5.

 育児で思い出したが、以前に書いたロイヤルゼリーと同じく、父が赤ん坊にどうしても試しておきたい

事がもう一つあった。

 それは赤ん坊の頃に外国の方に喋ってもらう、という事である。

 話に聞くに、赤ん坊は初めから言葉を理解しているのではなく、成長する中で親や周囲の人間の言葉を

覚え、理解していく事で会得しているらしい。誰もが成長すると当たり前のように話すようになるので、

何だか初めから話せる能力を持って生まれているような気がするが、そうではなくて、赤ん坊は赤ん坊な

りに必死に学習しているそうだ。

 それを聞いた父は、それなら日本語の他に英語とかも喋ってもらっていれば、中学に上がってから苦労

する事なく、ぺらぺらと理解できるようになるのではないか、と考えたのである。

 これはロイヤルゼリーの件と違って、そう的から外れた考えではないと思う。実際、赤ん坊とは言わな

くても、子供の頃から英語塾に通わせる親も居るし、アメリカンスクールのような学校に通わせる親も居

る。すると子供は初めは苦労しても、その内当たり前のように話すようになる。

 必要が発明の父であるように、必要は学習の母である。

 そして子供の学習能力は若ければ若いだけ高い、と言われている。何にも余計な知識が入っていない分、

するすると脳に刷り込まれるという事なのだろう。だからやるとなれば、赤ん坊の頃に始めるのが一番良

いという事になる。

 父は多くの日本人と同じく英語が苦手だった。それでも天邪鬼な父は悔しさからどうにかしようと色々

な方法を試した挙句、洋書を読むという方法に落ち着いて、その後趣味の一つとして長らく続けたおかげ

で読む方はそこそこできるようになったものの。聞き取りや英作、喋る事は最後まで苦手であった。

 そんな父だからこそ子供には余計な苦労はさせたくないと考えたのだろう。或いは自分もそうしてもら

っていれば余計な苦労せずに済んだのに、というどうしようもない憤りを晴らす為だったのか。

 まあとにかくそういう訳で、喋ってもらう相手を探した。

 しかし父は根が社交的ではない。そういう場に出れば天邪鬼から誤魔化せるだけの態度を取れるが、基

本的に人見知りというのか億劫がる所があって、人とあまり話す方ではなかった。

 電話すら嫌いだったと思う。電話のベルに一々呼び出されているような気がしてイラッとするそうで、

私の知る限り電話に出た父はいつも不機嫌そうだった。

 そんな父であるから、はいそうですかと見付かる訳が無い。結局私の赤ん坊時代終焉までには間に合わ

ず、下の妹の代でようやく伝手を得た。

 英会話学校に通ったのか、近所の学校を回って直接外国人教師にお願いしたのか、その辺の事はよく解

らない。ともかく誰かが来て、しきりに赤ん坊妹に対して喋りかけていたのを聴いた覚えがある。

 しかし金銭面で厳しかったのか、他に理由があったのか、結局数回来ただけで、それ以後は全く音沙汰

なくなり、父ももう二度とその話を口にする事はなかった。

 父の夢はまたもや崩れたのである。

 こうして我ら兄弟揃って両親と同じように英語習得に苦戦する事になったのだが、そういえば下の妹だ

けは若干発音が良いような気がする。気のせいかもしれないが。



 私が覚えていない、知らないだけで、父は多分他にももっと多くの良いのだか悪いのだか解らない妙な

計画を立て、そしてそれは大抵失敗に終わっていた筈である。

 父は計画を立てるのは好きだが、それを上手く実行するのは苦手だった。

 割合すぐに興味を惹かれるタイプで、なんにでも興味を持ち、こうと思った事は何としても実行する粘

り強さというのか、執着心を持っていたようなのだが。酷く飽きっぽい所もあり、それ以上に面倒くさが

りであり、色んな物に手を出してはすぐに飽きてほったらかす。

 母がその事で父を諭したり、叱ったりしていた場面を見聞きした記憶が何度かある。

 だらしないのかしっかりしているのか良く解らない人だった。

 長く続いたものといえば先の述べた洋書も含む読書全般とゲームくらいだろうか。後はたまに運動をす

るくらいで、興味を持っては飽き、興味を持っては飽きを繰り返していたような気がする。もしかしたら

自分にあうものをずっと探していたのかもしれない。

 父はそのように貪欲で、不思議なくらい一途でもある。

 その証拠に本とゲームに関しては子供から大人、そして年老いて亡くなるまで続け。特に読書の方はつ

いに自分の仕事にまでしてしまっている。そこまでできる人はなかなかいない。

 父が読書に興味を持ったのは小学校高学年に差し掛かった頃、友達に薦められた一冊の本を読んでから

だそうだ。

 その本のタイトルは忘れたが、シャーロックホームズシリーズのどれかである事は確かだ。それを読ん

でからというもの、父は本に酷く興味を示し、興味の湧いた物を手当たり次第に読み始めた。

 南総里見八犬伝、東海道中膝栗毛、ギリシャ神話、北欧神話などが特に気に入ったようで。他にもアル

セーヌルパンや怪人二十面相などの推理小説も好んで読んだ。マンガ日本の歴史、世界の歴史だったか、

そういうものも楽しんで読んでいたようである。

 昼休みには人気のない図書室に入り浸り、他の生徒が興味も持たないような本を興味深そうに読んでい

る。そんな父の姿が目に浮かぶ。その姿はきっと成長してからも変わっていない。

 だがそんな父も子供らしい所があって、純文学、日本神話はあまり受け付けなかったようだ。純文学は

日常的過ぎて物語らしさを感じられず、日本神話は暗いし何だか恐いというのがその理由だとか言ってい

たが。多分本当の理由はそれらが教科書に出ていたから、教科書に出てきそうな話だったから、だったと

私は想像している。

 父は昔から勉強嫌いで、誰かにしろしろと言われる程ますます嫌いになった。そういう天邪鬼な父から

すると、その手の本は決して読むまいと子供心にいつの間にか誓っていたのではないかと思う。

 大人になってからは純文学も日本神話も楽しむようになったようだから、本気で嫌いだった訳ではない

事が解る。後は父が気まぐれだったという事もあるのかもしれない。

 父は好みがうるさく、そしてその好みはころころと変わる。求めているものがその時々で違うので、知

り合いはさぞかし扱い難かったに違いない。

 そういう所はどうも祖母に似たらしい。祖母も悪気はないものの、言っている事がころころ変わり、家

族を混乱させる事がしばしばあったとか。全く同じではないものの、やはり本質的なものは受け継いでい

るのが親子という関係なのかもしれない。

 遺伝というものは恐ろしい。

 という事は私もまたその恐ろしい遺伝子を受け継いでいるのだろうか。

 いやいや、そんな事を考えるのは止そう。

 推理小説びいきだった父は中学生の頃にファンタジー小説と出会う事で一変した。古典から現代文学に

乗り換え、学園物やら戦争物、コメディと幅広く読んだ。特にコメディには興味を持ち、物書きの仕事を

してからは何度か自分でも書いていたそうなのだが、どうにも納得できるものが書けなかったらしく、出

版していないし、原稿も残っていない。

 それから高校から大学に入る辺りで歴史小説に目覚め。特にその中の一人の作者の作品にのめり込み、

ほぼ全ての作品を読破して、それでも読み足りず、手を広げて様々な作者の作品を読んだ。

 歴史小説をある程度気が済むまで読むと、歴史小説と平行して世界の名作にも手を広げ始め、更に古典

趣味が甦ったのか武経七書、論語といった中国古典から、源氏物語などの日本古典、純文学、果ては欧米

からアフリカまで様々な本に手を出していった。

 当然財布は悲鳴をあげたが、読んだ本を売ったりなどして何とかしたらしい。父は同じ本を二度以上読

む事は少ない。一度読んで要点のみを掴むと、後はぽいっと放り投げるような、そんな乱暴な読み手だっ

たと思う。

 腐るほど本はあるのに、一々細部まで覚えていられるか、一番言いたい事が解ればそれで良いんだ。そ

んな気持ちがあったのだろう。父は細かい事でごちゃごちゃ言うのも言われるのも嫌いな人だった。本に

関しても好きな物を好きなように読めばいい、そういう考えだったのである。

 色々読んで気に入ったのが、孫子とイワンのばか、というのであるから、おかしな人だ。

 父は児童文学も好み、平素から、子供に解らないようなものを書いてどうする、いい物に大人も子供も

ない、読めば面白い、それが面白い本だ、と言っていた。今から思えば、それは他者の批判ではなく。そ

ういう本を自分もまた書けていない事を恥じる気持ちがあったのかもしれない。

 はっきりとは言わないし、私も父のいう事を一々気にしてはいなかったのだが。今にして思えば・・・

という事は他にもある。同じ体験をして、同じ事を見聞きしている筈なのに、後で考えてみると新たな発

見があるというのは不思議だ。もしかしたら記憶の方が勝手に改ざんしているのかもしれない。



 さて、こうして忍者修行、ロイヤルゼリー、早期英語習得と三つも失敗した父は流石に懲りたのか、こ

れ以上我々子供に何かをしようとはしなかった。一番上の私がさほど手がかからない年齢になったのもあ

って(勿論、我侭言ったりはこの頃も存分にしていたようだが。兄という意識も生まれ、それなりに考え

るようになっているという意味で)、あまり干渉したくなかったのかもしれない。

 父方の祖父母は景気の良かった時に若い時代を過ごした世代で、そういう世代が親になった時の常とし

て、色々と口うるさい所がある人達だったようなので、それを非常に面倒臭く思っていた父は、私達にあ

まりうるさい事を言いたくなかったのだろう(生来の天邪鬼さから、親と一緒の育て方をしてなるものか、

と決意していた、という可能性もある)。

 色々と注意を受けたし、諭されたりもしたし、一方的に怒られた時もあったが。少なくとも父は私達の

話も聞いてくれた。祖父なんかは人の話など全く聞かず、結局いつも自分の事ばかりで、自分の理屈だけ

を押し付けるような人であった事を思えば、私は随分幸運であったのかもしれない。

 或いは父の世代はそういう世代だったのだろうか。祖父母という前世代への反動、反抗として、自然の

流れでそうなったのかもしれない。

 しかし父の世代の親の中には、今までに見た事も聞いた事もない程に過保護で親の分を越えて口を出す

ような人が少なくなく居た事を思えば、やはり父は特殊というのか、もっと簡単に言って、おかしな人だ

ったのかもしれない。

 幸いな事に母はそんな父に理解を示し、それなりに父の考えを受け容れてくれていたようだが、もし母

がそういう人でなければ、年中大喧嘩をしていたかもしれない。

 離婚が多いのも父の世代の特徴である。結婚というものを余り重く考えなくなったのも、この頃からだ

とか。そういう意味でも母には感謝しなければならない。

 子供の教育方針の相違。それもまた夫婦間のいざこざの大きな原因の一つである。そういういざこざの

理由というものは、古今変わりないようだ。夫婦であれ、友人であれ、家族であれ、人と人の関係は、常

にどちらかが、或いは誰かが我慢しなければ成り立たず。誰も我慢しないという事が、即ち争いを生むと

いう事なのかもしれない。

 両親を思い出すと、色々と考えさせられる事がある。やはり色んな意味で、一番の教師は両親という事

か。一番身近な存在、結局はそれに一番大きな影響を受ける。例えそれがどんなに希薄な関係だったとし

ても、子は親の影響を受け、親は子の影響を受ける。どんなに嫌っても、否定しても、そこから逃れる事

はできない。

 だからこそ親子の絆は濃いのだ。不本意ながら。

 そのせいなのかどうか知らないが、私が自分の家庭を持ち、子を授かった時、一時期父と同じ事をした

いと本気で思ってしまった事がある。

 何故かは解らない。私もまた父の方法に一理あると考えていたのか、それとも父が果たせなかった事を

自分が変わりにやってやろうとしたのか。理由は解らない。

 幸いにも回避する事ができたのだが。ふとあの時本当にやっていれば、子供達はどうなっていただろう

かと考える時がある。

 我が子は忍者のように俊敏になり、巨人のように大きく育ち、その上で英語もぺらぺらになっていたの

かもしれないと。

 もしそうなっていたとすれば、それをしなかった事は人としてはむしろ褒められる事なのかもしれない

が。子供に対して貴重な才を与える機会を失わせたという点において、大きな罪なのではないのか。そん

な事を思う時がある。

 そしてそれを思う事で、私はようやく父の気持ちを理解してあげられたような気もする。何も父は悪戯

心や面白いからやった訳ではなくて、勿論そういう気持ちが全く無かったとは言わないが、偏に子供に楽

させてやりたい、何か良い事をしてやりたい、と思ったからではないのだろうか。

 美化しすぎだと言われればそうかもしれない。父を知る人はおそらくそう言って笑うだろう。だが父は

善良ではなかったとしても、できるかぎり誠実な人間ではあろうとした。不完全な人間であり、癇癪もち

でもあったが、父は父なりに努力し、努力し続けて生きた人生であった事を私は知っている。

 何十年親として生きても、子供に何かをしてあげられる機会が一度でも訪れるかどうかは解らない。父

はそういう考えを持ち、金銭的な面や世話をするという事だけで、子供の為に何かをしたと考えるような

傲慢な人間ではなかった。親として当たり前の事をしただけでは、不十分だと考えていたのである。

 だから赤ん坊である内に、いや赤ん坊の時だからこそできるだろう事を、父なりに一生懸命にやっただ

けなのではないか。

 それは何かしたい、何かを残してあげたい、という素朴な父心のなせる業ではなかったのか。

 同じく父となり、もう少なくない時を重ねてきた私はそう思う。

 あれもまた父なりの愛情表現だったのだと。

 そしてこうも思う、私は自分の子供達に、一体何をしてやれたのだろうと。



 私自身が父親になってから、父と自分の父としての部分を知らず知らず比べてきたように思う。人が親

となる時、参考にできるのは自分の親だけだ。子が親に似るとはそういう意味でもある。

 だから私という父親も父から随分影響を受け、そこに細かな違いはあっても、大きな意味では同じ父親

像になっている筈なのである。私の抱く理想の父親像というものが父そのものではなかったにしても、お

そらく父の抱いていた理想の父親像とはさして違いがないだろうとは思う。

 それは我々親子だけの話ではなくて、祖父も曽祖父もずっと先祖代々似たような理想の父親像を抱き、

それに相応しい親となる為に努力してきた筈なのである。

 そしてずっとその一つの目標に向かって子々孫々まで努力し続けているという事は、つまりその理想像

にまだ誰もなる事ができずにいる、という事でもあるのだろうと思う。

 そういう面でいつも不満で、だからこそ同じ目標に向かっている筈なのに叶えてくれない親に対し、子

供心に苛立ちを覚え。自分が親になれば、自分もまたその理想の親になれない事を悔やみ、自分を責める

か、子供にあたるか、または受け容れて諦めてしまうかをしてしまうのだろう。

 うるさい祖父もある意味物分りのいい父も、結局その底にあるのは同種の愛情であり、子に対して親が

持つ自然な情である事は変わらない。どちらも子を愛しと思うからそうするのであり、その内にある感情

には同じものが灯っている。

 そして私もまたその理想を叶える事はできそうにない。脈々と受け継がれ、私の血筋が延々と願ってき

た想いを叶えられそうにない。これは悲しむべき事である。

 何を書きたかったのか解らなくなってきたが、つまり父に対する想いというのは、基本的にはそういう

事なのだろう。きっと、そういう事なのだろう。

 私達は同じものを目指し、同じ途上に居る、同じ人間なのだ。祖父も曽祖父も先祖代々そうなのだ。そ

してそうやって脈々と受け継がれたものを、また子供達に託していく。

 そう気付いた時、私は胸にある想いを自分の子に伝えるかどうかを迷った。

 確かに言ってどうなるものではない。叶えられないものは、どうやっても叶えられないのだろうとも思

う。結局、言っても言わなくても同じ事だと。

 しかし伝えれば、子はその願いに対して真摯に向き合おうとするかもしれない。私達代々の親が漠然と

目指していたそれを、私の子はしっかりと捉えて目指そうと考えるのかもしれない。

 だが、それで良いのだろうか。もしそれで叶ったとしても、それで本当にいいのだろうか。

 もし叶ってしまえば、そこで私達の血筋は終わってしまう。そんな恐怖を、私は抱いている。

 これもおそらく、先祖代々抱いてきた恐怖なのだろう。行き過ぎないで済むように。しかし理想と恐怖、

受け継いだ心が二つの相反するものであったが為に、代々の親達はその想いを叶えられなかったのかもし

れない。

 とすれば、始まりのご先祖はそれをそうする為にわざと残したともいえる。自分の血を絶やさない為に。

 いやそもそも全てはその為の方便だったのではないか。

 結局私は父と同じように何も伝えない事を選んだ。私が今それを理解したという事は、父もまた理解し

ていたという証。私のこの血筋に対する理解もまた、父から受け継いだものだろうからだ。

 なら何も言わずとも、私の子達もまた自然に理解する時が来るだろう。私が言うべき事ではないのだ。

これは自分で悟らなければならない。代々の親達と同じように。

 全く難儀な宿命である。




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