1-1.眠るように眠れ


 夜は全てを凪ぐ。しかしそれは表面上の事に過ぎない。人は夜こそが生命の営みである事を知っている。

 俺もそうだ。毎夜その営みの中で敗北し、情けの言葉を賜(たまわ)る。屈辱に塗れながらも、上を目

指す。師から習う武の道もその道も変わらない。俺は常に負け、常に学ぶ。もしあるなら、師を越えられ

る、その時まで。

「明けるまで眠りなさい」

 終りに賜るのはいつもその言葉。我々にはその営み以上に休息が必要。だからこそその営みは性急であ

りながら濃く、何の遠慮も無い。誰に臆する事無くそれを行う。待つ事は無意味。無事明日を迎えられる

保証など、何処にも無いのだから。

 夜が明ける。

 師は俺が起きる時間にはまだ眠っている。俺に気を許している証拠だと言う者もいるが、それは間違い

だ。今例え俺が師を殺そうとしても、その瞬間に一刀で斬り伏せられるだろう。後に残るのは俺の残骸だ

け。何も出来はしない。

 師は俺の死を残念がるかもしれないが、それまでの事だ。死んだ人間になど執着せず、次のもっと良さ

そうな弟子を探すだろう。出来ればより好みで、より耐えられそうなのを。

 師と弟子の関係はそんなものだ。もし弟子が師を殺す事が出来たなら、一人前として認められるが。出

来た者は少ない。大抵師が引退するまで付き従い、ようやく後を継ぐ資格を得られる。

 資格。そう資格。その段階ではまだ一人前とは認められない。自らの力で名を上げ、自分が後継に相応

しい事を示さなければならない。名指しで仕事を請けられるようになって、初めて一人前だ。

 我ら傭兵は名と力こそが全て。

 俺など師に及びはしない。剣も、何もかも。

 師は美しい。銀豹の通り名の由来である細長く美しい銀髪を身にまとい、端正な顔と美しい体の線が見

る者を魅了する。特にその線は美しく、まるで神が特別に創ったかのようだ。師なら例えその身を影に変

えたとしても、誰よりも美しいだろう。

 この美貌なら相手に不自由はしない筈だが、師は弟子しか相手にしない主義であるらしく、俺以外の誰

かと深い関係になった所を見た事もなければ、聞いた事もなかった。勿論、俺が弟子になる前の事は知ら

ない。師は何も語らないし、知る者もいない。

 師は名のある傭兵が大抵そうであるように、慎重で、冷静で、そして何よりも臆病だ。俺にしてもそう

なるまでには長い時間を置かれ、その間に様々な試練を与えられた。師に拾われた俺に選択肢などなかっ

たが、今の関係がその代価なら、悪くはない。俺はまだ恵まれている。きっとそうだ。

 今俺は眠る師の代わりに食事を作っている。これと夜の相手が俺の重要な仕事。師に拾われてから十年

近く経つが、未だに傭兵の仕事では師を助ける事が出来ない。師は余りにも強く、美しい。戦場に降り立

つ銀の豹を止められる者など居はしない。

 師と俺の年齢差は長くても十程度だろう。しかし傭兵としてはそれ以上に遥かな開きがある。同業者は

銀豹と十年も居れただけで勲章ものだと言うが、そうではない。俺は臆病なだけなのだ。師とは違う、臆

病なだけの臆病者。俺が生き延びてこれたのは、死なないように戦ってきたからだ。師とは違う。俺はま

だ、本当の意味では闘った事が無い。

 でもそれも悪くない。俺は師とは違う。だから何だ。

 俺に選択肢は無いのだ。そんな力も意味も無い。

「食事を終えたら、今日は炎の腕を見てあげよう」

 人は俺の容姿を見て、赤髪、赤頭、または単純に赤(セキ)と呼ぶ。しかし師だけは俺を炎(エン)と

呼び、他の者がそう呼ぶ事を許さない。それが例え俺自身であっても。その理由は解らないが、おそらく

それが俺が師のモノであるという証なのだろう。

 正式な名、一般の人間が付ける意味での名は我々には無い。傭兵は生まれも素性も不明な者が集まる、

どうしようもない最後の吹き溜まり。そこ以外に居場所が無く、自らの命を売り物にするしかなかった奴

らが集まる。一般の名など意味はないし、初めから名すら無い者も多い。名を与えられる程の幸運があれ

ば、誰もこんな世界になど踏み入れていない。

 たまに名とそれまでの人生を捨てて傭兵になる者も居るが、それは極少数の愚か者、或いは強者だけだ。

俺はどちらでもない。だから好きに呼べばいい。師がそう呼ぶのなら、俺は師の為だけの炎だ。

「ありがとうございます」

「礼などいい。それが師の役目でもある」

 師はたおやかに笑う。これだけを見れば、この人が血生臭い傭兵などと誰が思うだろう。この美貌があ

ればどうにでも生きられただろうに、一体何故こんな場所に居るのか、俺はいつも不思議に思う。

 師が直に見てくれるのは機嫌の良い証拠だ。今日は二つの意味でくたくたになるまでしぼられる。覚悟

しなければならない。

 しかしありがたい事にその時戸を叩く音が響き、隙間から一枚の赤い紙が入れられた。

 仕事が入ったのだ。


 戦況は五分五分。将の実力も似たようなものか。戦力は拮抗し、後は傭兵の力次第で戦の行く末が変わ

る。こういう仕事は実りがいい。勿論、生きて戻れたら、の話だが。

 師は無表情のまま戦場に佇(たたず)んでいる。銀豹と理解された今、よほどの馬鹿でなければ誰もが

避ける。銀豹の前に立つ事は死を意味するからだ。

 師の側には無数の骸が転がっている。それらは全て敵側の正規軍の服装をしている。いや、していた、

というべきか。すでに目ぼしい物は剥ぎ取られ、残っているのは肉と臓腑のみ。後は意味のなくなった血

がいつまでも垂れ流れている。

 全て一刀ではなく二刀で殺されているようだ。それは師の調子が悪いのではなく、単に不機嫌だからだ

ろう。不機嫌だから不必要に苦しめてから殺す。しかしそれでも二流の傭兵に斬られるよりは遥かに楽に

綺麗に死ねる筈だ。それだけは敵も師に感謝すべきなのかもしれない。

 師の前には死があるのみ。痛みも苦しみも無い。気付いた時が死ぬ時だ。

 俺の側には師の半分にも満たない人数が転がっている。それも未熟な傭兵ばかり。つまりこれが俺と師

との決定的な差。

 戦場で師が弟子を護る事は無い。逆もまず無い。自らの腕で生き残れぬ者に、報酬を貰う資格は無いか

らだ。俺がここで死んだとしても、師は眉一本動かさないだろう。未熟な弟子など、師を辱めるだけの存

在でしかない。

 だから未熟な俺を腕の立つ者が相手しないのは、師を恐れるからではない。俺を斬っても大した報酬は

得られないからだ。だから二流の、或いは駆け出しの傭兵だけが俺を狙う。二流は二流同士でやりあうの

が自然の流れ。

 こいつらは師には見向きもしない。まるで師から逃れるように、俺を襲う。そこに師が居るというだけ

で、こいつらには恐怖なのだろう。絶対に師が俺に加勢しないと解っていても、こいつらは怖いのだ。だ

からこそ二流。俺と同じく。

 恐怖する二流なら、同じ二流の俺でも容易く斬れる。だからいくら戦果を挙げても虚しいだけだ。師は

そんなものを評価しない。

 俺はただ生き延びただけだ。無様に今日も生き延びた。勝てる相手だけに勝ち、今日も生き延びた。そ

れだけの事。

 戦場に響く声が大きくなる。戦況が動いたのだろう。だが属する軍の勝敗になど興味は無い。勝とうと

負けようと報酬は変わらない。その国が滅びれば、話は別だが。そんな戦に加わる傭兵などいない。だれ

が命を安売りするだろう。奇麗事で死にたくはない。誰も。


 師の報酬はいつもと同じ。少なくも多くもなく、常に一定の額に止まる。いつも同じ程度の数だけ師に

斬られ、師の周りには広々とした空間が広がる。人が師を知るまでに死ぬ人数は、いつも変わらない。

 その人数で戦況が変わる事もあれば、変わらない事もあるが、師にとっては、いや傭兵にとってはどう

でも良い事だ。

 師は広々と開けた中心で無感動に過ごし、終りまで何かを眺めている。何を眺めているのかは、誰も知

らない。知る必要も無い。

 俺も大体同じ報酬を得る。師から逃れたいが為に暴走する愚か者の人数も、いつも大体同じだからだ。

 報酬は俺の好きにしていい。その代わりそれが尽きて餓死するような事になっても、師は助けてくれな

い。そこは完全に個人の問題で、自分の管理も出来ないような傭兵は生きられない。

 人はそれを厳しく、情の無い世界だというが、どこも似たようなものだろう。奴らがそれを見ていない

だけで、優しさや情は何処にも無い。そんなものがもしあったなら、我々のような人間は生まれていなか

っただろう。人は傭兵を人から外れた存在だと言うが、それは違う。人の世があるからこそ、我々もまた

存在している。人の中でだけ傭兵は生きられる。

「今日はもう好きにしなさい」

 存分に欲望を満たした後、師はいつもより早く俺を解放してくれた。戦の後は血がたぎる。その為にい

つもよりも長く濃くなるのだが、今日はよほど機嫌が悪いらしい。こういう日、師は独りでいつまでも眠

る。誰にも邪魔されないように。

 その間、俺は外で過ごさなければならない。師の言葉は絶対だ。常に従わなければならない。その言葉

に秘められた、全ての意味で。

 俺はその命を全うする為、静かに夜の街へ出た。


 夜の街は暗いが静かではない。暗闇が音を増幅させるのか、何を聞いても酷くうるさく感じる。虫の音、

人の息吹、風の音さえ酷く響く。あまりにも生を感じ過ぎる。

 俺は夜が好きではない。暗闇が来ると、営みの中に逃げ込みたくなる。酷く飢え、気味が悪い程に血が

吠える。

 でも今日は一人で過ごさなければならない。師が望まない以上、その中に逃げ込む事は出来ない。この

孤独は酷く痛いものだ。

「兄さん、寄ってきなよ」

 酒場女が声をかけてくる。この声はいつも同じ。いつも同じく俺に問いかける。そして俺の返答もいつ

も決まっている。

「兄さん良い男だねえ、安くしとくよ」

 酒場の喧騒は嫌いではない。何かが紛れる気がするからだ。

「よう、兄さん。今日は戦帰りかい。たんまりいただいてきたんだろ、一杯奢ってくれないか」

 赤ら顔の中年男がいつもと同じような事を言ってくる。よくは知らないが、何度か会った事がある。そ

の度に俺は奢っていた。特に意味がある訳では無い。他に使い道を知らないからだ。

 女は足りている。これ以上吐き出す気は無い。

 武具を買うか。それもいい。しかし俺程度の稼ぎでは、買い直すだけの価値がある物には手が届かない。

だから結局修理や手入れだけで済ます事になる。

 後は食うか飲むか。

 だから奢るのに意味はない。いつもと同じように声をかけられたまま店に入り、いつもと同じように乞

われるまま奢る。それだけの話。そこに意味も興味も無い。

「いつも悪いねえ、兄さん。でもねえ、またすぐに取り戻せるよ。今日勝った事に気を良くしたのか、こ

の勢いでどんどん行っちまおうってえ話があるらしくてよ。近々また戦争をするつもりらしい。きっとあ

んたにもお呼びがかかるさ。だって、あんた俺が見る限りいつも怪我一つしてないじゃないか。名のある

傭兵さんなんだろ。俺にゃあ解るよ」

 酔っ払いは喋るだけ喋ると満足したように眠った。俺はいつものようにこの男の分も代金を払ってやり、

そのまま店を出る。酒場女が当然のように俺に寄り添うが、適当に金を渡して追い返す。

 夜はまだ長い。しかしこれ以上行く当てはなかった。後はぶらぶらと朝まで歩く。こんな事を一体どれ

くらいしてきたのだろう。

「・・・・・・!!」

 不意に叫ぶ声が聴こえた。喧嘩だろう。向かい合う二人が何かを言い争っている。どちらも完全に酔っ

払っているようだ。泥酔していると言ってもいい。服装からすると傭兵か、それと大差ない何かだろう。

よくある光景だが、一つだけ違うのは、どちらも女だという事だ。

 戦場に出る女は珍しくない。しかし泥酔した女二人が抜き身の剣をぶら下げて、本気で決闘しようとし

ている光景はそう見られない。二人組みの揉め事は、男二人か男女のもつれに決まっている。いや、俺が

そう思っているだけなのか。

「あんたみたいのが、吐き気がすんだよッ」

「あんたに言われたかないねえ」

「フン。調子に乗れてんのが、明日までさ」

「へえ、あたしと一緒に寝てくれるのかい」

「うるさいよッ!」

 白刃が煌く。夜闇に刃は美しく映えるものだ。血で犯されていれば尚更いい。

 二度、三度、火花が散る。皆遠巻きに眺めているが、どうかしようという者はいないし、自警団も来な

い。どちらかが死んだ時、葬儀屋が現れ、死体の始末をする代わりに身包み剥いでいくだけだ。それ以上

は誰も関わらない事になっている。

 それが掟(おきて)。いやそんな結構なもんじゃない。相手するのが面倒だからだ。

「おっ死んじまいな!」

「ふらふらでよく言うねえ」

 ろれつの回らない女が激しく攻めている。しかしよくよく見れば、もう一人の女がふらつく足で、しか

し軽くいなしているのが解る。あの女の目は酔っていない。赤く輝くあの目は、何処か師に似ている。

「ひっ!」

 薄く息を発して泥酔している方が斬り殺された。遊ぶのも面倒になったのだろう、一瞬で勝負が付いて

いる。そこには迷いも慈悲もない。赤い目が月のように燃えている。

 赤目は殺した女から目ぼしいものを剥ぎ取ると、鼻歌でも歌うように俺に近付いてきた。

「人が死ぬのが珍しいのかい」

「女が女を殺すのが珍しいのさ」

「ハハッ、違いない」

 赤目は豪快に笑う。その笑いには嫌味が無い。強さからくる余裕。いや、もっと深いものか。

「折角の縁だ。どうだい、一杯付き合わないかい」

 赤目は艶っぽく笑った。


 赤目は呆れるくらい飲み、それ以上に食べた。俺の数倍は食べただろう。確かに大柄だが、一体どこに

それだけの血肉が必要なのだろう。胸か、それとも尻か。確かにどちらもでかいが、それだけではとても

収まりそうにない。

「なんならじっくり見せてやろうか」

 赤い目が薄く滲む。

「遠慮しておく」

「つれないねえ、兄さん」

 赤目は屈託無く笑う。この店に来てからも何が楽しいのかずっと笑っている。俺もつられて笑ったが、

何が楽しかったのかは最後まで理解出来なかった。

 俺の笑いはただ笑う。含み無く笑う。楽しくも悲しくもない、そういう笑いがいつの間にかこびりつい

て離れない。気付いたらこうだった。多分、一生こうなのだろう。

「もっと飲みなよ。奢ってあげるからさ。食える時に食う、飲める時に飲む、それが傭兵だろ」

 確かにそうだ。そうでなくてはならない。でも違う。師はそうじゃない。

 師は・・・。

「飲んでるよ。あんたが飲みすぎるんだ」

「フフ、よく言われるよ、その台詞」

 赤目は笑い、その後も朝までずっと笑っていた。

 まるで俺の代わりに笑っているような気がしてその夜は孤独ではなかったが、最後まで何も解らなかっ

た。俺達は何をそんなに笑っていたのだろう。


 朝日と共に師の下へ戻ると、師はとうに起きていた。珍しい事もあるものだ。

「何処へ行っていた」

 師は不機嫌そうに言う。こんな事は初めてだ。一晩寝ても機嫌が悪いなんて。

 俺は正直に話した。隠す必要などないからだ。

 しかし師は俺の話を聞いて、明らかに機嫌を損ねていた。

「近く仕事がある。準備しておけ」

 師がそう言うと、まるで師に媚びるように、赤い紙が戸口から舞い降りてきた。


 この戦もこちら側の勝利で終わっている。話によると初めから勝敗は決まっていたらしい。この戦いは

敗軍に止めを刺す為の戦。勝敗を決するものではなく、弱った敵を踏みにじる為の戦。傭兵がどれだけ働

こうと働くまいと、勝敗は初めから決まっている。

 師は今日、多くを殺した。いつになく殺した。いつもとは違い、俺の前から、いや俺達の前から姿を消

し、その度に戦場に血の花が咲く。

 俺は少々傷を負っている。やはり未熟なのだ。師のいない俺はただの未熟者。勝てる相手にも傷を負わ

される。その程度でしかない。

 戦果もいつも以上に少なく、師から何か言われるかと正直恐れを抱いていた。

 しかし帰ってきた師は何故か上機嫌で、不思議な程俺に優しい。

 違和感はあったが、気にしても仕方ない。師は気まぐれだし。良かろうと悪かろうと、俺の戦果など師

から見れば大差ない。

 戦が終わる。いつもとは少し違ったが、終わる時は変わらない。勝利か敗北か、終りには二通りしかな

いからだ。そしてどちらになろうと、師が敗れる事はない。それだけはいつも変わらない。師はいつも師

のままだ。


 街に戻り、師の相手をする。今日は一晩中どころか、次の夜まで続いた。

 それから師は。

「今日はもう好きにしなさい。でも早く帰るように」

 とおかしな事を言い、俺を不可解な気持ちにさせている。だが師の命令は絶対。俺はそうしなければな

らない。

 解らないまま街に出、いつもの店で酔っ払いに奢り、そこで俺は初めてあの赤目が殺された事を知った。

その亡骸は無残で、まるで百の刃に切り刻まれたようであったという。

 誰がやったのかは解らない。しかし赤目は相当な腕利きで、それをあんな目に遭わせられるような者は

限られている。敵軍か、敵軍の雇った傭兵によほどの者が居たのか。或いは・・・。

「それにしても兄さん。今日は調子悪かったのか。ひでえ有様じゃねえか。あんたがそんなになるし、赤

目も死んじまうし、今日のはよっぽどきつかったんだな。同情するぜ。しかしあの赤目はいい女だったな。

もったいねえ、もったいねえ」

 俺は酔っ払いに礼を言うと、その日は師の命じた通り、早めに家へ帰った。これ以上余計な誰かと、出

会わなくて済むように。




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