炎狼、いやもう銀狼か、は蒼の都へとやってきた。 目指すはあの場所。 静けさと無意味さ、全ての虚無が流れ着いたかのような圧倒的な空の重み。 それを唯一感じられる、そして受け容れられる場所。 迷いはしなかった。 いや、迷えば良かった。 この都市で流れ着く先はいつも同じ。 それは今でさえ変わらない。 誰も来ない。来ないまま寂れ果てたあの場所。あの場所だけだ。
斬り伏せた影が残っていた。 師を思い出させた報い。 多分それだけの為にあの影はここに居たし、今も残っているのだろう。 そして解っていたのだ。彼が、銀狼がここに来る、来るしかないという事を。 それを知るのは一人しか居ない。 同じ銀。いや、正確には銀であった者。 今は朽ちた幻影。己の鏡。 銀狼こそが銀であり、今はもう彼女はその姿を失っている。 どれだけ強くとも、美しくとも、その力は奪われた。 だから地べたに這いずり、影となってそうしていたのだろう。 しかし、それもまた残骸に過ぎない。 本体はその上に在る。 あの影は正しく影。捨て駒。師の代わりにそうさせる為の、導く為の布石。 気付いていた。銀狼は気付く。そのあまりの重さ、偉大さに。 そうだ、全てを圧する重み。それこそが銀の獣に相応しい。 豹と狼。どちらがそれを抱き続けるのか、審判の時が来ている。 彼がここに導かれたのは偶然ではない。 だがそういう意味での必然でもなかった。 導かれたのだ。 師の香り。ここに潜むその懐かしくもあたたかい生命そのものの香りに。 その影は銀色に瞬き。 全てを飲み込み、喰らい尽くす。 奪われた痕。 「やはり、お前だったね、炎」 背筋がぞくりと動く、魅惑的な声。 狼の心を溶かし、犬にするヒトの声。 屈辱を代償に、耐え難い悦楽を得られる声。 支配される喜び。それに浸る為に彼はここへきたのか。 そうかもしれない。 そうではないのかもしれない。 銀狼は自問自答を繰り返す。 しかし豹は興味無いようだ。 彼女が興を持つのは、目の前の肉にだけ。 あたたかく、やわらかく、やり尽くしても飽き足りない美欲の受け皿。 「あの子は役目を果たしたようだ。それなりに役には立った。これは喜ばしい事だよ、炎」 体が震える程美しい殺気を湛(たた)えている。 どこにいるのか。 存在してさえいるのか。 解らない。 この重みの中。 自分でさえ、解らなくなりそうだ。 否定も肯定もない。師だけが全て。全てを決められるのは銀の豹だけだ。 「炎、エン、えん・・・・どれだけ待っただろう。どれだけ望んだだろう。お前とこうして会える、この 時を、私はずっと、望んでいたよ」 気配が一(いつ)に深まる。 「さあ、おいで。私の悦びに還ればいい」 圧倒的な呪縛が在る。 逆らえない。 いや、逆らいたくない。 そこに呑まれ、一つに、一つの血肉に戻りたかった。狂おしい程にそう思う。 滾(たぎ)る血肉を他所に。 あらゆる欲望を越えて、一にそう思った。 だが今はもう全てが違っている。シの思惑は、もう・・・・・。 「終わりだよ、炎。美しいだろう、イトオシイダロウ」 千の刃が飛んでくる。 師に刻まれた赤目もこんな気持ちだったのだろうか。 このままこの刃に抱かれたい。どこまでも一つになりたいと。 しかしそんなものは幻想だ。 千の刃などどこにもありはしない。 切り刻まれる体を無視し、銀狼は自ら飛び込む。 「・・・・・」 言葉など発せられない。 しかしそれは外から圧された訳ではなかった。 銀狼は己の内から湧き上がるモノに圧倒されたのだ。 豹が睨(にら)んでいる。呆れる程、真摯(しんし)な顔をして。 「それは俺の言葉だ、シよ!」 真っ赤に猛る髪のように、銀狼の全身は赤く染まり、銀すら圧する炎となって、全ての色を焼き尽くす。 「終わらせよう、こんな事は」 師へ手向ける最後の言葉。 「!!!!!!!!!!!」 声ならぬ声。 ただただ赤く。 そして銀に。 赤銀に染まる万の刃。 それが銀豹をずたずたに切り裂き。 抉り、そして失わせた。 「私が・・・・この私が・・・崩れていく・・・崩れていく、炎・・・」 血に染まる師の姿は、誰よりも無様で、何よりも醜(みにく)かった。 伸ばされた手を斬り落とす。 赤く染まった銀豹など見たくはない。 無様な命乞い。炎に堕ちた師の姿など、あってはならなかった。 だがそれが真実だ。 銀は炎に焼かれ、新たな銀を祝福する。 それを知っていた。 だから師は逃げたのだ。 誰でもない。炎狼から逃げ出した。 敗北の気配、それを感じたのだろう。 実力ではなく、本来の豹として。 彼を生かしておけばこうなる事は、彼女が一番解っていたのだ。 でも生かしたかった。 炎狼はそれを望まなかったのに。豹は狼を許した。 久住の事を思い出す。 かわいそうな女だ。 何も病む必要は無かったのに。 こだわる意味も無かったのに。 銀の幻想に喰われ。血に踊らされ。同じようにそれを望み。望みながら果てた。 彼女は銀豹ではなかったというのに。師程の力が無かったというのに。 いや、それは炎狼にも同じ事。 実力で言えば、狼は豹に勝てない。 だが炎は銀に勝った。 何故か。 「相性」 そう、影が漏らしたあの言葉。 それが全ての答え。 それを解っていたからこそ、師は逃げた。 炎を殺したくて堪(たま)らなかったから、逃げたのだ。 それこそが彼女を貶(おとしめ)めた。人間にまで堕とした惰弱な心。 いつまでも獣で居れば良かったのに。 いつまでも銀に輝いていれば良かったのに。 逃げた彼女には、もう愛する炎を殺す事ができない。 選択はなされていた。 解っていたのだ。 「解っていた筈なんだ。貴女には」 涙など出てこない。 ただただ、炎は惨めだった。 一体今まで何の為に狼として生きてきたのだろう。 誰の為でもなくなった。 誰の為にもならなかった。 ただ殺し。血を流し。炎で焼く。 それだけが彼の全て、銀豹にはなれない。 彼には人を銀に飢えさせる事ができなかった。 師のようにやれば。 銀に生きれば。 多くを死なせずに済んだのに。 ただその気持ちだけが。その気持ちの為だけに。絶え間なく命を流した。 誰も愛さず。しかし誰にでも愛される。そういう獣になっていれば、良かったのに。 炎はそれを選ばなかった。 彼は銀になどなりたくなかった。ただ銀に包まれ、安らかな支配を受けていたかった。 そんな彼に、同じ生き方をしろという方が無理だったのだ。 赤銀も銀豹が勝手に描いた幻想に過ぎない。 彼は銀でも赤でもなかった。 全てを災厄に焼く炎。愛しもせず、愛すら燃え捨てる炎。 狼など初めから燃え朽ちていた。 幻想なのだ。 そう思えたのはただの幻想。もう二度と浮かばない。 全ては終わった。 確かにそうだ。 しかし、それが何になるだろう。 ただただ惨めなだけ。 炎は思い知らされる。 銀色の獣なんて幻想に過ぎなかった。 ただ誰もが楽にしたく、それを望み、幻想を追いかけ、共に夢を見ていただけなのだ。 だからそこから外れた炎には通じなかった。それだけの事。 それなのに銀の豹はいつの間にか幻想に頼るようになっていた。 昔日の冴えも、速さも無い。 年月と無慈悲な生活によって蝕(むしば)まれた肉体は、焼かれるに相応しい。 幻想を捨て、完全に影になっていれば、殺されてあげられたのに。 豹の誇りが、銀を忘れさせなかったのか。 それとも、依存していたのか。 どちらにしても、なんて惨めな最後だろう。 銀豹もただの人間だったという事実。 そんな当たり前の事に打ちのめされ。 炎は全てを剥がれてしまった。 もう誰の物でもない炎。 それはただ寂しく、怖く、そして何も無かった。
全てを炎にかけ、炎もまたその炎に身を投じたが、炎は彼を焼き尽くせなかった。 全身火傷を負って尚、彼は死ねない。 何者かに助け出され、治療を受けさせられた。 それは最後まで彼を見ていた誰かの仕業。 継ぐ者に死は許されない。 新たな銀は、その宿命から逃れられない。 銀の系譜を、人の幻想を失わせてはならない。そうする事は許されないのだ。 炎は生きるしかなかった。 銀の炎として。銀を受け継いだ者として。 彼自身が望もうと、望むまいと関係ない。 彼はそうしなければならない。 いつまでも永遠に。 彼がそれに相応しい者に、殺されるまで。 銀炎は師を救ったのだ。 どう否定しようとも、それが真実というやつである。 炎が豹に代わる。それは無限の地獄から救ったという事。 人の幻想を一身に浴び、体現する存在から開放され、死ぬ事を許された。 ただ一度負ける事を許された相手に、それを与えられた。 開放されたのだ。 しかしこの下らないからくりは、銀豹一人死んだ程度では終わらない。 そこからまた始まる。 もう一度。 いや、何度でも。 終わりなき繰り返し。 人が居る限りあるだろう幻。 それが銀。 銀色の炎。 彼はやらなければならない。 もう始まっている。 彼はこう呼ばれるだろう。 赤銀の炎。 そこに畏怖と憧れを込められて。 無限の地獄に、堕ちるのだ。
ここに全てを成す者達が居る。 今は赤き国にて暗部と呼ばれている者達。 常に中心となる誰かの側に居て、その流れを生み、引き返せないよう加工する。 従順に、誰よりも従順に。 何故その役割が課されているのか。それはもう誰も知らない。 彼女達はそれをやるだけ。 生まれた時からそうするだけ。 銀を引き継がせ、銀だけを灯す。 幻想であっていい。 幻想でなくてはならない。 本当の事などどこにも必要ではなかった。 思い込みの、人という思い込みの世界で、いつまでも夢を見続ける。 いつか失われてしまうのかもしれない。 しかし彼女達は自らが存在している限り、それをやり続ける。 理由など解らない。 ただそうする為に継いできた。 銀と同じ。 炎が銀を目指すように。 銀が人の幻想になるように。 彼女達は世に銀を逝き続けさせる為に生きている。 幻想の終わりは新たなる幻想の始まり。 そういう風にして、長く長く続けられてきた歴史なのだ。 理由は要らない。 そうしなければならない。 続けなければならない。 今更終われない。 その昔、誰かが気まぐれに始めた事なのかもしれない。 遊びだったのかもしれない。 ままごと、ごっこ遊びのような取るに足らないものだったのかもしれない。 しかしそれを誰かが現実に望み。 そして実行続けさせた。 永遠に銀の夢を見せろ。人の中に夢を創れ。 長く続き、いつの間にか古よりの絶対の伝統になり、否定する事を封じられた。 解っていても、認めてはならない。 望んでいるとか、望んでいないとかではなく。それを守る事が存在意義なのだ。 続ける事が重要なのだ。 この狂った営みは繰り返し続いて逝く。 そしてそれは珍しいものではない。 この世にありふれている。 誰かが生み出した憎しみ、喜びが伝統として今も尚受け継がれ。 その中の幾つかが狂った意味に歪められている。 初めから狂っていたものもあるだろう。 止めれば良いのに。誰も止められない。 一人だけ、外れるのが、怖いからだ。 それを止める恐怖。その為に生かされる。それが銀の真実。 裏に潜む、真なる願い。 いつまでも朽ちぬ遊び。 愚かな迷い子。 狂おしい悦び。 依存心。 そして今日も続いて逝く。 人の夢は、終わらない。人でいる限り。
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