幻視(妖歌)


 緑が降り注いでいる。そんな感覚だろうか。

 光と木々と風と影、そしてふわりと巻き上がる心地よい生命の香り。

 私が向ったのはそんな場所である。奥深く、誰も来ないような場所。それだけに同じ国なのかと思える

くらい、私の居た場所と違う。

 柔らかな日差しを浴びるたび、不思議と元気がわいてくる。この場に居る霊も穏やかで、私に干渉しよ

うとせず、今は彼らが見える事も苦痛ではなかった。

 あの笑い声もしない。

 霊峰、そう呼ばれている場所らしい。神が住まう、神が宿りし場所であると。

 それも解る気がする。誰が此処に来ても、おそらくどれだけ霊魂とかそういったモノを信じない人でも、

多分此処に来れば、誰でも神聖さを感じると思う。

 本当に神が宿っているのか、この場所に霊的な力があるのか、そんな事は解らない。ただただ神聖で、

とにかく此処には生命が満ちていた。

 命が癒される。

 見えない所から、自分が癒されていくのが解る。来て良かった。此処に来れただけで幸せだと思う。

 道は一つ、思ったよりも早く来れたので、まだ日は沈んでいない。でも後二時間もしない間に、日は暮

れてくるだろう。

 それを見てるのも良いな、そんな風にも思った。暮れて変る景色を眺めるのも悪くない。

 けれど今は人に会う為に来ている。私を助けてくれるだろう人を、間違っても待たせる訳にはいかない。

自分の楽しみの為に、人を待たせられない。

 それに早く話したいという想いもある。

 霊が見える。その紛れも無い事実を、しかし誰にも話せないと言うのはなんと辛かった事か。

 自分だけしか解らない事。つまりは特別な事。昔から憧れてきた、特別と言う存在、になれた事が、こ

んなにも苦痛だったなんて。何故私はこんなモノに憧れていたのだろう。

 特別なんていらない。ただ日々を何事も無く、人並みに生きる事、それこそが幸せだったのに。

 幸せとは平凡という事なのだと、やっと私は知った。

 早く幸せを取り戻さなければ。

「急ごう」

 私の足ではまだまだ山頂まで時間がかかりそうだ。奥まった場所にあるけれど、そう高い山ではない。

でも私は山歩きなんかした事が無いから、どう考えても後たっぷり一時間はかかる。

 せめて夕暮れまでには辿り着きたい。夕暮れに訪ねるのもあまり良い事ではないけれど、それでも夜分

押しかけるよりは良いだろうから。


 庵、そんな風だろうか。

 小さな家、いやそのまま小屋とでも言った方が良いかも知れない。同じく小さな社の側に、ちょこんと

草木に埋もれるようにその小屋は在った。

 話には聞いていたけど、まさかここまで小さな建物だったなんて。

「町の方から来たのでしたら、驚かれたでしょう。霊験ある神様なら、もっと大きな社が建ってるはずだと。

しかしね、神様はそんな物よりも、ありのままの姿、自然をこそ好まれるのですよ。何しろ、この山自体

が神のお社なのですから。今更住居などは不要でしょうとも」

 声に振り返ると、和装の男が立っていた。

 良く時代劇で見るような着物で、背が高く、鼻筋がすっと伸びている。やや面長で、昔の公家さんとか

こんな感じだったろうかと、そんな風に思える顔だ。

 目は鋭く、まるで私の心を射抜くようだった。彼の目には、私とはまた違う何かが見えてるのだろうか。

 歳は解らない。30だろうか、40はいっていまい。ひょっとしたら、20代後半かもしれない。そん

な歳の良く解らない顔をしている。そして雰囲気が何故か怖ろしい。

「こんな時間に押しかけてしまい、申し訳ありません。私は・・・」

「うかがっております。どうぞ中の方へ、狭いですがなかなか快適ですよ。外よりはいい」

 この男がやはり探していた人物なのだろう。するすると小屋に近寄り、招くようにその扉を開けて、彼

は私を待った。

 私は誘われるままに扉をくぐる。

 一瞬、首筋に寒気を感じたのは、果たして気のせいだったのだろうか。

「奥へどうぞ」

 中には古めかしい七輪が灯っており、柔らかな熱が殺風景な空間を暖めていた。蝋燭が数本、置いてあ

る。この狭い部屋なら、一本でも事足りるかもしれない。残りは予備だろうか。それとも明るい場所が好

きなのか。

 でも何となく、この男は夜が来ればすぐに眠ってしまうような気がした。太陽に合わせて生活している

ような、そんな昔ながらの生活をしているのだと。

「聞く所に寄りますと、貴方は霊魂が見えるのだとか」

「はい、不思議と思われるかもしれませんが、本当に見えるのです。声も聴こえますし」

「声、ですか?」

「ええ、その霊の話し声や、後は笑い声も」

「ほう、笑い声、ですか」

 男は眉根を寄せ、何やら考え込む。

 私は何か変な事を言ってしまったのだろうか。それともこの人でさえ、私の頭がおかしくなっているの

だと、そう思うのだろうか。やっぱり私がおかしいのだろうか・・・。

 私は思いきって一つ聞いてみる事にした。

「つかぬ事を伺いますが、貴方も霊魂とかそう言ったモノがお見えになるのでしょうか」

 しかし男の答えは私の期待を半ば裏切るものだった。

「いえ、私は霊魂を見た事はありません」

「え、では、それでは・・・・、私はどうすれば・・・」

「お聞きなさい。確かに私は霊魂なぞ一度も見た事も無ければ、その声を聞いた事もありません。言わせ

ていただけるなら、見たいとも聞きたいとも思いません。

 でもまあ、どうでも良いではありませんか。見えようが見えまいが、それが生き死にに関わる事でも無

し、一体何が違うと言うのです。

 信心が足りない。そう言われればそうなるのかもしれませんが、神仏はそのような小さな事に拘られま

せんよ。信じようと信じまいと、例えけなされたとしても、神仏は人を加護して下さいます。神仏とは、

生命の親たる神仏とは、そういうものではありませんか。子供に嫌われようと、好かれようと、親は子を

愛すもの。それが自然の理というものでしょう」

 一瞬絶望しかけた私であったが、彼にそんな風に諭されてみると、確かにそんなような気もする。信心

がどうだの、何教だの、どの教えが間違ってるだの正しいだの、そのような事を考えるのは人間の方だけ

なのだろう。神や仏が、そんなつまらない事を言う訳がない。

 神仏が人を差別したり、傷つけたりするような事を教える訳がないし。争いの材料になるような教えな

ど、与えるはずが無いではないか。

 霊魂も、確かに見えようが見えまいが、大した事ではないのかもしれない。

 それはそれで納得しないでもない。

 でも、それでは私の問題は解決しない。やはり無理なのか、私はどうすれば・・・。

「まあ、最後までお聞きなさい」

 するとそんな私の心を見透かすかのように男は言った。

「確かに私には見えませんから、見える人の気持は解りません。その対処法も与り知らぬ所です。しかし、

貴方の場合であれば、私にも手助け出来ますよ」

「え、それはどういう・・・・・」

「せっかちな方だ。ならば、先に祓って差し上げよう。それならば安心なさるでしょう」

 男は不思議な事を言うと、置いてあった蝋燭を、いつも使って居るのだろう蝋の塊りがある所に三本立

て、何やら聞いた事も無い言葉を唱えながら、一本ずつ火を灯していった。

 好奇心からその言葉を知りたかったのだが、それを問える雰囲気ではなく。それに何だか先ほどよりも

ずっとこの男の事が怖くなってきていた。何故だろうか、とても怖ろしい。

 子供の頃、悪戯をしてそのお仕置きを待っていた時の事を思い出した。圧倒的な怖さ。逆らえない怖さ。

理屈ではなくて、何が何でも怖い。そんな気持。

「一つ灯し、一つ消え、一つが映せば、一つは見えぬ。二つ灯せば迎え合う。三本あっては何処へ行こう、

三つ灯れば何が住まう」

 全て灯し終わると、今度はその火を消し始め。消したと思ったら、今度は再び灯す。奇妙な順番で二つ

の蝋燭だけを、灯しては消し、消しては灯し。気味の悪い歌を歌いながら、それを繰り返している。

「三本あっては何処へも行けず、三本あっては獣も住めず。一つは灯し、一つは消す。何処へゆこう、何

処へゆこう、灯す灯せば何処へ行こう。灯す灯さぬ二つは標、灯す灯さぬ一つは空ろ」

 怖い。怖くて怖くて、一つだけずっと灯っている火が、ゆらゆら、ゆらゆらと私を映している。まるで

私自身がその火になって燃えているかのようだ。

 怖い。とても怖い。私は怖い。あいつも怖い。

「ああ、怖や怖や」

 怖や怖や。

「一つ残るは空ろの火よ。灯せよ、灯せ、最後の一つ。最後の灯りは消してはならず。それは虚ろな獣が

住まう場所。灯せば消せよ、最後の灯りは二つと要らず。残すは一つ、一つは残せ、最後の火を獣に残せ」

 火が揺れるたび、私の心も揺れる気がした。それはまるで揺り篭にでも揺られているみたいで、とても

気持ちよく、もう怖さはなく、ただゆったりと眠るときのような心地よさが広がっていくのを感じていた。

 実際、私の体は揺れていたのかもしれない。

「獣は此処へ、獣は此処へ・・・・・」

 私は誘われるままに、眠りへと落ちた。心地よく、久しぶりに深い眠りにつけたのだった。




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