痛花


 人が痛みを感じると、蕾が生まれる。そしてその痛みを吸い取って、花開く。

 そんな奇妙な花がある事を知っておられるだろうか。

 その花は柔らかな色で、とても痛みで育ったとは思えない程、綺麗で愛らしい姿をし。その匂いは我を

忘れる程だという。

 あくまでも噂。

 その真偽は解らない。

 もしかしたら作り話なのかもしれない。

 傷が治ると痛みが癒えていく。それを不思議に思った人が、そういう噂を創って広めた。

 そうかもしれない。そうではないのかもしれない。

 その花が咲く場所も誰も知らない。

 噂ではそこは神の住む島だという。

 一説にはその花が不老不死の木の実を宿すのだとも言われている。

 嘘と言う人は多い。でも信じている人も居る。そして本当の所は誰にも解らない。

 そんな場所に辿り着いたとしたらどうだろう。

 自分が居る場所を、信じられるだろうか。

 しかし今、私の目の前に広がるこの景色が嘘ならば、私は昼間から夢を見ている事になる。

 嵐に遭い、船が沈み、流された末に運良く辿り着いた場所。

 ここは地獄か極楽か。

 私はもう死んでいる。そう思う方が解りやすい。

 だが私の全身を包んでいる痛みが、それを否定している。

 しかし何という不思議な植物なのだろう。

 吸い寄せられるかのように近付く。

 枝が刺々しい。触れられるのを拒んでいるのか。いや、私を拒んでいるのかもしれない。

 私に付着している塩が嫌いなのだろうか。

 手を伸ばそうとすると、すっと棘が伸びる。触ればこの棘に貫かれてしまうだろう。

 この植物は今まで見た事のあるどんな木とも違う。

 でも酷く懐かしい。

 一度も見た事が無い筈なのに、いつでも見ていたような気がする。

 これは私の痛みへの懐かしさなのだろうか。

 以前吸い取られた私の痛みが、この何処かに咲いていて、それを酷く懐かしく思うのだろうか。

 痛みが懐かしい。これは酷く奇妙な感覚だった。

 痛みなんて、誰もが忘れたい筈なのに。それが懐かしい。

 不思議だ。

 木に花が無数に咲いている。蕾んでは開き、枯れては朽ちていく。

 枯れた花が吸い取った痛みは、どうなるのだろう。

 一緒に消えてしまうのだろうか。

 それとも帰ってくるのだろうか。

 解らない。でも帰ってくるような気がする。

 我々はいつも痛みを感じている。一度癒えればもう戻ってこないのなら、こんなに苦しむ事はなかっただ

ろう。

 それとも痛みもまた枯れるのか。

 心が忘れるように、身体もまた忘れるのだろうか。

 そうかもしれない。そうではないのかもしれない。

 この花を見ていると、どうして良いのか、解らなくなる。

 どこまでも花が咲いている。それが全て人の痛みだとすれば、確かに忘れてしまわなければ、生きていら

れないと思った。

 花へ手を伸ばす。

 簡単に触れられた。枝は棘を伸ばさない。

 しかし花びらに触れた瞬間、痛みが触れた指先を走る。

 痛み。この痛みは誰のものなのだろう。

 懐かしくない。新鮮な痛み。

 酷く狼狽する。

 まるで自分が他の誰かになってしまうかのように、その痛みは持ち主をはっきりと覚えていた。

 やはり帰るのだろう。でなければ、覚えている必要は無い。

 それともこの花は痛みを思い出にするのだろうか。

 もしかしたら、痛みではなく、思い出が欲しいのかもしれない。

 他人の思い出を得る為に、この花が痛みを吸い取ってくれているのだとしたら、なんて哀しい花なんだろ

うか。

 これ以上に哀しい事があるだろうか。

 他人の痛みでしか、思い出を作れない。

 涙が流れる。

 私の目から一筋の涙が流れた。

 でもそれは、花に触れたせいかもしれない。

 この誰とも知らぬ痛みのせいなのかも。

 心はどこか他人のままで、自分の感情を上手く捉えられない。

 酷く不恰好な心が、この花に似ている気がした。

 蕾は他人の痛みを知って、美しく咲く。

 私は他人の痛みを知って、不完全になる。

 痛みは分け合えない。私が痛いだけだ。

 花はどうなのだろう。

 痛みが記憶、痛みだけが自分である証。

 そして花開き、いずれ枯れる。

 それは一体誰の一生なのだろうか。

 花か、それともその痛みなのか。

 解らない。私には何も解らない。

 試しに蕾に触れてみた。

 枝は今回も反応を示さない。まるで死んでしまったかのように。

 蕾からは何も伝わってこなかった。

 多分、まだ痛みがはっきりとしていないからだろう。

 はっきりとしていないものは誰にも伝わらない。少なくとも、伝えたい事は。

 蕾は揺れ、その姿が笑っているように見えた。

 私を笑っていたのか、何か楽しかったのか、蕾の気持ちはよく解らない。

 それは笑う赤子のようだった。

 もう一度枝に触れてみる。棘が伸び、激しい痛みを感じた。

 するとその枝に蕾が一つ生まれた。

 その蕾に触れると、その蕾もまた揺れて笑っていた。

 手が痛い。この蕾が花開く頃、私の痛みは癒えるのだろう。

 でもそれは傷が癒えるのと同じく、時間のかかる事なのだろう。

 人が成長し、亡くなっていくのと同じく、花もまた花自身にとって長い生涯を辿る。

 そしてこの花の数だけ、それはあるのだ。

 この先を進めば、私の痛みに逢えるのかもしれない。

 今はもう忘れた筈の、あの痛みに。

 優しい風が芳しく、私の心を吹き抜けていく。

 花が揺れ、花びらが舞う。

 懐かしい匂いがした。

 私は酷く、あの痛みが懐かしい。

 今はもう、忘れた筈のあの痛みが。




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