巻の一

 吹き荒ぶは風。何処にでもある風。私の心を吹き抜ける風。私は風が好きだ。

 風を身に浴びる度に、まるで生まれ変わったかのように感じる。身体を吹き抜ける風が好きだ。

 涙が出る程では無いが、空を見るよりも、月を見るよりも、星を見るよりも、私は風を浴びる方を選ぶ。

 森林の風ばかりではない。街中の風もいい。時折ふわっと駆け上がる風。新たな力が湧きあがるように、

私には思えるのだ。

 深く暗い闇夜の中でも、風だけは暖かく、或いは冷たく、けれども常に私を護ってくれている。

 指先を口元に当て、目を閉じ、静かに静かに。

 聴こえるだろう、風の音が。風は音そのものだ。美しい。何よりも美しく、穢れていない。

 風は水と同じ。風も命を育む。

 故に私は、今日も生き続けられる。


 ある雨の日。曇り空の合間から降るようなおかしな雨は、どうしても止む事が無く、とうとう家の中に

まで浸入してきた。

 私の部屋は一階にある。逃げ場が無い。

 仕方なく大事な物程上に来るようにして積み、持てる物だけを持って、家を出た。

 鞄とか便利な物は持ち合わせていない。服に入るだけ、身体に身に付けられるだけ。それが私が持ち歩

ける全ての物だ。

 幸い、私の部屋には大した物は無い。調理用具さえ残れば、後はどうにでもなる。

 人が持つ物の中には、買い替えが出来る物の方が、意外にも多い。どれだけ大事な物でも、無くて困る

物でも、案外何とかなる。無くても死にはしない。変わっても大して変わらない。

 本当は引越しや避難など、大した出来事ではないのだろう。逃げれるだけ、幸せというものだ。

 ただ、後始末が途方も無く面倒なのは確か。人はそれが嫌なのだ。そして私も嫌だ。でも仕方が無い。

本当にどうしようもない事とは、天災以外に考えられないのだから。

 しかしこれは天災ではない。つまり自然の行いではない、と私は考える。

 違和感があった。風が濁っている。何かが重い。

 こういう風は病を運ぶ。私にとっては死活問題になる。

 行かなければならない。それが私の仕事という奴でもある。

 仕事と付き合っていく為には、真面目に働く必要がある。

 別に誰の為でもない。ただ、その仕事を続ける為に、やらなければならない。

 嫌なら止めるべきだ。その事で、益々困った事態に陥るかもしれないが、止められるだけ幸せだろう。

 私は止めない。止められない。

 風が穢れる。それは死活問題なのだ。


 交通機関はとうに麻痺している。何処からも何も出ていない。皆避難で忙しそうだ。

 電車だけは使えるのか。私には必要ないので、良く解らない。

 ただ忙しなく騒ぎ立てるその様が、私にはとても楽しそうに見える。

 不謹慎と言われても、大して危機感が溢れているようには思えないのだから、仕方が無い。

 ようするに、その程度の事なのだ。

 だれもそれでどうなるとは思っていない。ただの長雨、大雨、何でも良いが、とにかくただの雨である

と。その程度の事なのだ。

 多分、私もその程度の事なのだ。

 雨はまるでこの街を洗い流すかのように続いている。いい加減嫌にならないか。降らせ続けるのもしん

どいだろうに。それでも続ける心が、一体何処にあるのだろう。

 切ないのか、それとも悲しいのか。或いは理由などなく、たまたまそうするしかなかったのか。

 私には解らない。正直な所、興味も無い。

 これが仕事だからやるだけ。私の為にやるだけ。他には何も感じない。

 ただ風が気持悪く。その事に嫌悪を覚え、少しだけ憎らしくなる。

 水が汚れるように、風も容易く汚す事が出来る。

 自然は自ら浄化し、美しく在り続ける事が出来るが。今のように邪魔者がいるとそうもいかない。

 なかなかに腹立たしい事だ。

 そうだろう。腹立たしい事だ。

 だが怒るのは無意味。解決しなければ、それは終わらない。だから私は、私は自分の為にそれをする。

 仕事だからだが、理由とやらは二つある。

 しかし理由があったから何だと言うのか。それで何かが変わるのか。

 人はそれが欲しいのだろう。ならば私も喜ぶべきだろうか。

 嬉しいのか悲しいのか、自分でもよく解らないのだけれど。


 問題は海か山かだ。

 貴方ならどちらがいい。

 それともどちらも嫌なのか。

 残念な事に、私には何もしてやれない。それは私が決めた事ではないからだ。

 その存在が決めている。

 実の所、それが何者なのか、本当は何なのかは、私も知らない。もしかしたら、知る事が出来たのかも

しれないのだが。私はそれを怠った。

 すまない、面倒だったのだ。

 だってそうだろう。一々他者の事を気にかけていては、自分の身がもたない。

 あちらだって私の事など知りもしないのだから、お互い様ではないか。

 解っている。自分勝手な言い分だということは。

 だからもう止めよう。無駄に言い訳を重ねる事を。

 代わりにこの雨を止めよう、それで良いのだろう。ああ、それで良い筈だ。


 形として私には見える。

 存在としては知らないが、形としては私にも解る。

 泣いている、雨が。

 あまりにも多い涙は、自然を持ってしても、雨として処理するしかなかった。

 それ以外に違和感無く解決する方法がなかったのだろう。

 多分そうだ。いや、正解も不正解もどちらでもいい。大して変わらない。

 他にやろうと思えば、川を造る方法がある。湖を造っても良いだろう。

 しかしあまり変化が多すぎれば、自然もその変化に苦痛を伴う。自然としてもそれは嫌なのだ。私も多

分嫌だ。誰でもきっと嫌な筈だ。

 だから雨にした。他者は関係ない。自然にとって、多分それが良かったのだ。

 あくまでも予想だが、無意味に私は考えてみる。

 退屈なのだ。

 だからそれはいい。それは問題ではない。今問題なのは、この何か。

 仕事を忘れた訳ではない。私は作業は怠らない。

「ウォオオオオオン、ウォオオオオオオオン」

 鳴く、泣く、啼く。どのように表現して良いかは解らないが、私にはそれも形として解る。

 存在そのものは知らない。しかし確かな形として、私の五感に伝わってくる。

 少し気持悪い。

 しかし今は耐えよう。もう雨は飽きた。

 それは丸く、艶々した表面に、柔らかい羽毛が生えている。

 四足の獣で、顔先が細長く、まるでバクのようだ。

 羽は無い。ただ羽毛がある。

 本当はそうではないのだろう。単に私の想像だ。安直な空想なのだ。

 白く、穢れの無い色で、そいつはいつまでも不可思議な音色で泣いている。

 風の音が崩れる。不協和音。私は乱されるのも嫌いだ。

 だが認めよう、今は。

 怒るまい、今は。

 私の仕事は直接手を下す事ではない。私は触れる事も出来るが、それをしようとは思わない。ただ消せ

ば良いとは思わない。全ては理由があって誕生するのであり、その理由を埋めない限り、またいつまでも

この形は生じよう。

 この安直な獣を、私の想像力の欠如を、そんなものを見続けるのも嫌だ。

 同じ事を何度もするのも嫌だ。

 くだらなさすぎる。この想いは、とても無意味。

 単純作業は嫌いではない。しかしまったく無意味に繰り返す事に嫌悪している。

 自分が可哀想になる。泣けない獣、それが私。

 だから慰めよう。私の手で。

 この獣を、泣くだけの獣を。

 その時まで慰めたい。慰めなければならない。

 嫌でも、そうするしかない。

 私には、そうする事しか、出来ないのだから。

「ウォオオオオン、ウォオオオオオオオン」

 涙する獣を、出来る限り優しく撫でる。

 獣は泣き続ける。私も撫で続ける。

 意思疎通は出来ない。ただ気持ちを送るだけだ。私にはそれしか出来ない。

 他にはしようとも思わない。

 ここでは言葉も無意味。優しさだけがそれを埋める、おそらくは。

 私の空想を、私の優しさが埋める。

 しかし現実にはそうではない。あれは確かにそこに在る。

 だからいい。私は哀れではない筈だ。

 だからどうなのか、本当の所、私にも解らない。ただ他に方法が無いからそうしている。

 すると結果が出る。おかしなものだ。

 優しく、撫でる。

 たまに全身で抱えるように抱き、優しく囁きかける事もある。

 だがそれ自体に何の意味も無い。そこに篭るモノが重要なのだと、それだけは知っている。

 形なのだ。形が大事なのだ。

 そしてその形を形成し、宿るモノが、それを埋める、それを治める。

 漠然ではない。確固とした何かが、必要だ。自然と、同じように。

「ウゥウ、ウゥ」

 どうやら治まってきたようだ。

「さあ、お還り」

「ウォーーーーーーン」

 そいつは一声高く泣くと、そのまま染み入るように大地に消えていく。

 浄化されたのかは解らない。しかし満足はしたようだ。

 ならば、それでいい。

 消えたのなら、それでいい。


 地下水路の工事によって、本来流れていた地下水脈の流れが、不適当な場所へと変えられてしまってい

たらしい。

 そのせいでその場に水が溜まり、しかしどこにも行く当てがなく詰まってしまい。その水はあらゆるも

のに汚された。

 水も風も停滞すれば汚される。常に流れ続けなければ、浄化する事は出来ない。

 そして何処かと繋がる事が、水脈にとっても重要なのだ。

 自然とは循環を意味する。

 その捌け口が別の所に、別の形となって現れぬ内に、我々はそれを鎮めなければならない。

 工事を請け負った企業に伝え、雨が治まっている間に、その流れを戻すように言っておいた。元に還す

事は不可能でも、水の道を曲げ、繋ぎ直す事は出来る。

 面倒だが、それだけが解決法。

 工事の計画としても、その水は不適当だった。だからすぐに許可が出たらしい。人は利に聡い。いや、

利に憑かれている。

 それでも役立つ時もある。あれはもう現れないだろう。

 多分、気が済んでいる筈だ。

 再発を心配する必要は無い。あれが出てくる事など、よほどの事なのだ。

 今回で言えば、あのまま水が溜まってしまうと、元あった流れが枯れてしまい、地盤沈下が起こる。そ

の規模は大きく、この街を丸々すっぽりと沈めてしまう。

 企業が逆らえば、そうなっていた。だから再発を心配する必要は無い。人は人災だけを恐れていればい

い。その方が人の為になる。

 自然に、ああいう別の形で浄化しなければならない事態になる事は稀だ。自然を気にする必要は無い。

自然は人の子供ではない。人がいなくとも問題なく生きていける。

 私は知っている。だから安心するといい。

 自然がどうなろうと、自然自体はどうとも思わない。ただ、人が苦しむだけだ。

 それでも自然は親切に、常に警告してくれている。それに逆らい、無視しなければ、私の出る幕もなく

なるだろう。

 ただ、人は盲目になっている。それだけが心配であり、だからこそ、私が居るのだろう。

 何故人の心配をするのか、誰が心配しているのか、私には解らないけれど。

 誘いに応えなければ、救いはある。

 他の何かはいい。人は人を救え。


 久々に見た太陽は眩しく。私は雨が少し懐かしくなった。




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