花を機械に育てさせた所で虚しいと云う事はすでに理解出来た事で

ある。

 機械任せではなく、自分でやりたいと思った事もあるが、基本的に人が手を加える事は許されない。そ

れは植物の権利を侵害している事になる。あくまでも人は植物に生活してもらう場所を提供するだけで、

植物自体に干渉するような事をしてはならない。植物をいじって新種だ新種だと馬鹿のように騒いでいた

時代は、遥か昔の事。

 何であれ、下手に弄れば世界の均衡を崩す可能性がある。それは世界を尊重しないと云う事で、最も重

い罰が科せられる。本当にくだらない、いや素晴らしい法だ。正に理想的ではないか。

 全ての尊重こそを皆求めているのだ。権利、尊重、権利、尊重。法を犯した犯罪者でさえ、当たり前の

顔をして権利を訴える。他人の権利を侵しておいて尚、大きな顔でそんな事が言え、世の中も当たり前に

それを受け容れる。そんな理想の世界で、何が不満だというのだろう。

 私の知る昔から、それはそうだった。それが叶ったとして、一体誰に不満を言うというのか。

 全ての権利は尊重され、侵害する事を厳しく取り締われている。素晴らしい、素晴らしい世界なのだ。

この世界は素晴らしい。全てが尊重されている。この世界は素晴らしい。

 全てから解き放たれ、人は完全なる世界で、完全なる人として生きている。

 その筈だ。そう思えない私の方がおかしいのだ。

 だから私は書き続ける。この世界は素晴らしい。どう考えても、どう見たとしても、これは遥か昔から

望まれた、理想の未来なのである。

 そうだ、いつも現世は過去から見た理想の未来、人が望んだ結果なのだ。

 人が望まなければ、今の世界にならなかった筈。だから常に人は過去の自分が望んだ理想の世界を生き

ている。人間の世界は常に素晴らしい筈なのだ。

 それに満足できない私の方が、おかしいのである。

 私はいつ道を間違えたのか。何故私はこのような事に興味を持ち、今も持ち続けているのか。

 疑問など、何の役にも立たないというのに。


 私には私が解らない。だから判断してもらいたい。私がおかしいのだと、そう言って欲しい。そうすれ

ば私は、きっと安心して元に戻れる筈なのだ。

 私の好きだった時代の、理想的な社会に対応した、理想的な自分に。

 それとも私以外の何かが、確かに間違っているのだろうか。




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