11.岐路


 あれから二日進んだが、獣の気配は無い。

 勿論、木猿のような言ってみれば下等な霧生物の姿なら時折見かけるのだが、その数はいつも少なく、ミハ

イル達を目にするとすぐに逃げて行った。

 その様は明らかに怯えていて、彼らが通りかかる前に何か恐怖を抱かせるに充分な何かを行った者の存在を

感じさせる。

「やっぱり変よ。この辺りならちょっと手強いのとか大型のとか色々居るはずなのに、見えるのは小物ばかり。

こんな事、初めてだわ・・・・」

 ルカの表情はゲオルグと見分けが付かないくらいに険しく、固くなっている。

「確定だな。大規模な狩りがここで行われたのだ。どういう理由でかは解らないが、それ以外にこの状況を説

明できるものは無い」

 ゲオルグの方は先程から一人で頷いている。

「でしたら一度戻りませんか? もしかしたら情報の入りが遅れて、それで出発前には聞けなかっただけかも

しれません」

 ミハイルはそんな二人に挟まれて、どうして良いのか解らない。

 ふらふらと視線を散らし、心配そうに二人の表情を見比べている。

「このまま進んでもしかたないのは確かだな。あまり奥へ行くと危険だし、一度帰る方が良いかもしれん」

「まあ、そうね。あたしも何だか嫌な感じがしてきたし、戻・・・・!!?」

 突然ルカの表情が一変し、二人にも頭を下げるよう手振りで示した。

 ゲオルグは瞬時に応じ、ミハイルもそれを見てから慌てて頭を低くする。

「・・・・・・・」

 息をひそめ、耳を澄ます。

「・・・・音が聞こえる・・・」

 今まで聞いていた自然の環境音のようなものではない。その音は気分が悪くなるくらい良く響き、自然界か

ら逸脱した行為である事を主張している。

 これは鋼のきしみ合う音だ。

 ルカがこちらに掌を向け、二人がそれを確認したのを見てから動き出す。

 ゲオルグは斧の柄に手をかけながらいつでも飛び出せる姿勢を作った。背後からでもその両足腰に力が込め

られているのが解る。

 ミハイルもそれに倣い、戦闘準備を整える。彼の場合は主に精神的な面での準備であったが。

 ルカはするするともう10mくらい先を進んでいて、時折こちらを見ては首を横に振る。視界に入らないとい

う意味だろう。

 それを確認した後、ゲオルグがルカとは別方向へ滑るように移動した。

「・・・・・・」

 悔しいが、今のミハイルはそれを邪魔にならないよう黙って見ている事しかできない。余計な事ができない

状況だということは彼にも解る。

 その間も鋼音は治まるどころか派手にけたたましくなっていく。

 向こうから近付いてきているのか、戦いが激しさを増しているのか。

 ルカが更に10m程進み、初めてミハイルに向けて手招きをした。ゲオルグを見ると静かに頷く。先に行け、

彼はそう言っている。

 緊張に背筋を圧迫されそうになりながら、ミハイルは音を立てないように静かに、しかしあまり遅くならな

いようにして進んだ。

 上手くできているか解らないが、一応足を下ろすタイミングは鋼音に合わせておいた。

 思い付きでやった事だが、未熟でもやらないよりはましなはずだ。

 10m地点で一度静止し、ルカを見る。

 彼は頷いて再び手招きをした。

 高鳴る心臓を心で抑え、同じ要領で進む。今度はさっきよりも上手くできた。

 そんな彼の姿を見て、ルカとゲオルグの表情に光が混じる。嬉しいのだろう。自分達に全力で応えてくれよ

うとしている人間を見て、心揺さぶられるものがあったに違いない。

「・・・・・・・・」

 ルカは側にきたミハイルを抱きかかえるようにして優しく誘導し、草葉の隙間から見るよう指で促す。

 示された場所からそーっと覗いてみると。

「・・・・っ」

 思わず声を上げそうになり慌てて口に手を当てる。勢いがつき過ぎたせいで痛みを覚えたが、それどころで

はない。

「・・・・・・・・・」

 そのまま数秒待ったが、状況が変わるようではない。気付かれなかったか、気付かれても無視されたのだろう。

 複雑な思いが去来するが、今はその結果に満足しておく。二人にも動揺する様子は見えない。ほっとした。

 草葉の奥に居たのはあの銀甲冑だった。彼?が幅広の剣を軽々と振り回し、毛むくじゃらの見たことも無い

獣を切り刻んでいる姿が見える。

 体長が優に4mはありそうな巨人と言っていいその毛むくじゃらの四肢を、いや、六肢(腕が四本はあった。

その部位の付近から血が流れているのを見るに、元はそれ以上の本数が生えていたのかもしれない)をバター

のように容易く滑らかに切り落としていく。

 子供に大人があしらわれているかのようで、それは異常な光景だった。

 ぞくりとする。素直に恐怖を覚えた。

 彼が動く度に甲冑から光が放たれ、その光の上を幅広の剣が通過する。手応えも感じられず、まるで空を斬

っているかのようにも見えるが、その度に血が舞い、骨肉が飛ぶ。

 恐ろしい切れ味だ。あの毛むくじゃらがもしミハイルが知っている動物程度の硬さであったと仮定しても、

それでも理解できない程に鋭い。こんなに斬れる剣を彼は見たこともなかった。

 まるで英雄譚(えいゆうたん)に出てくる伝説の武器だ。近くで見てさえ、こんな業物だとは思えなかった

のに。現実とは思えない。

「あれがお前の言っていた銀甲冑か」

 いつの間にかゲオルグが側に居る。

「は、はい・・・」

 銀甲冑の動きは一度見た者の目を華麗に縛り付ける。恐ろしいのに、心から恐怖しているのに目を離せない。

あの毛むくじゃらももしかしたらそうなのかもしれない。自分が斬り刻まれる美しさに、魅せられているのか

もしれない。

「何という手練だ。あれ程の腕前と武器を見るのは久しぶりだ。どれ程深く潜れば得られる力だと言うのか」

 ゲオルグの目に憎しみにも似た羨望の色が点る。

「見てよ、あれ。どう見ても10匹以上は居るわよ。まあ、もう細切れにされちゃってて、わかんないけど」

 血が湧き出してでもいるかのように見える地面には、複数の頭と腕や足、それからそれだった物が無秩序に

転がっていた。

「これ程の者を、俺達は知らないというのか・・・・一体何故だ。あいつは誰なんだ」

「・・・・本人に聞いてみればいいわ。ほら、もう終わるわよ」

 ルカがそう言い終わる前に全ては終わっていた。



「おや、君か。ちょっとぶりだね」

 銀甲冑は最初に会った時と同じように気さくにそう言った。

 ルカにもゲオルグにも興味を示さない。彼?の目はミハイルにのみ注がれている。

 二人の表情が険しくなっていくのが見ないでも解ったから、それをさえぎるようにミハイルは慌てて前に出た。

「はい。えーと、すごいですね、これ」

 地獄絵図を指さすと、銀甲冑は悪びれもせず答える。

「ああ、こいつらか。こいつらは見掛け倒しなのさ。多少できるようになれば、もう練習相手にもならない。

何なら君も一緒に来るかい? 私なら良い師になれると思うよ」

 銀甲冑は思わせぶりな視線をミハイルごしに二人へ向ける。

 背後で待つ二人の空気がどんどん悪化していくのを理解しつつ、ミハイルは笑顔のまま話し続けた。

「いえ、僕には頼りになる仲間が居ますから。・・・・あなたには仲間は居ないんですか? 今も一人みたい

ですし」

「仲間・・・・か。面白い言葉を知っているね、君は。まあ、それも良いだろう。でもいずれ思い知るさ。そ

うなったら私の側へ来ると良い。手取り足取り教えてあげよう。・・・では、また会おう」

 そう言うと銀甲冑は二人など初めから居なかったかのように歩き去った。

「・・・なに、あの態度」

 ルカが袖をかみしめながら、ものすごい顔で悔しがっている。ちょっと面白い。

「お前の知り合いじゃなかったのか。それだと嫌われている理由は解らんな」

 ゲオルグもいつもの彼を装っているが、その言葉から拭いきれない怒気が読み取れる。普段はあんな解りや

すい挑発に乗るようなタイプではないので、少しめずらしい。

「えーと、でも、まあ、悪い人ではないですし」

「まッ!」

 そんなミハイルをルカがキッと睨む。

「ミハイルちゃん、あなた何かされたのね。きっとそう、あんな事やこんな事されて、たらしこまれたんでし

ょう! キーッ、悔しいッ! ミハイルちゃんの貞操はあたしのものだっていうのにッ! 絶対、絶対あの野

郎! 許さないんだからなッ!」

 最後の方は明らかにドスの効いた声になっている。それが本来の声なのかもしれない。

 ミハイルはどうして良いか解らず、あたふたする。

「いい加減にしろ」

 ルカの痴態を見て冷静さを取り戻したか、ゲオルグが制止した。その声にはまだ怒りが残っていたが、呆れ

返っている気持ちの方がより強くこめられている。

「ふーんだ、だから男って嫌いよ。あんたも愛情の有る無しより数で量る方なんでしょ。ほんと、不潔だわッ!

 節操っていうものが無いんだから! ・・・・・でも、そうね。今のあたしは少しはしたないわね。反省し

たわ。でも、解るでしょ? あいつ、初めからあたし達しか見てなかったのよ」

「ああ・・・」

「えっ?」

 ミハイルは思わず声を上げたが、それ以上聞く事は止めておいた。

 確かにさっきのも見方を変えればそう思えなくもない。ミハイルは二人を挑発する為だけの道具として扱わ

れていた、とそう捉えられなくはないのだ。

「もしかしたら、俺達の知り合いかもしれんな」

「ええ、そうね。昔の男かもしれない。それなら納得できる」

「・・・・・・・・・」

 ゲオルグは一瞬ルカを物凄い顔で睨んだが、すぐ呆れ顔に戻した。彼の中でも扱いきれない気持ちというも

のがあるらしい。

 ミハイルもルカは場を和ませる為にわざとこう言っているのだ、と思う事にした。それがきっと平和なのだ。



 三人は血の臭いでむせ返りそうな処刑場を離れ、帰路に着く。

 そしてゆっくりと思い返し、考える。

 あの銀甲冑のような存在が数人も居ればこの状況を説明できる。あれほどに戦闘能力の高い奴らが居るなら、

この階層全体を占拠する事さえ、そう難しい事では無いのだろう。

「さっきのように死体が見当たらないのが気になるがな」

 素材を得る為と考えれば死体が残らないのも理解できるが、さっきのあれはむしろ憂さ晴らしというのか、

惨殺を楽しんでいるように見えた。まともな人間がやる事じゃない。

「探索者にまともを期待する方が間違っているかもしれんがな」

 ゲオルグが自嘲の笑いをもらす。

 何にせよ、あれだけ目立つ戦い方に武装だ。銀甲冑の噂を一つも聞いたことが無いと言うことは、奴らが隠

された存在か、もしくは最近そういう姿になったのだと推測できる。

「俺の知り合いにもあれほどできる奴は・・・・そうは居ない」

 真っ先に浮かぶのはエンブラの顔だが、あいつはあんな目立つ戦い方はしない。あんな狂った殺し方もしな

い。それにあれ程の切れ味の武器をあいつでさえ持っているかどうか・・・・。

「霧から得た武器と考えても、あれは異常だ」

 ゲオルグも霧素材の武器は腐るほど見てきたが、あんな切れ味の武器は目にするどころか聞いたこともない。

伝説に謳(うた)われる英雄クラスの探索者にして初めて持てるような業物だ。

 あの一振りで街一つ買えるくらいの価値はあるような気がする。

「国家規模の組織に関わりある者か、でなければ・・・・」

 彼女達なのか。

「いや、彼女達なら、俺達は生きてはいまい。あんな戦い方もしない」

 あいつはきっと随分前から自分達が接近してきていたのに気付いていたはずだ。それなのに隠そうともせず、

むしろ誇るようにして見せていた。それは彼女達の流儀ではない。

「とすれば、やはり・・・」

 ヘルフゴットの顔を思い出す。

 帰ったらもう一度会うべきだろう。

 もしかしたら、もう二度と会う機会は訪れないのかもしれないが。



 地上までの道程は地上の道を歩くのとほぼ変わらなかった。

 その事自体が異常さを証明しているとも言えるが、ありがたい事には変わりない。銀甲冑の事など疑問は何

一つ晴れていないが、その事だけで一先ず満足しておく。

 霧から生還できたのだ。それ以上に祝すべき事など無い。ミハイルにとっても良い経験になった。それがど

んな相手であれ、圧倒的強者を目にする事は悪くない。

 人がそんな存在を見れば心折れて希望を失うのではないか、なんて言う者もいるかもしれないが、そんな事

はない。心折れる者は軽くつまづいただけで折れし、折れない者は何を見ても折れない。折れてもしぶとく再

起する者も居る。

 結局しっかりした意志と目的を持っている限り、人は曲がる事も折れる事も無いのだろう。人間は本来鉄の

ように強靱なのである。それを誰もが認めたくないだけなのだ。自分の弱さに甘えられなくなってしまうから。

「思ったような戦果は得られなかったな」

 ゲオルグが溜息を吐くように言う。

 あれから全く霧生物と出遭わなかったという訳ではないし、霧にある物は植物でも鉱物でも貴重な物が多い。

低層にもあるようなありふれた物でも使い道が多い物はたくさんあり、そういった物で収入が得られない訳で

はない。

 だがそれだけでは大きな儲けは出ないし、勢い込んで出てきた分、がっかり感は否めない。

「そうねえ。何だか腹を立てに行ったようなものよね、これじゃ」

 ルカも渋い顔をしている。口数が少ないのも徒労感からきているのかもしれない。霧探索は博打(ばくち)

のようなものだと解っていても、それで慰(なぐさ)められるようなものでもない。

「えーと、で、でも、色んな経験ができましたし。楽しかったし。それにやっぱりこうして三人怪我無く戻っ

てこられたんですから、それで良いじゃないですか。ねッ? ねッ?」

「あらーん、良い事言うわねー。さすがはミハイルちゃん。お姉さん惚れ直しちゃったわー」

 ルカがミハイルをここぞとばかりに抱きしめて、頬ずりする。

 ミハイルは正直気色が悪かったが、今ばかりは身を任せる事にした。こうして人は何か大切な物を一つ一つ

失っていくんじゃないかという思いが強く脳裏に浮かんだが、それが大人なのかもしれないと必死に強がって

みる。

 二人には世話になっているのだ。これくらいは・・・・いや、やっぱり嫌だ。

「と、とにかく、早く帰りましょう。お風呂にでも入って綺麗にして、気分も洗い流しましょうよ」

 さりげなく、しかし強く拒絶の意を示してルカを引き剥がす。

「あらあら、いきなりお風呂だなんて積極的ねえー。でも、そんなあなたも嫌いじゃないわー」

 逃げるミハイルを追うルカ。そしてそれを呆れたような顔で、しかしちょっと笑いながら睨み付けるゲオルグ。

 そこにあるのはいつも通りの光景。いつも通りの町並みと生活。

 そうやって街は人を安心させる。

 危険過ぎるくらいに。



「ご苦労だったな」

 普段は兵士達が居並ぶ広間でただ一人祝福を受けている。その事にもう違和感は無いが、それでも納得でき

ない気持ちはある。自分はこのような仕事をする為に仕官した訳ではないと。

「相変わらず見事な手前よ。フィードバルトにも見せてやりたいものだ」

 そうやって自分が得られるはずだった地位を奪ったと思っている男に復讐されるおつもりですか、と言いた

くなったが黙礼するに止めておく。それが例え意に反する行為であったとしても、うかつな事は言うものでは

ない。

「これであの地一帯は占拠できた訳だ。お前達数人だけでな。あいつが例えどれほどの軍隊を揃えていようと

こうはいくまい。フフ、私は深層に行くだけが目的の猪なんぞとは、頭の出来が違うのよ」

「しかし下層における戦力低下は否めません」

「よいよい。元より霧の正体などに興味は無い。探索者を誘う場所であればよく、彼らがもたらす富さえ享受

できればよいのだ。他の者達も皆そう思っておるはずよ。あのフィードバルトだけが霧にこだわっておるとい

う訳だ。まったく陛下も何故あのような者に名誉ある地位をお与えになったのか。あの地位は我々高潔な血を

受け継ぐ人間にこそ相応しいというのに。のう、お前もそうは思わぬか」

 黙礼を繰り返す。

 以前はそれが精一杯の抵抗のつもりであったが、今は少し違う。

「お前にはもっと働いてもらわなければならぬ。その為ならばいくらでも都合しよう。正しいことに金を使う

のも貴族の仕事であるが故にな」

 貴人は高らかに笑った。

 確かにこの貴人は全てにおいて気品がある。これが育ちというものなのだろう。人を馬鹿にする様までお上

品なのだから、これはこれで人の作りしある種の最高到達点であるような気もしてくる。

 ただし、おつむの中は五歳児以下だ。何も考えていない事を考えていると認識できる幸せな人生だと思えば、

それはそれで良いのかもしれないが。これが自分達が目指している高位者の地位の末路だと思うとうんざりし

てくる。こんなものになる為に、我々は命を賭けなければならないのか。

「では、失礼させていただきます。次の準備がございますので」

「うむ。必要があれば何なりと言うがいい。遠慮は要らぬ」

「ハハッ」

 とりあえずこの品の良い馬鹿面をこれ以上見ないで済むことが今一番の報酬であろう。

 銀甲冑はうんざりする場を静かに退いた。

 長く広い廊下を抜けて城門を出ると陰鬱な空気も溶け、晴れ渡った空から差す陽光が気分を潤す。

 この街は嫌いだが、この空は嫌いではない。蒼さが違う。

 狭苦しく建物で敷き詰められたこの街の切れ目から見る空は、外で見る空よりも蒼く美しい。

 だから自分はここに来たのだ。

「あの少年の瞳のように美しく澄んでいる」

 つまらない仕事ではあったが、収穫はあった。取り巻きの始末が面倒だが、あの程度であればいずれ物にで

きるだろう。

 不思議と愛おしい。無駄と思える労力さえ厭(いと)わない程に。

「こんな気持ちを抱いたのはいつ以来だろうか」

 あの瞳は全ての気持ちを晴してくれる。

 あの子と居れば、私もこの空のように美しく晴れ渡る事ができる。

 彼は亡き弟に似ている。優しい子だった。その為に死ななければならなかったくらいに、優しい子だったのだ。

 もしかしたらこれは愛ではなく、弟の代替品(だいたいひん)としての彼を求めるだけの心なのかもしれな

いが、それならそれで良かった。代替品さえ手に入れられないこの街が悪いのだ。

 そう、全てを奪っておきながら欲しい物は何も与えないこの街が悪いのだ。

「であればこそ、唯一の代替品を私が得ることは当然の帰結。つまり天の意志である」

 本当は弟の代わりになれる人、それ以上になれる人はこの街にも溢れているのに、自分がただそういうもの

に目を向けず、自分の中で戻らない過去とばかり話し合ってきただけなのかもしれない。

 本当は自分は今も幸せで、それを納得したくないだけなのかもしれない。

 けれど、そんな事はどうでもいい。重要な事は自分は会ってしまったという事だ。ほかでもないあの少年と。

ほかの誰でもないあの少年と出会い、欲してしまった。

 その偶然という奇跡を愛と呼ばずして何と呼ぼう。

 例えそのせいで任務に支障が出ても構わない。それが愛だ。

 全てを擲(なげう)って求めるからこその愛なのだ。

 そしてそれだけ愛しているのだから、愛された相手もその愛に応えなければならない。

 愛故に愛。

「それが愛というものだろう?」

 虚しい問いは誰にも響かず蒼い空に溶けていった。



「ふん、所詮は兵士。血生臭い痴れ者に過ぎぬか」

「ええ、閣下のような高貴なお方が直接お言葉をおかけになるだけでも過ぎた名誉だと言うのに、あの態度。

まったく礼儀を知りませぬな」

 その言葉を聞き、貴人は満足したように品良く笑う。

「まあよい。使える事に違いはない。その点だけはフィードバルトより優れている。あやつが分をわきまえて

働いている限りは相応に遇しておいてやろう」

「さすがは閣下。聡明なお方でございます」

「して、フォルモススよ。首尾はどうか」

「はい、上々にございます」

 フォルモススと呼ばれた黒ローブの男は顔の上半分を影に隠し、その表情を見せる事はない。彼は宮廷に仕

える占星術師の一人であり、それなりに名のある貴族出身者なのだが、以前霧探索において顔に酷い傷を負っ

てしまい、黒いローブで全身を覆い隠すようになった。

 兵士のように身を固める必要もない者が貴人の前で顔を隠す事は非礼に値するのだが、そういう理由もあっ

て彼をとがめ立てする者はいない。以前面白がってその傷を見たがった某が、程なくあまり口にしたくないよ

うな悲惨な目に遭ってからは尚更だ。

 この貴人も気にした風もなく、彼の追従に酔っているように見える。

「しかしさすがでございますな、閣下。深層に向かわせてる兵を表層に戻し、霧生物を掃討させる。これなら

ば被害を受ける事もなく、余計な資金を使う必要もありません。まったくもって神の如き知謀にございます。

この分では、閣下のお望みもすぐに叶えられる事となりましょう」

「ふむ、ついでにフィードバルトめにも一泡吹かせられる、という訳よ」

「返す言葉も見つかりませぬ。私などには到底思いも及ばぬ事にて」

「よいよい。お前が優秀である事は、私が誰よりも知っておる。だからこそ信頼し、こうして側においておる

のではないか」

「非才の身に、過ぎた名誉でございます」

 フォルモススが慇懃(いんぎん)に礼を述べる。多少芝居がかって見えるが、そのくらいの方が貴人には心

地よいらしい。心地良さそうな笑みを浮かべている。

「ほかにも使える者が居れば引き抜いてくるがよい。陛下に願い出れば、その程度の事はどうにでもなる。持

つべきものは誉れある血筋と美しい娘であるな」

 貴人の娘は王の妻の一人。寵愛一方(ひとかた)ならぬと専らの噂だ。

 今の世の中、必ずしも王の言葉が絶対である訳ではないが、常に最も重要な立場にあって、最も発言力が大

きい存在である事は変わりない。王の心を盗る事こそ、貴族の宿願であり、その為ならば下賤(げせん)の女

を一族に加える事も厭わない。

「ナイアス様にも存分に働いてもらわなければ」

「その通りよ。せいぜい父の役にたってもらう。でなければあの程度の血筋の女を妻にした意味が無いという

ものよ」

「閣下のご心中、お察し申し上げます」

「構わぬ。どうせ皆全ては道具。使えるのであれば、多少の屈辱も受け容れよう。女など美しければそれでよい」

「まこと閣下は英雄におわしめされます」

 高らかに品良く笑う貴人の前で、しかしフォルモススの半分は影に包まれたままであった。



「ナイアス様、お父上からのお手紙にございます」

「ありがとう。下がって良いわよ」

「ハハッ」

 近衛兵が退出する。彼女は来る日も来る日も手紙ばかり届けている。そんな事をする為に兵に志願した訳で

はないだろうに、かなしい事だ。

 そしてまた自分もそうだ。父に言われるがまま望まぬ仕事を繰り返している。そこに疑問を抱く自由さえ認

められていない。

 かなしい事だ。

「・・・・・・・・・ふう」

 父からの手紙は増える一方だ。以前から気ままで傲慢(ごうまん)な人ではあったが、今のように政治向き

の話に口を出すような人ではなかったのに、一体どうされたというのだろう。

 陛下も内心呆れ果てているに違いない。

 我が家の格では大臣の地位に就く事など夢のまた夢。今は笑って聞き入れて下さる陛下も、いつまでその笑

顔のままで居て下さるのだろうか。

 父はまるで王の寵愛が不変であるように思っているけれど、そんな女は私の前にも掃いて捨てる程いたし、

これからだっていくらでも現れるだろう。

 人は皆、分を弁えていなければならない。

「あの街に行ってからだわ。お父様がお変わりになられたのわ・・・」

 辺境都市ヴィグリム。霧が現れる前は誰も見向きもしなかった街。それが今や国家の、いや世界の中心にな

ろうとしている。

 あの街にはおぞましいくらいの富と欲望と執念が集まっている。そんな所に居ればおかしくなるのも当然と

いうものだ。

「早くお帰りになるべきだわ」

 王都に戻り、その血筋にあった地位に満足してさえいれば何不自由のない生涯を送れるというのに、何故そ

うしないのだろう。何故過ぎた物を求め続けるのだろう。何故父はああなのだろう。

「何か悪いことでも起きなければよいのですが」

 ナイアスは父の事が心配だった。元々他人に好かれるようなお人ではないし、他の貴族からは王に娘を売っ

た成り上がり者としか見られていない。これ以上過ぎた物を望むなら、彼らはそれを見過ごしはしないだろう。

「・・・・・・・・・ふぅ」

 今の彼女はいつもしなやかなため息と共にある。

 父の手紙はもう読みたくない。そこに幸せな未来は一つとして無い。

 このままではいけない。名誉ある血筋を父の代で終わらせる訳にはいかない。血を存続させる事が貴族に生

まれた者の務めであろう。

「でもどうすれば・・・・・、父が私の言葉を聞いて下さるとは思えない」

 それに父に逆らうなんてはしたない真似、貴族の女である自分に許される事ではない。王がお聞きになった

ら、何と思われてしまうか。

「そうだ、お兄様に相談してみましょう」

 兄もまた父の血を受け継ぐ野心多き人物ではあるが、父のように無分別なお人ではない。兄ならば良い解決

法を考えてくれるかもしれない。

 少なくとも、自分よりは良い判断をしてくれるだろう。

 ナイアスは久しぶりに兄に手紙を書く事にした。

 そしてその返事がくるまでは父からの手紙を開かない事に決めた。




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