ローレライ


 遥けき海、その流れの一端をなす一条の川。その川のもっとも細く、無数に岩礁を内包する場所。

 その名はローレライ。船乗りの墓場、ローレライ。

 霧に覆われ、姿無きその場所は、無数の破滅が眠っている。

 その地には魔が宿る。破滅へ導く魔が宿る。

 美しき声、それに誘われれば、逃れる事など出来ない。

 今日も船乗りを呼ぶ声が聴こえる。歌が聴こえる。

 そこに住むは悲恋の女。歌うは不実な男に嘆いた悲しみの調べ。

 まるで全ての男に復讐するかのように、その声だけが船乗りを誘い、そして船と共に川面に沈める。

 霧深き岩礁の巣窟に入った船は、決してそこから出る事はない。

 沈み、船乗り達の墓標となる。

 船乗りを呼ぶ悲恋の女。

 憎しみのみで生きる魔となり果てて尚、その姿は生前の美しさを保っている。

 いや、生前のそれを越えた、人ならぬが故の、怪しい逃れ難き美しさだという。

 その姿を見て生きている者は居ない。その姿を見た者は皆、川面へと沈む。

 しかし美しい事だけは解っている。何故かは解らない。そうであるべきだから、そうと云われるのかも

しれない。

 美しきその声が、その姿を美しく駆り立てるのだ。

 怪しき調べ、破滅の歌。

 美しき娘の恨みの声は、未来永劫消える事はない。

 そしてその声に宿った魔力も永遠に消える事はない。

 それは祝福ではない。絶望した女に与えられた情けの念ではない。

 絶望し、絶望に身を任せるしかなかった憐れな女への罰であり、呪いである。

 今日もまた嘆きの美声に誘われ、一隻の船が破滅へと導かれる。

 しかしその船に乗っていた美しき青年。彼のみはその命を救われた。

 沈む船の上、助かる道は無いと思えたその中で、彼一人のみは助けられた。

 決して助かる筈の無いローレライ。その中で、彼だけは救われたのだ。

 美しき化物ローレライの乙女。あろう事か、彼女に見初められたのである。

 昔恋した男に似ていたのかもしれない。

 昔夢見た恋をその青年に見たのかもしれない。

 何故その青年だったのか。それは誰にも解らない。

 だが彼は助けられた。他ならぬ破滅の乙女の手によって。

 青年も乙女に恋をした。海魔の怪しき美貌に、彼もまた囚われたのである。

 船乗りを破滅に導く為の美しさ、それは餌でしかないとしても。美しさには変わりない。

 薄れいく意識の中、ほんの少しだけ目に映ったその女に、青年は深く愛を抱いたのである。

 それは命を救ってくれた事への、感謝の念も含まれていたのだろう。

 青年は毎日朝から夜更けるまで、川辺に立って、その場所を見詰め続けるようになった。

 決して見えはしない霧の中。彼はいつまでも眺め続けた。

 女も青年を見ていた。霧の中、決して彼から見えない場所で、しかし時間が消えるまでいつまでも見詰

め続けていた。

 その視線が合う事は決して無いとしても、二人はお互いを、お互いのみを求めていたのである。

 女はなんとしてもその心を伝えたかった。

 やり直せるかもしれない。あの青年となら、失われた幸福を取り戻せるだろう。

 しかし姿を見せる事は出来ない。彼女はこの霧の中でしか、生きられないのだから。

 ローレライの外へ届くのは、唯一彼女の呪われた声のみ。

 その歌声だけならば、霧の外へも届く。青年にも届く。

 だがそれを歌えば、青年はこの霧の中に誘われる。死に向う。

 霧の中には破滅しかない。

 青年は今度こそ死ぬだろう。ローレライの乙女でも、二度もその呪いから助ける事は叶わない。

 ローレライはもう二度と青年を見逃さないだろう。

 もしかしたら、この苦しみ、決して伝えられぬ、そして逃れられぬ想いを彼女に抱かせる為に、この呪

われた場所が、初めて人間を助ける事を許したのかもしれない。

 そこにあるのは罰、永遠の苦しみ。

 伝えたい想い。だが伝えれば青年は死ぬ。

 誰もこの呪わしき歌からは逃れられない。

 青年はただ、呪われた女が苦しみ続ける事で、その命を許される。

 そして青年が生きている限り。決して遂げられぬ想いに、その身を焦がすだろう。

 彼もまた、罰を受けている。ローレライの乙女に恋をするという罪の罰を。

 青年は永遠にその場所からこのローレライを見詰め続けるだろう。

 永遠に遂げられぬ想いを抱えたまま。

 当ても無く、望みも無く。

 その前に女がその想いに屈するかもしれない。

 そして歌う。その時が青年の最後の時。

 女は再び絶望に沈むだろう。それもより深い絶望に。

 それこそがローレライの望み。ローレライの与える罰。

 この美しき川へ、美しき場所へ、絶望という心をもたらした罪は重い。

 ローレライは決して許さない。

 例え神が許したとしても、ローレライは許さない。

 この穢れ無き川を、絶望に染めたのは人間ではないか。

 この美しき川を、呪われし場所と云ったのは人間ではないか。

 船乗りの墓場。そう呪ったのは人間の方ではないか。

 ローレライは許さない。

 自分を穢した人間を、決して許さない。

 一度穢れた場所は、永遠に浄化される事がない。

 呪われた場所として、永劫の時を過ごす。

 ローレライは穢されてしまった。

 ローレライは許さない。

 人の恋を許さない。

 人の心を許さない。

 それがこの世に在る限り、ローレライは罰し続ける。

 哀しき場所ローレライ。

 ローレライ。

 ローレライ。




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