2-14.銀の残光


 炎狼、いやもう銀狼か、は蒼の都へとやってきた。

 目指すはあの場所。

 静けさと無意味さ、全ての虚無が流れ着いたかのような圧倒的な空の重み。

 それを唯一感じられる、そして受け容れられる場所。

 迷いはしなかった。

 いや、迷えば良かった。

 この都市で流れ着く先はいつも同じ。

 それは今でさえ変わらない。

 誰も来ない。来ないまま寂れ果てたあの場所。あの場所だけだ。

 斬り伏せた影が残っていた。

 師を思い出させた報い。

 多分それだけの為にあの影はここに居たし、今も残っているのだろう。

 そして解っていたのだ。彼が、銀狼がここに来る、来るしかないという事を。

 それを知るのは一人しか居ない。

 同じ銀。いや、正確には銀であった者。

 今は朽ちた幻影。己の鏡。

 銀狼こそが銀であり、今はもう彼女はその姿を失っている。

 どれだけ強くとも、美しくとも、その力は奪われた。

 だから地べたに這いずり、影となってそうしていたのだろう。

 しかし、それもまた残骸に過ぎない。

 本体はその上に在る。

 あの影は正しく影。捨て駒。師の代わりにそうさせる為の、導く為の布石。

 気付いていた。銀狼は気付く。そのあまりの重さ、偉大さに。

 そうだ、全てを圧する重み。それこそが銀の獣に相応しい。

 豹と狼。どちらがそれを抱き続けるのか、審判の時が来ている。

 彼がここに導かれたのは偶然ではない。

 だがそういう意味での必然でもなかった。

 導かれたのだ。

 師の香り。ここに潜むその懐かしくもあたたかい生命そのものの香りに。

 その影は銀色に瞬き。

 全てを飲み込み、喰らい尽くす。

 奪われた痕。

「やはり、お前だったね、炎」

 背筋がぞくりと動く、魅惑的な声。

 狼の心を溶かし、犬にするヒトの声。

 屈辱を代償に、耐え難い悦楽を得られる声。

 支配される喜び。それに浸る為に彼はここへきたのか。

 そうかもしれない。

 そうではないのかもしれない。

 銀狼は自問自答を繰り返す。

 しかし豹は興味無いようだ。

 彼女が興を持つのは、目の前の肉にだけ。

 あたたかく、やわらかく、やり尽くしても飽き足りない美欲の受け皿。

「あの子は役目を果たしたようだ。それなりに役には立った。これは喜ばしい事だよ、炎」

 体が震える程美しい殺気を湛(たた)えている。

 どこにいるのか。

 存在してさえいるのか。

 解らない。

 この重みの中。

 自分でさえ、解らなくなりそうだ。

 否定も肯定もない。師だけが全て。全てを決められるのは銀の豹だけだ。

「炎、エン、えん・・・・どれだけ待っただろう。どれだけ望んだだろう。お前とこうして会える、この

時を、私はずっと、望んでいたよ」

 気配が一(いつ)に深まる。

「さあ、おいで。私の悦びに還ればいい」

 圧倒的な呪縛が在る。

 逆らえない。

 いや、逆らいたくない。

 そこに呑まれ、一つに、一つの血肉に戻りたかった。狂おしい程にそう思う。

 滾(たぎ)る血肉を他所に。

 あらゆる欲望を越えて、一にそう思った。

 だが今はもう全てが違っている。シの思惑は、もう・・・・・。

「終わりだよ、炎。美しいだろう、イトオシイダロウ」

 千の刃が飛んでくる。

 師に刻まれた赤目もこんな気持ちだったのだろうか。

 このままこの刃に抱かれたい。どこまでも一つになりたいと。

 しかしそんなものは幻想だ。

 千の刃などどこにもありはしない。

 切り刻まれる体を無視し、銀狼は自ら飛び込む。

「・・・・・」

 言葉など発せられない。

 しかしそれは外から圧された訳ではなかった。

 銀狼は己の内から湧き上がるモノに圧倒されたのだ。

 豹が睨(にら)んでいる。呆れる程、真摯(しんし)な顔をして。

「それは俺の言葉だ、シよ!」

 真っ赤に猛る髪のように、銀狼の全身は赤く染まり、銀すら圧する炎となって、全ての色を焼き尽くす。

「終わらせよう、こんな事は」

 師へ手向ける最後の言葉。

「!!!!!!!!!!!」

 声ならぬ声。

 ただただ赤く。

 そして銀に。

 赤銀に染まる万の刃。

 それが銀豹をずたずたに切り裂き。

 抉り、そして失わせた。

「私が・・・・この私が・・・崩れていく・・・崩れていく、炎・・・」

 血に染まる師の姿は、誰よりも無様で、何よりも醜(みにく)かった。

 伸ばされた手を斬り落とす。

 赤く染まった銀豹など見たくはない。

 無様な命乞い。炎に堕ちた師の姿など、あってはならなかった。

 だがそれが真実だ。

 銀は炎に焼かれ、新たな銀を祝福する。

 それを知っていた。

 だから師は逃げたのだ。

 誰でもない。炎狼から逃げ出した。

 敗北の気配、それを感じたのだろう。

 実力ではなく、本来の豹として。

 彼を生かしておけばこうなる事は、彼女が一番解っていたのだ。

 でも生かしたかった。

 炎狼はそれを望まなかったのに。豹は狼を許した。

 久住の事を思い出す。

 かわいそうな女だ。

 何も病む必要は無かったのに。

 こだわる意味も無かったのに。

 銀の幻想に喰われ。血に踊らされ。同じようにそれを望み。望みながら果てた。

 彼女は銀豹ではなかったというのに。師程の力が無かったというのに。

 いや、それは炎狼にも同じ事。

 実力で言えば、狼は豹に勝てない。

 だが炎は銀に勝った。

 何故か。

「相性」

 そう、影が漏らしたあの言葉。

 それが全ての答え。

 それを解っていたからこそ、師は逃げた。

 炎を殺したくて堪(たま)らなかったから、逃げたのだ。

 それこそが彼女を貶(おとしめ)めた。人間にまで堕とした惰弱な心。

 いつまでも獣で居れば良かったのに。

 いつまでも銀に輝いていれば良かったのに。

 逃げた彼女には、もう愛する炎を殺す事ができない。

 選択はなされていた。

 解っていたのだ。

「解っていた筈なんだ。貴女には」

 涙など出てこない。

 ただただ、炎は惨めだった。

 一体今まで何の為に狼として生きてきたのだろう。

 誰の為でもなくなった。

 誰の為にもならなかった。

 ただ殺し。血を流し。炎で焼く。

 それだけが彼の全て、銀豹にはなれない。

 彼には人を銀に飢えさせる事ができなかった。

 師のようにやれば。

 銀に生きれば。

 多くを死なせずに済んだのに。

 ただその気持ちだけが。その気持ちの為だけに。絶え間なく命を流した。

 誰も愛さず。しかし誰にでも愛される。そういう獣になっていれば、良かったのに。

 炎はそれを選ばなかった。

 彼は銀になどなりたくなかった。ただ銀に包まれ、安らかな支配を受けていたかった。

 そんな彼に、同じ生き方をしろという方が無理だったのだ。

 赤銀も銀豹が勝手に描いた幻想に過ぎない。

 彼は銀でも赤でもなかった。

 全てを災厄に焼く炎。愛しもせず、愛すら燃え捨てる炎。

 狼など初めから燃え朽ちていた。

 幻想なのだ。

 そう思えたのはただの幻想。もう二度と浮かばない。

 全ては終わった。

 確かにそうだ。

 しかし、それが何になるだろう。

 ただただ惨めなだけ。

 炎は思い知らされる。

 銀色の獣なんて幻想に過ぎなかった。

 ただ誰もが楽にしたく、それを望み、幻想を追いかけ、共に夢を見ていただけなのだ。

 だからそこから外れた炎には通じなかった。それだけの事。

 それなのに銀の豹はいつの間にか幻想に頼るようになっていた。

 昔日の冴えも、速さも無い。

 年月と無慈悲な生活によって蝕(むしば)まれた肉体は、焼かれるに相応しい。

 幻想を捨て、完全に影になっていれば、殺されてあげられたのに。

 豹の誇りが、銀を忘れさせなかったのか。

 それとも、依存していたのか。

 どちらにしても、なんて惨めな最後だろう。

 銀豹もただの人間だったという事実。

 そんな当たり前の事に打ちのめされ。

 炎は全てを剥がれてしまった。

 もう誰の物でもない炎。

 それはただ寂しく、怖く、そして何も無かった。



 全てを炎にかけ、炎もまたその炎に身を投じたが、炎は彼を焼き尽くせなかった。

 全身火傷を負って尚、彼は死ねない。

 何者かに助け出され、治療を受けさせられた。

 それは最後まで彼を見ていた誰かの仕業。

 継ぐ者に死は許されない。

 新たな銀は、その宿命から逃れられない。

 銀の系譜を、人の幻想を失わせてはならない。そうする事は許されないのだ。

 炎は生きるしかなかった。

 銀の炎として。銀を受け継いだ者として。

 彼自身が望もうと、望むまいと関係ない。

 彼はそうしなければならない。

 いつまでも永遠に。

 彼がそれに相応しい者に、殺されるまで。

 銀炎は師を救ったのだ。

 どう否定しようとも、それが真実というやつである。

 炎が豹に代わる。それは無限の地獄から救ったという事。

 人の幻想を一身に浴び、体現する存在から開放され、死ぬ事を許された。

 ただ一度負ける事を許された相手に、それを与えられた。

 開放されたのだ。

 しかしこの下らないからくりは、銀豹一人死んだ程度では終わらない。

 そこからまた始まる。

 もう一度。

 いや、何度でも。

 終わりなき繰り返し。

 人が居る限りあるだろう幻。

 それが銀。

 銀色の炎。

 彼はやらなければならない。

 もう始まっている。

 彼はこう呼ばれるだろう。

 赤銀の炎。

 そこに畏怖と憧れを込められて。

 無限の地獄に、堕ちるのだ。



 ここに全てを成す者達が居る。

 今は赤き国にて暗部と呼ばれている者達。

 常に中心となる誰かの側に居て、その流れを生み、引き返せないよう加工する。

 従順に、誰よりも従順に。

 何故その役割が課されているのか。それはもう誰も知らない。

 彼女達はそれをやるだけ。

 生まれた時からそうするだけ。

 銀を引き継がせ、銀だけを灯す。

 幻想であっていい。

 幻想でなくてはならない。

 本当の事などどこにも必要ではなかった。

 思い込みの、人という思い込みの世界で、いつまでも夢を見続ける。

 いつか失われてしまうのかもしれない。

 しかし彼女達は自らが存在している限り、それをやり続ける。

 理由など解らない。

 ただそうする為に継いできた。

 銀と同じ。

 炎が銀を目指すように。

 銀が人の幻想になるように。

 彼女達は世に銀を逝き続けさせる為に生きている。

 幻想の終わりは新たなる幻想の始まり。

 そういう風にして、長く長く続けられてきた歴史なのだ。

 理由は要らない。

 そうしなければならない。

 続けなければならない。

 今更終われない。

 その昔、誰かが気まぐれに始めた事なのかもしれない。

 遊びだったのかもしれない。

 ままごと、ごっこ遊びのような取るに足らないものだったのかもしれない。

 しかしそれを誰かが現実に望み。

 そして実行続けさせた。

 永遠に銀の夢を見せろ。人の中に夢を創れ。

 長く続き、いつの間にか古よりの絶対の伝統になり、否定する事を封じられた。

 解っていても、認めてはならない。

 望んでいるとか、望んでいないとかではなく。それを守る事が存在意義なのだ。

 続ける事が重要なのだ。

 この狂った営みは繰り返し続いて逝く。

 そしてそれは珍しいものではない。

 この世にありふれている。

 誰かが生み出した憎しみ、喜びが伝統として今も尚受け継がれ。

 その中の幾つかが狂った意味に歪められている。

 初めから狂っていたものもあるだろう。

 止めれば良いのに。誰も止められない。

 一人だけ、外れるのが、怖いからだ。

 それを止める恐怖。その為に生かされる。それが銀の真実。

 裏に潜む、真なる願い。

 いつまでも朽ちぬ遊び。

 愚かな迷い子。

 狂おしい悦び。

 依存心。

 そして今日も続いて逝く。

 人の夢は、終わらない。人でいる限り。




                               了 そして永続




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