2.

 私が思い出せる中で一番若い父は、私が小学生くらいの頃の記憶である。まださほど禿げてもおらず、

それなりに筋力もあり、若さと傲慢さを併せ持ち、晩年から思えば確かに自信が満ち溢れていた。

 しかしそこから語るのは割愛しすぎであると思えるので、まず私が生れた頃の事から、私が見聞きした

事を参考にして、覚えている限りの事を記させていただく事にしよう。

 そこで私を基準にするようで申し訳無いが、ここは一つ子育て想記と云う事で、初めての子、つまり私

が生れた時より語らせていただく事にする。

 何せ私が一番解るのは、私の記憶だけなのだから。

 私はある晴れた日、春の青々とした空と、暖かみのある風が吹く爽やかな時期に、近所の総合病院にて

誕生したそうだ。

 早くも遅くもなく、予定通りであり、これに父も大変満足したそうだが。少し面白みにも欠けたのだと、

前に話していたのを覚えている。

 ちなみに父は一週間くらい早めの早産で、その上一度流産しかけたという、生れる前から命懸けの危機

を与えられた、幸だか不幸だか解らない人であった。

 父は普通は死ぬような所でも、運良く生き残る事が多い人であり。逆に言えば、そういう危機が人より

も少しだけ多かった人だったが。その奇妙な人生、悪運に付きまとわれるかのような人生は、生れる前か

ら暗示されていた訳である。

 笑えない話なのだけれども、父はよく笑い話にしていた。

 父に比べれば、確かに私は面白みのない産まれ方をしている。けれども出産に面白みなど求められても

たまらないので、そこは悲観してもらいたくはないと思う。

 まあ父も冗談で言っただけで、本心から私の無事な誕生を喜んでくれていたようではある。

 父は産まれた私をまずまじまじと見つめ、次いで触り、次いで突き、その上ぱちぱちと軽くであるが私

を叩き始めた。当然私は泣き出し、もぞもぞと暴れ始める。

 看護士さんは吃驚したらしい。それはそうだろう。そしていきなり子供に何をするのかと、父はこっぴ

どく注意を受けたそうである。

 しかし父はけろりとしたもので。

「忍者は生れた瞬間から、訓練を受けたそうなのです」

 などと述べ、大人しく引き下がりはしたものの、その表情はいかにも残念らしかったそうだ。

 一体父は私をどうしたかったのか。何故忍者の訓練が必要なのか。正気なのか、そんな馬鹿なと笑い飛

ばしたい所であるが、これがもう笑えない冗談なのだから、救いようが無い。父は変な人だったが、至極

真面目な所もあり、真面目にそう言ったのならば、おそらくそういうつもりだったのだろう。

 父は不真面目に真面目なのだ。

 とにもかくにも、止めてくれた看護士さんに感謝したい。

 このご時世に忍者教育なんかされようものなら、それはもうとんでもない人生にされてしまう。

 今頃F〇IとかKG〇とか、その手の情報機関に就職するか、スカウトでもされていたかもしれない。もし

そんな者にでもなれば、落ち着いて生活が出来ず、日々情報がどうのこうのと頭を悩まされながら、ああ

だこうだと責任の重い人生を送っていただろう。

 それはそれで楽しい面もあるだろうが、基本的になりたいとは思わない。私も父と同じで、人がどうし

ようと面白がるだけだが、自分の人生にはあまりスリルとかサスペンスとかいうモノを求めていない。

 私が諜報員にでもなれば、父は喜ぶかもしれないが、母や他の家族達がどう思うだろう・・・・・・、

ああ、もしかしたら、同じく面白がったかもしれない。やはり変人の家族は皆どこか変なのだ。変に慣れ

てしまっていると言ってもいい。私も自覚している分、不幸である。

 まあそれはそれとして、私の人生は産まれた瞬間から父の洗礼を受け、平穏無事に産まれはしたものの、

その後の平穏とは少し違う日常を暗示された訳で。蛙の子は蛙であると、そう言いたい次第です。

 一度注意されたくらいで諦める父であれば、苦労はなく。非常識という事は、常識的でないから非常識

な訳で。父は病院を訪れる度に、ぱちぱちと私を軽くはたき、指で突いていたそうである。

 母はそれを見て、何だか可哀相な気もしたけれど、これも立派な忍者になる為であれば、これは仕方の

無い事だ。人生には耐えなければならない事も多い。これはその一つに違いないと、必死に心の声援を送

りながら、私を見守ってくれていたそうだ。

 父も父なら母も母と、最近はそう思い始めている。そもそも父と結婚出来ている時点で、母も結局はそ

う云う事なのだろう。そして両親共々立派にそうであるからには、私もそう云う事なのだ。

 少し哀しくなる時もあるが、多分これが人生の悲哀という奴なのだろう。読んで下さる方に、同情して

いただければ、幸いです。

 父に寄れば、こうする事で反応速度が鍛えられ、敏捷性が増し、脳も活性化するとかしないとか。

 確かに人間は子供の頃が物覚えが一番良く、鍛えるのは早ければ早い方が良いらしい。オリンピックで

メダルを取るような人には、小さい頃からそういう英才教育を受けた人が多いそうだ。と言うよりも、き

っとメダルを取るべく育てられるのだろう。

 音楽の世界などでも、モーツァルトとかは子供の頃から作曲をしていたそうで。今に残る曲の中にも、

若い時に作った曲も多いとか。

 今と比べれば平均寿命も短く、それくらいでなければ、あまりにも時間が足りなかったのかもしれない。

 それに歳をとれば良い物が出来るとは限らず、若いからこそ出来る曲というのもあるのだろう。だから

彼らは一生を音楽に捧げる事で、自らの人生を一連の曲として表現したかったのか。

 大成し、歴史に残るような人物には、様々な要因があって、成るべくしてそういう人物になったと云う

事だろう。

 だがここで考えていただきたいのは、誰が並でない経歴などを私に求めたのか。

 父はあまり何をかどうしようという心がない人だった。好奇心は強いが、興味は薄い。子供に夢を託す

とかいうタイプではなく。子供は子供でやれば良いという考えだった。母が思っていたように、本気で私

を忍者にしたいのではなかった。

 ならば父は何がしたかったのか。そう、単に昔読んだ本に書いてあった、忍者の育て方、それが本当か

どうか実践したかっただけなのである。

 まったくもって、困った人なのだ。父のやる事に、人が思うように深い意味がある事は少ない。気まま

な所も多い人だったのである。

 隣人にとって不幸な事に、父はたまに深い興味を示すと、もう他の事が考えられなくなるようなのだ。

悪気は無いが、周囲を否応無く巻き込んでしまう。その事で私がえらい目に遭う事もしばしばで、真に迷

惑した。それでも憎めないから、性質が悪い。まったくもって困った人だったという想いが、父を思うと

いつも浮んでくる。

 順番を無視して一気に飛んでしまうが、今ふと思い出したので、一例として書かせていただきたい。

 まあ、こんな程度はざらにありました。



 あれは私が中学生くらいの事だったろうか。父はふと思い出したように磯釣りに行く事があり、その度

に私も駆り出され、朝早くから出かけたもので、その時もその内の一つであったと思う。

 父は自分でする事の好きな人で、自ら魚を獲るという事に、何かしらの満足を覚えていたのかもしれず。

或いは私にスーパーに並ぶ切り身の魚や、テレビや図鑑などで見る魚ではなく、こう生の生命というもの

を感じさせたかったのかもしれない。

 父は殺生戒のような考えを持ち合わせていた訳ではなく、これも自然の掟なのだと割り切っているよう

な人だったが。命の大切さだけは持ち、いや大切なのだと自分に言い聞かせている風だった。

 父はいつも言っていた。それが本当かどうかなどは問題ではない。人はいつも自ら行なった事が問題な

のだ。善悪だとか、その時の状況とか感情は問題ではなく、何をやったかだけが残り、語り継がれ、そう

いう人だったと云われるものなのだと。

 何か災害があって、義援金などが募られれば、人知れず積極的に参加していたようである。それも父流

哲学の一環だったのだろう。父が本質的に優しい人間だったのかどうかは、私も良く解らないが。少なく

ともそうあろうと努力し、実際私から見て、色々あったが優しさもある父親だったと思う。

 だからこそ何をされても、何があっても、憎めなかったのかもしれない。父は悪戯心は旺盛だったが、

悪意は無く。何かあっても、自分が悪いと思えば素直に謝っていた。

 人から憎まれない為には、難しい事が必要なのではない。きっとそう言う事だけでいいのだろう。

 前置きが長くなった。

 とにかく私達は父の運転で磯へ出かけたのだが、その日は随分波が高かった。

 こう見るからにうねっていて、海面の高低差がはっきりと解るのである。波が引けばぐっと下がり、波

が来れば面白いくらいに盛り上がる。

 しかも私達が釣り場としたのは、テトラポットというのか、あの海岸によくあるコンクリートで作られ

た人工の堤防のような物の上で、まことにバランスが悪く、ちょっと前に行けば海に落ちてしまうという

場所だった。

 それでも若かったのだろう。怖くも何とも無く、むしろ面白く思えた。

 波がうねっているのが解る事に、小さな感動を覚えていたのかもしれない。海は良く見ていたが、その

日くらいの高波は、初めて見たのだったと思う。

 父の方はといえば、いつものように何も言わない。怖さはあったと思うし、不安もあったかもしれない

が、今更他へ行くのが面倒だったのだろう。

 面倒くささが何よりも優先する父である。わざわざやって来たのに、今更場所変えなんかしたくなかっ

たろうし、例え変えても高波は変わらない。どちらにしても同じだと、開き直っていたのだと思う。

 私達は撒き餌をし、クーラーボックスを挟んで座り、のんびり釣り糸を垂らし始めた。

 日は暖かで、のんびりしたものだった。

 海がすぐそこにあるので、遠くへ投げる必要も無い。狙っていたのはチヌ。この魚はあまり陸から離れ

ず、影が多くある地形や、隠れ場所が多い地形に良く棲む。正式な名前はクロダイだったか。同じ魚でも

色々呼び方があるので、私はどれが一般的なのか、よく解らない。

 餌はエビ、父はいつもエビを餌に使っていた。私が友達と釣りに行く時は、いつもゴカイというムカデ

の親戚みたいなのを使っていたが、やっぱり違うのだろうか。恥ずかしい話だが、釣りに行く癖に、私に

はあまり知識が無い。

 そういえば父もそんなに知識は無かったような気がする。父は友達や祖父の真似をしているだけだと、

そんな事を言っていたような・・・。

 まあ、それでも釣れるのだから、何でも良かったのだろう。そういう細かい事よりも、海を見ながらの

んびり釣り糸を垂らす事が大事なのだ。

 じっと待っていても、大半は餌を雑魚に食われるだけで、滅多に大物はかからない。釣りに来ていると

いっても、九割方ぼーっと座っているだけなのだ。一種の日光浴、自然浴と考えた方がしっくりくる。

 私もその時、釣りよりもうねる波の方が面白く。やれ足下のどこまで届いただの、もう少しで靴にかか

る所だっただの、そういう事ばかり楽しんでいたように思う。

 波が高くなればなるほど面白く。多分、いつ来るか来るかというスリルみたいなものを、私は楽しんで

いたのだと思う。焦っても魚がかかる訳ではなし、それはそれで釣りの楽しみ方だ。

 勿論私達が座っている高さまで、波が襲うとは思わない。だからこそ安心で、安全な中のスリルだから

こそ、楽しめるのだろう。

 しかし波は収まるどころか益々勢いを増し。まるで海面を巨人が揺らしてでもいるかのように、高く低

くうねってきた。

 私は正直怖くなっていたが。その頃から少しずつ当たりがきだし、そのうち波よりも浮きの動きに気を

とられ、いつの間にかそういう心配も忘れてしまっていた。

 そうして釣りに熱中し、大きく竿が引いた、その直後だったと思う。当然海鳴りが酷く大きくなって、

ふとそちらに目をやると、私のすぐ前に波壁が在った。

 あれ、何だろう、これは何だろう。頭が呆けたように働かなくなったのを覚えている。その時、現実味

はまったくなかった。

 私の記憶には真っ白な壁と、海底まで見えそうなくらい、えぐれた海面だけが残っている。後はどうな

ったか思い出せない。

 気付いた時は全身がびしょびしょで、頭は叩かれたようにぐらぐらしていた。潮の臭いがぬっと立ち上

がり、軽くむせたかもしれない。手にあったはずの竿は無く、べとべとして気持悪く、何が何だか解らな

いまま、とにかく父の方を見た。

 父もびっしょりだったが、まるで微動だにしておらず、浮きだけを熱心に眺め、無意識だろうか、目に

かかる海水をうるさそうに首にかけたタオルで拭いている。

 いつもと変わらない。むしろいつも以上に集中している。

 それでも私が見ているのに気付いたのだろう。父は暫く不思議そうに見返していたが、ある事に気付い

たらしく、黙って魚を掬う為の網を差し出し、浮んでいる私の釣竿を指差して。

「引いてる、引いてるぞ」

 などと言った。

 私は操られるように網を受け取り、如意棒のような手持ち部分を延ばして竿を掬い、それから改めてリ

ールを巻いた。幸いというのか、まだ魚は逃げていなかったのだ。その時何を釣ったのかは忘れたが、チ

ヌではなく、小さな魚だったと思う。

 父はそれからも無言で釣り続け、見事大物を一匹釣り上げた。大物と格闘した父は心地よい疲れと満足

心に満ち、すがすがしい笑顔であった。幸い天候が良かったせいか、その頃には服も乾いていたのである。

 確かにああいう時は慌てると危ない。一歩間違えれば、波に海へ引き込まれていた可能性もある。それ

なのに父はその後も波がどうだとか、危なかったとか、言うではなく。釣れた事への満足しか、私に見せ

ようとはしなかった。

 帰りの車でも、

「今日はよく汗かいたな」

 などと言っていたのを覚えている。

 それでも二度とあの場所へ釣りに行く事が無かった事を思うと、父は私を変に怖がらせたくなかったの

かもしれない。ああいう時こそ落ち着くのだと、身をもって教えてくれたのかもしれない。

 今になって考えてみると、そんな風に思う。

 ああ、何だか主旨から外れ、外れた主旨からもまた外れたような気がするが。折角思い出したのだから、

残しておく事にしよう。父を語るのだから、横道どころか逆走迷走するのも当たり前である。




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