幻視(日常)


 目が覚めるといつの間にか私は布団に寝かされており、外から窓越しに差す、柔らかな光が眩しい程に

全身に注がれていた。

 この日差しで目が覚めたのだろうか。時計を見るとまだ早朝といった時間で、いつもは寝てる事が多い

時間帯だった。

 ただそれは霊が見えるまでの話で、あの不思議な出来事が起こって以来、ここまでぐっすりと眠った事

は無い。久しぶりに熟睡出来たからだろうか、身体はすこぶる調子が良く、健やかで、まるで生まれ変わ

った、いや、今生まれて来たばかりかのような気分だった。

 背伸びをし、付近を見回して見たが、誰も居る気配が無い。

 あの男は何処へ行ったのだろう。

「目を覚まされましたか」

 私がそんな風にぼんやりと考えて居ると、不意に男が入ってきた。まるで見計らっていたかのような登

場に、少し驚きを覚える。だけどそんなはずがない。人間にそんな事が出来るなら、うっかり道でつまづ

いてしまう事もなくなるだろう。

 透視か千里眼でも出来なければ、無理な話だろうから。

「はい、おかげでぐっすりと・・・・。あ、大変ご迷惑をおかけしました」

 そこでようやく私は気付いた。昨日初めて出会った男に、一晩の宿を世話してもらったという事に。大

変迷惑をかけてしまった、しかも一つしかない布団まで使って、こんなに失礼な事はない。

 しかし慌てふためく私をどこか楽しそうに眺めると、男は静かに私を手で制した。

「いえ、そうさせたのは私ですから、心配に思う事はありません。ぐっすり休まれたと言う事は、おちた

証でもありますからね。私としても確認できてありがたい」

 またおかしな事を男は言う。

 おちたのおちないのと、一体何の事だろうか。そういえば昨日もそんな事を言ってなかったか。確かに

健やかな気分だが、一体何がおちたと言うのだろう。

 別に荷物でも背負っていた訳でもないだろうに。

 すると男はあの見透かすような目で私を眺め。

「説明しておいた方がよろしいようですな」

 少しだけ笑った。

「はい、もうなにがなにやら」

 まるで一人だけ取り残されたみたいで、とても不安になる。

 知らないと言う事は、とても怖い事なのだと、今改めて悟った。霊魂が初めて見えた時に感じた恐怖と

近い怖さかもしれない。

「まず言っておきたい事は、貴方はこれで霊魂に脅かされる事は、おそらくなくなったと言う事です」

「では、私の悩みは解決したと?」

「そう言う事になりますね。まあ、本当の霊魂に悪戯されるなんて事が、これからの貴方の人生で、まっ

たくないとは言い切れませんが」

 男は何故か楽しそうだ。

 助けていただいておいて申し訳ない事だが、私は少し不快に思う。

「これは失礼。では改めて説明させていただきましょうか。まず貴方は突然霊視能力に目覚めた訳ではな

い。これは幻視と呼ばれる妖怪、妖怪、そう呼ぶのが良いでしょう。その妖怪が貴方に憑き、貴方に見せ

ていたものなのです」

「なんですって!?」

「この幻視は名前の通り人に幻を見せる妖怪なのですよ。ですから、一般に言う霊視とは違います。まあ、

同じようなモノかもしれませんがね。その辺は私にも解りかねます」

 なんと言う事だ。それでは今まで見ていたのは現実ではなく、皆の言うとおり幻だったのか。おかしい

のは私の方だったのか・・・。なんと言う事だろう。ああ、怖ろしい。

「まあ、そう悲観なさる事はありません。祓いましたし、もう見る事はないでしょう。それにあながち幻

という事でもありませんしね。貴方にとっては紛れもない現実で、医学的に見ても大して差は無いでしょ

うし、嘆かれる事はありませんよ。誰にも区別のつかない幻ですから」

「では、ではやはり霊魂など居ないのでしょうか」

 私はぐったりと気疲れを感じた。幻に騙されていたなんて。居もしないモノにあれほど脅かされていた

なんて、なんとも情けない話だった。

 しかしそんな私に男は言う。

「いえ、解りませんな。霊魂が居る居ないは解りません。それはまた別の話でしょう」

「ですがあなたは妖怪の仕業だと?」

「ですから、あくまで今回の貴方の場合、と言う事です。居るか居ないか、見えない私には解りませんし、

興味もありません。昨日も言いましたが、どうでも良い事ではありませんか。居ようと居まいと、何が変

る訳ではありません。貴方の人生はそのままです」

「・・・・それは確かに・・・」

 そう言われてみれば、確かにそうだ。私がこうだったからといって、その全てが私と同じとは思えない。

私が世界の全てではないように、そう思う事は傲慢というものだろう。

 良い大人がおかしな事を言ってしまった。

 霊が居ても居なくても私には関係ない事もまた事実だろう。今まで生きて来た人生が、それで変る訳が

無いし、多分未来も変らない。どうでも良いと言われれば、まったくどうでも良いのかもしれない。

「ともかくこれで貴方はもう悩まされる事はありません。前のように普通に生活すれば良いのです」

「本当にありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいか・・・」

 すると男はまた笑った。それはそれは楽しそうに笑った。

「お礼? お礼ならすでに貰い受けておりますよ。ほら此処に」

「え・・・・・・、まさか!?」

 男が笑いながら差し出してきた蝋燭、その灯った火に、毛が一本も生えてない、灰色をした一つ目の鼠

のようなモノが映っていた。火が揺らめくたび、そいつもゆらゆらと揺れる。


「なるほど、確かに見えない」

 あの後、私は逃げ去るように山を下り、私の日常であった場所へと戻って来た。

 霊は見えない。

 日常、確かに日常である。あれだけ悩まされた霊魂も、そしてあの嫌な笑い声も聴こえない。聴こえる

ものと言えば、雑踏のざわめきと、車の走る音、賑やかでうるさい日常の音楽だけ。

 でもそれがこんなに嬉しいものだったなんて。

 確かにもう二、三日もすればただ鬱陶しいだけの音になるのかもしれないけれど、今はとにかく何でも

ないこの風景が嬉しい。ここには普通に見えるモノしか無く、もう一人で悩む事も、おかしな行動をして

人から奇異に思われる事も無い。

 これで仕事も出来る。明日から復帰しよう。念の為に休みはもう一日あるけれど、私は早くいつもの日

常というモノに浸りたかった。休暇なんか返上してしまえ。

 自分が世間から取り除かれたような感覚、特別な存在、そんなものはもう金輪際お断りしたい。早くい

つも通りの暮らしに戻りたかった。とにかく戻りたかった。一日でも早く。

 そして二度と味わいたくない。

 まあ、妖怪でも憑かない限り、私には特別な力なんてないのだが。

 そう思うと、自然と笑みが漏れた。霊が見えるまでとはまったく逆の考えをしている私が、自分でおか

しかったのだ。

 すれ違う人が不思議そうに見ては去って行く。私がその人でもそうしただろう。そしてこれからは私は

そうして生きていく。

 何も無くて良い、何も無い事が本当の私が望んだ、特別なのだ。

 そう気付かせてくれたと思えば、良い経験だったのだろう。済んでしまえば悩みも苦しみもない。ただ

想い出に変り、いつしか笑い話になる。誰も信じてくれないだろうけれど、私だけは思い出して、その度

に笑うようになるのだろう。

 終わったのだ。

 こうして私の不思議な体験は終わりを告げたのだが、実は一つだけ気になっている事がある。

 そう、あの妖怪、幻視という妖怪。妖怪自身が謝礼だと言って、あの男は受け取ったようだが、一体あ

れをどうする気なのだろう。そして幻視はあれ一匹だけなのだろうか。

 もし運悪く幻視が蝋燭の火から逃げ出したとしたら、そしてもしあの妖怪がまだまだたくさん居るのだ

としたら。

 そんな風に考えると、どうしようもなく不安を覚える。

 もしかしたら、あの角に、いや今も私の後ろに居るのではないか。

 そもそも私は何時何処で憑かれたのだろう。本当に妖怪の仕業だったのだろうか。それとも・・・・。

「いや、おかしな事を考えるのはよそう・・・」

 私は歩き出す、私はもう日常に戻ったのだから。

 ただ一つ言うべき事があるとすれば、不思議な事にでくわした人間は、本当に自分は普通の人間だと思

っていたと言う事だ。だがその普通という良く解らないモノから外れる道は無数にあり、ほんのちょっと

した弾みでそちらを歩む事になる。抵抗は出来ない。

 我々が歩む、日常という平穏極まりない生活が、実は怖ろしいほどに危険で精妙なバランスの上で成り

立っている事を、我々は忘れてはならない。

 今の私は、切実にそう思う。

 願えるなら、あなたが私の二の舞にならない事を祈る。



                                                        了    




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