1.

 先日父が亡くなった。

「別に長生きなどしたいとも思わない。死ぬ時がきたなら死ねばいい」

 などと平素言っていた父だが、結局八十まで生きた。長寿の方が珍しくない今、さほど長生きとは思わ

れないかもしれないが。平均寿命よりも数年長い。

 充分長生きしたのではないだろうか。

 痛みなども特に無かったらしく。臨終の際にも、

「お先に失礼」

 というだけの素っ気無い父であったが。遺言は怖ろしく細かく、財産状況も正確に書かれ、一体いつ調

べたのか勉強したのか、驚く程丁寧で法的にもしっかりしたものであった。

 財産整理も見事になされており。これでは私共の出番がありませんなと、弁護士が褒めたのか呆れたの

か、一つ呟いたのを覚えている。

 まことに父らしいと言えば、そうなのだが。これをほとんど独力でやり終えてしまったのだから、まっ

たくもって変わった人である。

 父は自分の事は最後まで責任を持って、しっかりとやり終えないと気が済まない人であった。

 責任感があるとか、細かい人だとか、そういうのではなく。単に頑固で、自分の目で最後まで見なけれ

ば気が済まなかっただけなのだろう。

 ここで変に褒めると父の機嫌が悪くなるので、そういう事にしておく。


 生まれは兼業農家というありふれた家庭で、いわゆる中流階級というのだろうか。貧乏でも金持ちでも

なく、ようするにどっちつかずの平凡な家である。

 特に由緒ある家柄でも無く、先祖に偉人や英才が居たという事も無く、これまた血統にしても平凡で、

祖父も祖母も曽祖父も曾祖母も到って平凡。さして悪事を働いた事が無いのだけが誉れだろうか。

 ただ祖母の実家が商いをしていたので、そちらの家系はなかなか商才があり、父も幾許かその血を継い

でいたように思う。幼き頃の父は妙に機転の働く所があって、家族内ではそこそこ良い風に見られていた

そうだ。

 実際、小学校の間は結構な成績であったらしい。

 しかし生来の勉強嫌い、そして天邪鬼な部分が災いして、中学校辺りから徐々に成績は下がり。高校辺

りには平々凡々な成績になっていたそうだ。

 例え少しばかりの才能があったとしても、よほどの天才でない限りは、小学校卒業までが限界だと言わ

れている。それ以上は暗記量が物を言い、誰でも勉学に励まなければ付いていけなくなるらしい。

 中学、高校からが勉学の本番と言う事なのだろう。学校の勉学というのは、所詮は暗記である。全て覚

えれば、満点を取る事も難しくない。

 それでも本が好きだったのが幸いしてか、国語、しかもおかしな事に学校のテストではなく、いわゆる

模擬試験というやつの成績だけはなかなかのものだったらしい。

 真面目にやっていれば、そこそこの成績にはなっていたのではないかと、我が父の事ながら思う。

 父には他にもおかしなところがあって。例えば赤点、つまりは一学期内でのテスト平均がこれ以下だと

追試を受けなくてはならない、その授業を習得したと認められない、点数をとったとしても。

 テストは毎期二回ずつあったのだが、必ず次のテストではそれを取り戻し。結局、卒業までの間一回も

補習を受けたり、追試を受けたりした事はなかった。

 大学入試も推薦入試で入ったそうだが。これも驚く事に追加合格、つまりは上位成績者が他の学校に受

かった為に辞退し、その辞退した分だけ下から繰り上がる、で入学している。

 これを見て、父の担任の教師などは、

「お前はいつも最低辺の辺りをうろついてるなあ。でもちゃんといつも入ってるんだ」

 と褒めるでも呆れるでもなく、不思議そうに言った事があるそうだ。

 この担任は、父が勉強が嫌いな為真面目に勉強するでもないが、しかし落第点をとってまた補習などで

長期休みに学校行くのも面倒だから、その中間をとって最低限の勉強で済むようにしていたのではないか

と、そのように思った事もあったらしい。

 まさかそんな馬鹿な事を、とは思うが、あの父であればありえないとも言えない。

 しかし、ま、おそらくは単なる偶然だろう。

 

 こうして父は大学まで無難に入ったものの、下手なくせに調子に乗ってバイクを乗り回し、バイトも人

から見て呆れるくらいにこなしていたせいか、真夜中のバイト帰りにスピードを出してだろう、大きな事

故にあってしまい。不幸にも身体が少し不自由になってしまった。

 これではやってられないと、思い切りの良い父は大学を諦め。取り合えず療養を兼ねて、田舎へと戻っ

たそうだ。

 私からしても残念でならないと思うのだが、どうも本人はけろりとしていたようである。

 生まれ付きそういう悲観とかいうものを、何処かへ置き忘れていたのかも知れない。むしろ人生の一般

的な進むべき道とかいうやつから抜け出せてせいせいした、とか言っていたのを、父の友人で聞いた人が

いたそうだ。

 変な人だが頼まれると断れない所があり、何だかんだ言いながら面倒みたりもした為、人望も無くはな

かったらしい。それに類は友を呼ぶという諺もある。 

 帰省した友達と遊んだり、それなりにリハビリをこなし。風邪などひきつつ、しかし大病にはかからず

に、まあ健康に過ごした。


 その後ある程度具合が良くなり、気分も良くなってきた所で。田舎よりも過ごしやすく、父の好みにあ

った場所へと引っ越す事にしたらしい。

 そこが今の私の住所であり、父が望んで息を引き取った場所でもある。

 詳しくは述べないが、瀬戸内沿岸の温暖で大雪が無く、交通もそこそこ発達しており、けれども都会過

ぎず自然のまだ豊かに残る場所、とだけ言っておこう。どっちつかずというべきか、欲しい物両取りとい

うべきか、そういうのが父の好みに合ったらしい。

 田舎が大雪でしかも夏は蒸し暑い場所であったから、相当嫌気がさしていたのだろう。あんなところに

住んだうちの先祖は阿呆だと、父は田舎に帰る度に洩らしていた。

 とにもかくにも、温度差が少なく過ごしやすい場所を選んだようである。

 だが私としては、父の入った大学が、我が家とそう離れていない場所にあった事も付け加えておきたい。

 父はもう一度そこに住みたかったのだろうと思う。父もやはり人間、さっぱりはしていても、腑に落ち

なく思う心があったに違いない。多分、そこで何かをしたい、或いは何かを残したかったのだ。

 父が実際はどのようにして新しい住居で過ごしていたのかは、まだ私の生まれる前であったから解らな

いが。確か三十になったくらいだったと聞いたと思う。何処からかいきなり実家へ母を連れてきて、何の

前触れも無く結婚すると報告だけをし、後は内輪だけで小さな結婚式を挙げたそうだ。

 それもまた父の好みであり、父の言葉を借りれば、大仰しくて小うるさい結婚式や披露宴、などは嫌い

だったそうである。生来面倒くさがりで、必要以上の事を好まなかった父にはまったく相応しい結婚式だ

ったのだろう。

 母はどう思ったかは知らないが、それでも父に言われて納得をし。小さいのは小さいので良かったと私

や妹に良く言っていたから、母は母で満足しているのだと思う。

 そういえば、私達兄弟が結婚する前は、そういう小さな式をすれば良いとしきりに勧めていた。

 父は我侭で自分勝手なところも多く宿していたように思うが。母を無視したり、家族の意見をまったく

聞かないという事は無く。父は父なりに我々に敬意というべきか優しさというべきか、そういうものを人

が見ても解るくらいには示してくれていた。

 父が本当はどう思っていたのか、本当に家族想いであったのか、は未だに良く解らないが、少なくとも

大事にはしてくれていたように思う。

 

 結婚した後も何が変わる事は無く。父は父として暮らし。そのうち私が産まれ、妹も二人産まれた。

 犬を飼い、その犬が悲しくも亡くなった後は、猫を飼った。

 梟や馬、羊やパンダ、はたまた狸や鷹など、色々飼う野望はあったらしいが。結局は面倒そうで無難な

動物にしたらしい。意気地がないというべきか、堅実と言うべきか、そういう部分も父は持っていた。

 今思い出しても。父はたまに家庭菜園をし、飽きれば釣りに行き、それも飽きればゲームなどをし、本

を読み、音楽を聴き、テレビを見ながら腹を抱えて笑い、常の人と同じように過ごしていたように思う。

 昔からおかしな人だとは思っていたが、私生活ではそれほど突飛な事をする人ではなかった。

 だが解らない所は多かった。我が父でありながら、私にとって一番謎な人物だったのである。

 驚かれるかも知れないが。父が亡くなるまで、父の仕事を家族も誰も知らなかった。

 私も子供ながらに不思議に思い、一度父に聴いてみた事があったのだが。父は昔事故にあった時にもら

った保険金を使っているのだとだけを言い、それで私も何故かそういうものなのかと納得していた。

 妙な事でも何故か納得させてしまう、妙な説得力を父は持っていたのである。

 それに実際、結構な額を父は貰っていた。その額が事故の酷さを物語っている。

 しかしその保険金は住居土地などを買う際に使われただろう、幾許かの金額の他はまったく手が付けら

れておらず。そのほとんどが遺産として私達に残されていたのだ。

 昔から不思議に思っていた私は尚更不思議に思い。色々話を聞き、葬式に来ていただいた方々の職業な

どを見るに及んで、ようやく知る事が出来た。

 父は物書きであったのだ。

 しかしそれを知られるのが恥ずかしかったらしく、誰にも何も言わず、こっそりと何十年も密かに執筆

していたようなのだ。真に父らしいと言えば父らしいのだが、よくもまあ私達家族に知られる事無く、今

の今まで来れたものである。

 父が懇意にしていただいていた出版社の方はそれを聞いて、

「なんともはや」

 と呆れられた。

 確かに何十年も知らずに一緒に生活してきた、私達も私達だと思う。

 しかしそうさせる何かが、父にはあったのだとだけは言わせていただく。

 このように最後まで謎の多かった人で、母だけが辛うじて一部分を理解出来ていたようなおかしな人物

であるが。その子供として此処は一つ、父のおかしな人生を少しばかり思い出し、ここに語らせていただ

きたいと思う。

 私は父を想い出す度、人間より面白く、また人間よりおかしな存在は居ないと思う次第である。

 そしてこれを御覧になった方の心に、少しでも父の姿を残す事が出来たのなら、息子としてこの上ない

幸せであり。何より父に対しての何にも変え難い供養になると思う。

 よろしければ、暫しお付き合い願いたい。




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