6.

 父は口うるさい親ではなかったと言ったが。勿論、何も言わなかった訳ではない。よっぽど酷いと思った時や、

お前それは言ってる事とやっている事が違うだろう、というような時は呆れたように口を出した。

 物分りが良いというのは、放り出すという意味ではない。子供を一人前の人間として扱い話し合うという意味

である。

 父はそういう面でいつも祖父に不満を抱いていた。祖父は大体の場合父の話を聞かず。例え耳に入れたとして

も全く意味を解しなかった。

 祖父と父が話し合う時、それは互いに独り言をいうに等しい格好だったようである。

 二人は親子だから当然そっくりなのだが、そっくりなくせに全く違う人間であった。

 祖父は人の情を尊び、いつも誰かと繋がっていたがった。家族愛や友情というものをドラマチックに捉えてい

たのだと思う。だから現実の生活にそういう華やかさがない事に不服で、親子関係くらいはドラマ仕立てにした

かったのかもしれない。

 基本的に優しい人だったが、非常に頑固であり、一々の事に拗ねたりもし、感情豊かではあるが大人として見

ると正直もう少し考えた方が良いのではないかと思う所もある人だった。

 父の方は逆に合理的というか、涙とか友情とかそういうものを前面に出す事を嫌がった。人前で泣くなんてみ

っともない真似ができるか、と思っていた辺り、もしかしたら父の方が当時においても前時代的な人だったのか

もしれない。当然親子関係についても祖父のようには考えていなかった。

 ただし、父にも情けない部分は多々あり、自分が祖父に似ている事は否定しなかった。そして祖父を反面教師

としていたような気がする。自分にそっくりであればこそ、良くも悪くも父親というのは理想の教師といえるの

かもしれない。

 父はさめた所もある人で、はたから見て恐いと思う事はしばしばあった。必要とあれば色んなものを、例え後

で後悔したりぐだぐだと思い返したりする事はあっても、ばっさり切れる人だったのは確かで。多分自分に弱い

所がある事を解っていたから、ばっさり切っていたのだと思う。

 甘えや逃げ場を少しでも減らし、自分の弱さに真っ向から勝負を挑んでいた。

 子供とも勿論真っ向勝負である。だから父は人に恐がられる事が多かったのだろう。私自身も勿論誰よりも恐

かった。

 それでもおかしなとこで真面目な人で、自分との約束はどうにかして守ろうと考える人だったから、たまに八

つ当たりする事はあっても、口は出さずしっかり見守るという姿勢を貫こうと必死に努力していた。

 その姿は子供である私からでも滑稽(こっけい)に思えるほどで、父という人間は本当に頑固で負けん気の強

い人間であったのだろうと思う。

 そんな父がうるさく口を出してきたのは進路や受験に関してでも、女性問題や私の子供に対する事でもなく、

私がやるべき事をしなかった時である。

 簡単に言えば躾(しつけ)。

 友人の家に泊まったのにちゃんと知らせなかった。約束を破った。無用の言い訳をした(まあ言い訳というも

のは大体余計なものだが)。失礼な態度をとった。そんな事である。

 この辺は共通するものであるし、一々並べなくとも解ると思う。まだ親になっていない方なら親に言われた事

を思い出せばいいし、親になっている方ならご自分が子供に対して言っている事を思い出されればいい。

 父も多分似たような事を祖父から言われ、いつもわずらわしく思っていたはず。それなのに何故父は同じ事を

私に言ったのだろう。

 親は誰でも子供を経験しているのだから、子供の気持ちは理解できる。特に父は祖父のようにはなりたくなか

った。その上頑固ときてる。親になる事で子供の頃の自分が抱いていた親に対する不満を忘れた訳ではなかった

だろう。それなのに何故同じ事を言ったのか。

 もっと勉強しろだの偉くなれだのそういう事は言わなかったのに、何故こういう事は言ったのか。やはり私を

信頼していなかったという事か。目の届く所に置いておかなければ不安だったという事なのだろうか。

 解らないが、当時の私も子供心に父らしくないと思っていた。

 だから私はある時我慢できなくなって、直接尋ねてみた事がある。

 すると父はこう言った。

 確かに子供の時の記憶を忘れた訳ではない。だからお前には同じような不満を与える事はしたくないと思って

いる。本当なら好きにさせたいし、何一つ縛り付けたくはない。頭ごなしに叱りたくもないし、えらそうに説教

などしたくもない。

 そもそも私自身からして基本的な事がきちんとできていない。だから子供に知った風な事を言う資格は無いと

思っている。

 でも私は親だ。責任がある。言わなければならない事は言わなければならない。

 確かに私が口うるさく言うような事は、例えばそれで誰かの命が失われたりとか、お前の将来が大きく変わる

ような事は多分無いだろう。一つ一つは小さな事で、それだけで何かが大きく変わるような事はないと私も思う。保証できる。

 しかし人間というものはそういう日々の小さな行いの結果として出来上がるもので、その都度きちんと戻して

おかなければ一歩ずつの間違いが重なって、気づいた時にはとんでもない所へ踏み入ったりしてしまっているも

のだ。

 大きな間違いも小さな間違いから起こる。勘違いしている人も多いが、初めから大きな問題であるものなどこ

の世には存在しない。

 親は子供を経験し終えているからそういう事が解る。問題はいつも小さな内に片付けておかなければならない。

 その為に必要な事を教え、実行するのが親の務め。子供に決定権を与えるのは大事だが、守るべき事は守らせ

なければならない。放任主義もまた親の身勝手な考え方だ。

 ありがた迷惑、余計なお世話と思われても、親はそうしなければならないんだ。私としても面倒だけども、子

供を授かった責任がある。

 まあ、難しく考えず思い出してみろ。お前や私が腹を立てる理由はいつもほんのささいな事であるはずだ。

 大きな事ができなくても誰も怒らない。小さな事で人は怒る。

 学校の勉強についても同様だ。テストで一番になれなくても怒りはしない。それは難しい事だし、一番かどう

かなんて怒る事ではないからだ。停学になるような事でもしでかさなければ学校において怒るような事はほとん

ど無い。

 そりゃあ、お前がテストで一番を取ると宣言しながら全く勉強をしないようなら怒るが。それは勉強とはまた

違う部分での問題だ。落第でもしなければ文句は言わない。

 世間の親が勉強しろばかり言うのは、多分他にかける言葉を知らないからだろう。そして心配だからだ。確か

に勉強なんて実生活ではほとんど役には立たないが、人から尊敬される理由にはなる。馬鹿にされない程度には

できた方が楽に生きられる事は間違いない。

 でもそれだけだ。別にできないからと言って全否定されるような事ではないと思う。

 馬鹿にはされるかもしれないが、怒られはしない。本当に怒るのは、あいさつができないとか、約束を破ると

か、嘘をつくとか、待ち合わせに遅れるとか、そういう日常に即したささいな事なんだ。

 そしてそれは当然だ。破った方の言い分は、その程度の事で怒るなよ、となるのだろうが。それは逆だ。人は

その程度の事もしないからこそ怒っている。誰でもできるような事を自分に対してしてくれない、しようともし

ない、そこに腹を立てている。

 人が人を嫌い憎む理由が、他人から見ればどうでも良い事なのも当たり前だ。そんなどうでもいい小さな事だ

からこそ怒っているのだから。

 だから私はお前に言う。何故誰にでもできるし、お前にもできるような事を、ただ面倒くさいだの恥ずかしい

だのいうしょうもない理由だけでしないのかと。それをするかしないかによって、お前に対する人の態度が全く

違ってくるのに、何故もっと考えられないのかと。

 私は口うるさい親が大嫌いだ。特にお前の為に言っているんだ、というような恩着せがましい言葉は最も嫌い

だし、そんな事を言う奴はぶん殴ってやりたいと常々思っている。

 そんな私でも教えなければならない事は教えなければならない。それがほんのささいな事でしかないからこそ、

ちゃんと教えなければならない。人に大きく作用するような事は、ほぼ全てが小さな事から始まるのだと言う事を。

 それに親が何もしてくれなかったと一生子供に思われるより、口うるさい親だと思われていた方が、その親子

にとっても幸せではないか。

 珍しく饒舌(じょうぜつ)な父にも驚いたが、言う言葉にはそれ以上の力があった。

 だからきっとそれは正しいのだろう。この父の言い方が良いかどうかは知らないし、私もまた半分くらいぼん

やりとしか覚えていなかったから全部正確に書けているとは思えないが。そんなうろ覚えの中でも、確かにこの

言い分は合っているような気がする。

 こうしてはっきり書いてみて気恥ずかしくなるのも、それを証明しているのかもしれない。

 父も今頃あの世で心底恥ずかしがっているに違いない。

 しかしそれもまた親孝行である。

 そんな風に思っている。



 気恥ずかしいで思い出したが。父が無口なのも、しゃべるとあごが疲れるんだ、などと訳の解らない事を理由

としていたのではなく。本当は自分の意見を説明するという事に、物凄い気恥ずかしさを覚えていたからではな

かろうか。

 お笑いで例えるなら、自分のボケを自分で説明する気恥ずかしさ。

 ちょっと違うような気もするが、我々がよく言われるシャイで自分の意見をはっきり言えないという事の裏に

はそういう感情があるからではないかとも思う。

 自分の言葉を人が真摯に聞いてくれれば聞いてくれる程、何を自分は言っているのだろう、何故この人は自分

のどうでもいいような話をこうも真剣に聞いてくれているのか。ああもう止めてくれ、そんな真剣に聞かれたら

引っ込みが付かないじゃないか。最後まで話すしかなくなってしまうじゃないか。

 そんな風になってしまう。

 人は自分の意見がそれほど重要では無い事を、本質的に理解している。誰に言おうと言うまいと世界に対して

何らの影響力を持たない。

 そもそも自分の意見というものでさえ、他人からの借り物であったりする。自分で考えた訳ではなく、人が良

さそうな事を言っているから拝借したり、それだけだとなんだからちょっと変えたりする。でも人の意見という

ものが、その人独りのものである事はまずありえない事だ。

 世の中に溢れているものから自分の好みに応じて選び出したものでしかなく。赤色が好き。肉より魚が好き。

誰それよりもあの人が好き。そういうようなものと違わない。

 だからこそ既成事実を作ってしまおうと、自分の意見として必死に他人に発信しようとするのかもしれない。

 しかし自分の考えというようなものは、元々人に伝えるような事ではないような気がする。

 自分の意見や考え方を持ち、練磨していく事は重要な事だが。誰かと共有してその誰かに何かお得な事がある

訳ではない。むしろ主張する事で誰かと必ず衝突するような厄介なものである。

 特に私の世代も父の世代も幼き頃から無用の衝突をするな、人と一々つまらない事で争うな面倒くさい。と教

えられ成長してきた。

 だとすれば、自分を主張する事がどうしても気恥ずかしく思えるのは当然であり、ある種仕方のない事だと思う。

 一々の事を主張して、衝突し、どちらが優位かをはっきりさせる。それが正しいかどうかではなく、ただ自分

の意見を主張し、通す事が大事だという社会。それはそれで面白いだろうが、そう変わりつつある社会を見て、

父はきっとうんざりしていただろう。

 私も当然うんざりしている。

 だが平和だなとも思う。拳を揮って喧嘩をするのではなく、無様でも口喧嘩で済むのなら、それはそれで良い

事だろう。

 主張に慣れ、口喧嘩するのが当然になれば、負けたからと言って一々戦争になるような事も減るかもしれない

し、悪い事ばかりではないのかもしれない。

 自己主張がそれを意図して創られたものであるならば、歓迎したいとも思う。

 ちょっと世の中がうるさく、騒がしくなるだろうけれど。きっとそれはそれで善い事なのだ。自分の好みと違

うからと言って、否定する理由にはならない。父はそう言っていたし、私も同意する。

 よく解らなくなってきたが、時代が変化するのは当然の事で、悪い事でもないと、まあそういう事だ。

 そういう事にしておこう。

 ただ主張も過ぎれば迷惑にしかならない。父は自分の好みでしかない事をさも重要な事であるかのように言葉

にする者を酷く嫌っていた。解りやすくイライラしていたのを思い出す。

 例えるなら評論家か。その全てがそうだとは言わないが、テレビにこの手のおかしな人種が出た時、父は即座

にチャンネルを変えたり、テレビ自体を切ったりしていた。

 私が覚えている最古の記憶は小学生の頃くらいのものだが。多分、私が生まれる前からずっとそんな感じだっ

たのだろうと思う。

 母はそんな父に慣れっこになっていたのか、呆れたように見ているだけだったのだが。私の方は子供心にいつ

も不思議に思っていた。

 そして聞いてみた事がある。それが正しい事なんじゃないの。そういう事なんじゃないの、と。

 そんな時、父は何一つ答えなかった。無言で自分の部屋に戻り、しばらくの間出てこなかった。

 母はそんな父を見て笑っていたが、私はどうしていいのか解らず途方に暮れていた。

 何故父は黙って自室にこもったのか。

 それは多分、私に言った所で解らなかったからだろう。私が子供という事もあるが、それよりも私にしっかり

と植えつけられつつある身勝手な誰かの価値観に絶望したのだ。

 それは大衆的価値観と言い換えてもいいのかもしれない。

 このブランドはいいものだから、どんなに高くてもおかしくない。いや、高くあるべきだ。

 この表現は文章的に間違っている。大衆受けを狙っただけの恥ずべき文章である。

 誰かがこうだと決めたのだから、それに従わなければならない。例えおかしいと思っていても喜んで従わなけ

ればならない。昔からそうだと決まっているのだから、そこに疑問を挟んではならない。

 もし反対でもしようものなら、これまで良いとされてきたものを、また一から決め直さなければならなくなる。

それはとても面倒くさいし、今更変えられると今までそれに従っていた人達が馬鹿を見る事になる。

 お前はそれに対して責任が持てるのか、そんなとんでもない事をしていいと思っているのか。という重みが誰

の方にも乗っている。そして我々は仕方がないから、うんざりしつつも黙っている。

 父もまたそういうのものを子供の頃から植え付けられて育ったものだから、ああお前もか、世の中はまだそん

な事をやっているのか、とがっかりしたのだろう。

 しかし父もそういう決め事の全てに反対していた訳ではない。

 むしろ賛同する部分もあった。

 確かに価値観を一方的に押し付けられる事は腹立たしく、納得いかない事だ。人は誰しも自分の良いものを良

いと言いたいし。嫌なものは嫌と言いたい。

 だけど一定の基準が無ければ、判断する事がとても難しくなる。価値というものは全て人が決めるものだから

こそ、一定の判断基準がなければどうにもならなくなる。

 それは美術品などが一番はっきりしているだろう。いわゆる芸術というさっぱり解らないものの事である。

 美術品として評価されているものを見ても、我々一般から見れば子供のラクガキにしか思えなかったり、下手

すればゴミのようにしか思えない物が多い。

 そんな物に馬鹿みたいな価値が付けられ、呆れる程高額で取引されているのだから、金持ちの考える事はさっ

ぱり解らない。いや、もしかしたらその金持ちもよく解っていないのかもしれない。

 だがその芸術品ははっきりとした価値があるし、そうでなければならない。芸術とは人が勝手に価値を付ける

もので、だからこそそこに異議を唱えてはいけない。誰かの価値観を尊重しなければ、誰も決められなくなるか

らである。

 これはとても悪い事のように聞こえるが、私も父もそうは思わない。

 そうしなければどうしようもないからだ。

 こうするしかないのなら、誰かが基準を考えなければどうにならないのなら、それはそれで良いと思う。そう

いう言い訳を解っている人達が、解っている人達の中で勝手に盛り上がってくれればいい。それは別に不幸な事

ではない。一つの楽しみである。

 けれど、それを人に押し付けるのは間違っている。

 これはこうなのだから、それ以外の全ては否定しなければならない。こういう考え方は必ず間違っている。

 そう言いたいのである。

 父はこう言っていた。

 価値という判断基準を誰かが決めるのは構わない。例えそれが絶対におかしな事であったとしても、誰かが決

めなければ何が良いのか迷ってしまうし、判断基準がなければ人は本当に不安になってしまうからだ。

 確かに良い大人が誰かの判断の言いなりになるのは恥ずかしい事だと思う。でもそうと言っても、自分一人で

全ての価値を定めるのは無理だし、調子に乗り過ぎている。

 これが善悪とかそういうものなら、人が生まれながらに持っている良心に従えば済む。これはおそらく全ての

生命が生まれつき持っている本当に絶対的なものだ。神様だ。

 でもファッションとか芸術とかそういうものには万人が正しいと思う答えなんか付けられない。そういうのは

個人個人の好みでしかなく、どちらが正しいとか悪いとかそういうものではないからだ。

 私はむしろそういうものを毎年どころか、季節に応じて定めているどこかの誰かに対し、よくそんな面倒な事

をやれてるな、えらいな、と労わってあげたい。

 ただそういう誰かが頑張って決めてくれた価値観を、さも自分が決めたものであるかのように自慢げに恥知ら

ずの顔で話すのが気に食わない。

 自分はお前らと違って物事をちゃんと解っているんだ。私の言う事は全てが正しく、お前らの言う事は全て間

違っている。だから私に従って、一生ひれ伏していればいい。なんて顔をして堂々と人前で話せるような恥知ら

ずをどうしても許せない。

 独りで勝手に自慢しているだけなら文句を言う筋合いはないのかもしれないが。そういう人間は大抵自分の価

値観以外のものを全否定しようとする。下手すれば攻撃して排除しようとさえする。

 多分、本当は自信が無いのだろうな。人の決めた事にしか従えないような人間は、大体自分に自信の持てない

人間で。だから新しい価値観が生まれ、自分の持っていた、大事にしていたものを崩されるのを酷く恐れる。保

守的で、わがままで、独り善がりな人間。

 そういう態度が許せない。他人を尊重できない人間は大嫌いだし、人類の敵だと思っている。

 とはいえ、これは私の考えであって、誰にも強制しない。もしそんな事をすれば自分がその大嫌いな人間と同

じになってしまう。だから私はお前に問われた時、黙って部屋に戻ったんだ。それはお前が自分で判断し、選ぶ

べき事だから。

 小さい子供の頃、親というものは絶対である。影響力は計り知れない。父は私にそういう影響を与える事を恐

れたのだと思う。

 本当の自立とは、自分で学び、選択する事であって。例えそれが正しいとされている事であっても、植え付け

てしまえばその時点で自立心は消えてしまう。

 しつけも同じ。親の価値観を押し付けるのではなく、自分の心から自然に溢れてくるものを解らせる、感じ取

らせる事を教える事なのだと思う。

 子供もしっかり生きている。毎日色んな事を必死に考えている。罪悪感もあるし、反省もする。ただちょっと

抑えが聞かず、素直になれないだけ。誰だって小さな子供の頃にはそんな思い出があると思う。今だって、そう

いう事はあるのだろう。

 私だってそうだ。いい歳になったが、立派な大人になれたなんてお世辞にも言えやしない。八つ当たりもすれ

ばかんしゃくを起こして口汚くののしり、責任を取るのが恐くて嘘をついたり、ごまかしたりもする。本当に子

供の頃と何一つ変わっていない。

 それでも父が子供の頃答えてくれなかった疑問に答えてくれたのは、それなりに成長し、考える力が付いてい

ると認めてくれたという事なのだろう。

 そう思うと少し救われるような気がする。父だけは、私を認めてくれたのだ。



 少し涙が出そうになった。

 やはり親というものはありがたいものだ。生まれながらにして私の絶対的な味方なのだから、とてもありがたい。

 家事や相談相手として母の方により多く世話になっているが、父親の事も忘れてはいけない。少々変わってい

てはいても、厄介な所があったとしても、父が居なければ今の自分はない。絶対に世話になっていない訳が無い

のだ。

 自分一人で生まれ育ってきたように考えていたら、我々はきっとまともな人間にはなれないだろう。親に感謝

できなければ、誰に感謝する事もできないし。人に感謝できない人間などに、優しさや魅力がある訳がない。そ

んな人間がどうして幸せになれるだろう。

 親に感謝できないような人間が、自分の子供に感謝される訳がない。

 そんな風にも思う。

 私が父の事を思い出しながら書いている事も、結局はそうなのかもしれない。父を思い出し、文字に刻む事で

感謝したいと考えているのかもしれない。

 全ては私の目と耳を通して感じ取った事から書いているので、どうしても私の言葉だったり、一方的な見方に

なってしまうのが心苦しいところだが。これからも思い出すまま素直に書いていきたいと思う。

 それが父ではなく、結局は私自身を記す事になったとしても、父は怒るまい。むしろ喜んでくれるだろう。お

前は確かに自分というものを持てた、一人前の人間になれたのだ、と。

 父はきっと、私に自分の言葉を持って欲しかったのだと思うから。




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