巻の二

 風が震え始めた。

 何かの予兆なのか、気まぐれなのか、それは解らない。

 しかしどうなっているにせよ、私にとっては死活問題だ。

 私自身が震えの中でずたずたに切り裂かれてしまうような、そんな気がする。

 だから鎮めなければならない。

 私の手で。

 できるなら。


 異変が起きたのはあの日の昼前。太陽が高く高く昇りきる一歩手前だった事を覚えている。

 厚い雲が空を覆っていたが、大した問題ではない。

 雨も降っていたが、以前のように異常な感じは受けない。

 ただ風付きが違っていた。

 やわらかく、時に激しく、風には色々な顔がある。

 それは私が一番知っている。

 でもその時の風は違った。

 まるで誰かから逃げ出すように、鋭く、焦るように荒れ、あるはずの包み込むような優しさを感じない。

 冷たく苦しく、私もしばらくは動けなくなった。

 もがくようにしていると少しずつ引いていったが、今でもその時の感触が残っていて気持ち悪い。

 内側をはわれるような嫌悪を感じた。

 耐えられるくらいに慣れたが、それは良かったのかどうか。

 蒼く突き抜けるような空はまるで危機感を持っていないのに。

 風だけが焦っていた事に、焦りを感じる。

 雨があがった後もそれは続き。

 空気が曇ったようにも感じた。

 それを払う為に強く吹きすさぶのか。

 それともそれから逃げているのか。

 私から風が離れていくようで、恐怖心のようなものを覚えた。

 それから今までずっと震えている。

 私の心も震えている。

 わずかでも、しっかりと。


 風が穢れた訳ではないが、犯されれば私の力は衰えてしまう。

 密接には繋がっているからだ。

 お互いに無関心ではいられない、そんな仲と言えばいいか。

 だから風が助けを呼んでいるのだ、と人は言うのかもしれない。

 でもそんな関係ではない。

 その風は私には無縁だと、突っぱねる事さえできただろう。

 だから気にしない訳ではないが、放っておいた。

 謝るべきだろうか。

 しかし誰に謝ればいい。

 私は誰かに責任を持っているのか。持たなければならないのか。

 誰かが私にそれだけの何かを与え、もしくは奪っているのだろうか。

 いや、止そう。今となっては言い訳にもならない。

 自分に対する言い訳にすら。

 力が衰えた事は確かで、それが使えるまで回復するのに、多少の時間がかかった。

 その間にどれだけの被害が出たのだとしても、私には関係ない。

 だって、そういうものだろう。


 力が回復しても、形が見えなかった。

 不思議なのか、そうではないのか。

 風にはどうしても逆らい難い所がある。

 密接に関係しているからこそ、解らない事もある。

 風はいつもそこにあるからこそ、特別な形としては見えないのかもしれない。

 いや、言い訳か。

 この違和感を形にできるなら、多分見えていたのだろう。

 そうならないのは、私が怠ってきたからだ。

 今になってそれを思う。

 が、悔いてはいない。

 私が全てを追う必要はないはずだ。

 それに手がかりはある。

 形そのものは見えなくても、その残留は見える。

 流れとしては見える、と言い換えていいのだろう。

 だからそれを追えばいい。

 風が逃げているのか、追っているのかは解らない。

 でもその方角は解る。

 ならば追えばいい。そういう事か。

 なら、せめて急ごう。

 そう思い、急いだ。


 山と山の間を抜けていく。

 風は海から来る。

 だから海に出る事は無い。

 山に反射して海に降りる風はあっても。

 今は関係ない。

 追うにしても逃げるにしてもそれは変わらない。そのはずだ。

 風は風。行く方向はいつも同じ。

 そう決められている。

 他でもない、風自身によって。

 それが狂えば全てが狂ってしまう。

 狂えば私が困る。風も困る。だからそれをしない。

 そう決めたのだ。

 遥か昔に。

 そう言われている。

 本当の理由は誰も知らない。

 私もまた知る事を怠った。

 意味が無いからだ。

 それを知る事で全てが解決するなどと、誰か言ったのか。

 そんなものはどこにもありはしないというのに。

 人は勝手だ。

 しかし風も勝手だ。

 お互い様だと、二人とも言うだろう。

 それでいい。

 登りもせず降りもせず、風は山間を抜けていく。

 人ごみの中をするすると走り抜けるように、風は巧みに翔けていく。

 私では終えそうにない。

 でもいつかは突き止められるだろう。

 全ての流れには終わりがある。

 循環はそういう意味ではない。

 終わりは必ずある。そして再生もある。だから循環という。

 全てが同じようにいつまでも回り続ける。そんなものは存在しない。

 終わりなく、変わりない。そんなものはあってはならない。

 少なくとも、自然界には。

 だから、それは関係ない。

 そう思っていいはずだった。


 迷い子を見付けた。

 山間の奥のそのまた奥。

 もうどうしようもない場所に、それでも抜け出そうと必死にもがいている風。

 それが大気全体を微妙に震わせ、結果として全てを震わせる事になっていたのだろう。

 落ち着かない、常に心が揺さぶられている。

 それがこの風の正体か。

 実体としては見えないが、力としては見える。

 せめぎ合っている。

 誰かが追っていた訳でも、誰かを追っていた訳でもない。

 風は風を追っていた。

 例えば猫が自分の尻尾を追うように。

 風もそれを追っていた。

 何度も何度もぶつかり、幾重にも分かたれた風。

 そのそれぞれが別の自分を追っている。

 そしてまたぶつかり、分かたれ、せめぎ合う。

 それがこの現象の正体だった。

 解れば単純なものだ。

 それはそれでいい。

 不思議だったのは、この場所に人の手が加わっていないという点だ。

 誰かが無理に変えた訳ではない。

 元々こうあって、自然のままに変化してきた。

 だから本来は風溜まりができるような事は無いはずなのに。

 現実には空を震わせるくらいに強くもがいている。

 どこにも抜けられず、知っているはずの道で迷っている。

 これはどういう事なのか。

 解らない。でも解決する方法は知っている。

 今までとは逆に、人の手を加えるのだ。

 新たな道を気付き、風を流す。

 そうすれば自然と治まるはずだ。

 不思議だが、そんな事もある。

 私がなだめる必要は無い。

 風にはただ、逃げ場所が必要だった。

 いついかなる時、場所であっても。

 それが変わらない真理という奴。

 私では救えそうにない。

 必要な力の質が違う。

 でもその想いは、今の私に心地よかった。

 哀している。

 そう思う。

 誰よりも。


 以前世話をした事のある企業に頼んでおいた。

 初めは取り合わなかったが、その事が様々な面に不利益を与える事を知った後は、行動が早かった。

 言葉を重ねる必要は無い。

 そうと知れば、そう動く。

 人もまた自然の一員なのだから、同じ事だ。

 それを否定しようが構わない。

 やる事は同じ。誰が認めようと認めまいと変わらない。

 私はそういう世界に生きている。

 無慈悲だが、心地いい。

 そう思う。

 そう、思わないか。


 風は程無く治まった。

 無形の力が今日も流れていく。

 もう震えを感じない。

 何故不自然な事が起きたのか。

 その理由にもどうやら察しが付いた。

 人はやはり変えていたのだ。

 地形ではない、風の流れる方角、高度を変えてしまっていた。

 風はこの星の呼吸のようなもの。

 人と同じように、体調が変わればその流れも変わる。

 強く、弱く、速く、遅く、様々に変える。

 自然もまたそれに応じ、姿を変えて風の通り道を作る。

 しかし自然の適応力は驚くほど小さい。

 いや、その言い方は適当ではないか。

 遅いのだ。適応するまでには長い時間を必要とする。

 だから急激な変化に付いていけず、あのような風溜まりが生んでしまった。

 敏感に変化する風は、この星全てから拒絶される事になった。

 私が知らないだけで、世界中にはこのような風溜まりが生まれ、今も生まれ続けているのだろう。

 そして人はその風に追い立てられるように生きている。

 心の震え、風によって無理矢理震わされるそれを焦りと感じ、人は今日も慌しく不安なまま生きている。

 それを防ぐには地形の方を強引に合わせなければならない。

 それもまた歪みを生じるとしても、いつかは新しい自然の流れ、風の通り道が通るだろう。

 でも世界中でそれを行なう事は不可能であるし。

 私には関係のない事。

 また近くに感じれば、それを探り、解決させるだろうが。

 それだけだ。

 私は私の周りの事だけでいい。

 それを非難される覚えは、誰にも無いはずだ。

 私もまた同じ。

 それでも言いたい事があるなら、別の私を探すといい。

 私はどこにでもいる。

 正確には違うが。確かにどこにでもいる。

 そこがどんな場所であっても、どんな時代であっても、決して私が居なくなる事は無い。

 それを救いと呼ぶか、恐れを抱くかはどうでもいい。

 そうあるべくしてある。

 私もその摂理に従っている。

 協力的であろうと、非協力的であろうと、望めば救ってくれるだろう。

 私はその想いに応じるしかないのだから。

 でも救いを求めてくるまでは、どの私も動く事はない。

 だから大抵は最後の時になって、一斉に動かされる。

 手遅れになってから。

 人はいつも遅い。立ち上がるのは、いつも間に合わなくなってからだ。

 いつも助からない。

 防ぐ事ができない。

 それは気付いた時が遅いのではなく。

 人がそれを望むのが遅いからだ。

 今までもそうだった。これからもそうなのだろう。

 永遠にそうやって、愚かに生きていくのだろう。

 そして私もまたその生に愚かに付き合わされるのだろう。

 人は、人が救え。

 望め、行動しろ。

 そう言い続けて、どれだけの時が経ったのだろう。

 その効果が無い事を知っていながら。

 私は呪いでもかけられたように、それを繰り返している。

 逃げられない。

 逃げるつもりもない。

 でも熱心にそれをやる義理もない。

 散漫に警告を繰り返す。忘れられると知りながら。

 私の生はそういうものだ。

 そう知った時に、そういう事になってしまっていた。

 誰も、きっとそうなのだろう。

 虚しいとは、そういう事だ。


 懐かしいはずの穏やかな風を感じながら、私はその風にどうしようもない違和感を覚えた。 




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