教会で一人主に祈る。
ただ祈る。
私は祈る。
あいつが嫌い、あの子が嫌い。
しかし、嫌いなのは人ではないと悟った。
人が他人を嫌う時。
それは他人の中にある自分を憎む。
人に自らを誇示し、妬み、蔑む。
私はこれに、自信、尊敬、憐れみという箱を被せていたのだろう。
自らの汚点を認められるほどには、私はまだ幼すぎたのか。
人は他人を憎めるほど、他人を知らないのだ。
だから祈る。
ただ祈る。
自分を見つめる事から全ては始まるのだと。
そう思っても、知ってるだけで解ってはいなかったのだと。
そう言うことが多すぎた。
人が何故争いを繰り返すのか、進歩はしないのかと誰かが嘆く。
それは無理だろう。
人類が何億年生きようと。
人一人生きるのはせいぜい100年。
先人の英知がどれほど残されようと、記憶にある訳では無い。
先人が悟ったようには見るだけ聞くだけでは悟れない。
知って、悟った気になるのがせいぜいだ。
私はそれが多過ぎた。
だから祈る。
ただ祈る。
それが解っても。
未だ、それが解らない奴らが憎い。
やつらに在る。
昔の自分が憎い。
そう言うことなのだろう。
ならば、人は自分を憎んでいるのを知らず。
ただ、死んでいくのであろうか。
だから祈る。
ただ祈る。
答えは多分、知っているのだろう。
誰もが。
ただ、それに気付きたくないだけ。
ああ、これが人の罪なのか。
私は少し気付く事が出来た。
しかし、他人を未だ憎んでいる。
これが、人の罪ならや。
ならば、未来永劫繰り返すしかないのだろうか。
私は一生解った気になって過ごすのだろうか。
認めなく無い。
自分が愚かだと言う事は。
ああ、だから私は祈るのだ。
だから、神に祈るのだ。