愛する事を断念する理由


 愛という言葉、愛という意味の何と解り難い事か。

 人に求め過ぎるが為に幻滅すると言うのであれば、人ではなく自分に求めればいいと私は考えていた。

自分にさえ確かな物があるなら、それは上手く行く筈だと。それはお前の問題であり、人ではなく自分に

求めるものだと私は教えられ、自身でもそれを悟ったような気になっていた。

 人にそれを求める前に、まず自分がそれを見せるべきであり、人にそれを期待する事がまず間違いであ

るのだと。

 自分には自分があるように、他人には他人の思いがある。だから我々は夫婦となっても今までの関係を

壊す事無く、結婚する前の関係、つまりは一番身近な他人であり続けるよう願い、実行した。妻もまたそ

ういう信者であり、自分というものに誇りを持ちたがる心が強い人間であったので、望むところだとでも

言う風に、率先してそれを行っていたように思う。

 我々は夫婦であるがそれぞれの生活を別し、夫婦というよりは同居する友人という風を目指した。

 夫婦という繋がりに拘るよりも、自分という心をこそ大事にしたのである、お互いに。

 人は我々を理想の夫婦、いかにも現代的な、そしてこれから人が向かうべきであろう姿だと賞賛した。

我々も喜んだものだ。妻と私、どちらもにこやかに微笑み、その賞賛の声にいかにも相応しい人間である

かのように振舞った。そして実際そうである事を全く疑わなかったのである。

 しかし不思議な事に、その喜ぶべき事が我々の間を永遠に隔て続けた。一人一人が独立し続けるならば、

初めから夫婦という絆など必要なかったのだとでも言う風に。

 我々は我々の望み通りいつまでも他人であり続け、いつまでも家族となる事はなかった。

 我々は確かにお互いに敬意を払い、他人であるからこそその間に礼儀を失う事もなく、そういう点では

非常に上手くいっていたといえる。それは保証してもいい。

 しかしどんなに上手い関係を気付けても、我々はどこまでも他人でしかなく、その壁を崩す、或いは新

たな物に作り変えない限りは、我々が家族となる事はなかったのである。

 初めそれに気付いたのは妻の方だったと思う。そしてある時私にこう言ったのだ。

「もうこんな事は止しましょう、あなた」

 しかし私には妻の気持ちが理解できず。馴れ馴れしくなってしまえば夫婦の間は不味くなり、そのよう

に他人に何かを求めている限り、その組み合わせは必ず破局するという観念から。

「いや、それはいけないな。我々はこうあるべきなのだ」

 と答え、決してこの生活を変えなかった。私は恐れていたのである。それが変わる事によって、最も忌

むべき結果が訪れるのを、今の関係が崩れてしまう事を。

 それを回避できるのであれば、それ以外の何を犠牲としても、それは問題ないと思えたのだ。

 そんな私からすれば、妻の言葉も愚かな妄言としか思えなかったのである。それにこの生活は彼女も結

婚前から口をすっぱくして言っていた事なのだ。私達はああいう風にはなりません、いつまでも今のよう

に愛のある恋人同士のように、美しく歳を重ねていくのです、と。

 私が妻の提案を断ってから暫くは何事も無く過ぎ去り、季節が何度か変わった。私もそんな事があった

事は忘れてしまっていた。変わらぬ夫婦生活は続き、表面上は何事も無く過ぎていく。

 だがその頃からだったろうか、少しずつ妻の様子に変化が見られ始めた。私を避けるとは言わないが、

どこか違う。外出が多くなり、私と居る時間が減り、他の友人と会う時間が増した。帰宅が深夜に及ぶ事

もしばしばあったものだ。

 私はしかしその事を喜んだものである。妻は個人としてより深まり、妻は妻としてよりも彼女という一

人の人間としての要素を強め、これによって我々の結婚生活も安泰となるだろうと。

 例え共に居る時間が減ろうと、妻の生活が変わろうとも、私が妻を愛している事には変わらない。それ

は私が一番解っているのであり、それだけが確かなのだから、それだけで何も問題はない筈であった。

 だがそれこそが大きな間違いだったのである。

 時を経る毎にその傾向は強くなり、一日に一度も顔を会わさない日も増えてきた。お互いの生活が重な

る事はなくなり、同居人というよりは隣人と言って良い程希薄なものに姿を変えていた。

 それは決定的になり、ある日妻が耐え切れないように私に告げたのである。

「私、好きな人ができたの。あなたとはもう居られないわ」

 私は勿論驚き、こう答えた。

「それはどういう意味だい」

 しかし彼女はもう何も言う事は無いと言う風に、あっけなく私の前から去って行ってしまった。今では

もう何処に居るかも解らない。共通の友人も私の居る前では決して妻の話題を持ち出す事はなくなった。

そう、妻は確かに私の側から消えたのである。

 私は妻を捜そうと思ったが、それもまた求める事だと思い直し、自分の愛が足らなかったのだと、今ま

での自分の生活を振り返ってみた。私の心さえ確かならば、決して二人の絆も揺らぐ事はない筈である。

 それは妻も信じていたのだから、間違いはない。妻の心などは問題ではない筈だ。全ては私という個人

の問題であり、妻という他人には関わりの無い事の筈である。我々はそう信じていたのだから、間違いで

ある訳がない。

 だがどう考えても私には解らなかった。私は確かに妻を愛している。それは間違いない。なのに何故、

我々の関係が壊れてしまったのだろうか。私は妻に何一つ求めなかったというのに、何故妻は離れてしま

ったのか。妻を妻という入れ物に押し込む事はせず、妻を一人の人間、一人の他人であるように結婚前と

同じ扱いをしたというのに。

 自分の中で確固として愛す関係、いつまでも結婚前と変わらない関係、それはとても居心地が良く、人

が望む理想の夫婦ではなかったのか。

 私は何一つ間違えていない。妻もおそらく何一つ間違えていない。我々はそのように振舞い、そのよう

に過ごしてきたのだ。そこには何一つ間違いはなかった。

 では一体何が間違っていたのだろう。或いは何一つ間違っていなかったから、こうなってしまったのだ

ろうか。

 私は悩み、それでも解らず、ある友人に相談してみる事にした。彼は以前から我々とは違う考えを持っ

ていた。もしかしたら私とは違う考えを教えてくれるかもしれない。

 私が教えを乞うと、彼は呆れたようにこう言った。

「それは君達が他人だったからだよ」

 私は益々解らなくなった。愛すべき隣人であり友人であり他人。そういう一歩引いた関係を、まとわり

つかない冷たい関係を、妻も望んでいたのではないのか。どちらがどちらを支配するというようではなく、

どちらがどちらに頼りきるという事でもない、お互いに独立し続けるという素晴らしい関係を、妻も望ん

でいたのではないのか。

 すると友人はそんな私の言葉を聞き、今度はこのような事を言った。

「人の言う事の全てを真に受けてはいけないよ」

 解らない。我々は何でも遠慮なく話し、そうであるからこそ深く分かり合えていた筈なのだ。彼女は私

に自分の話を聞く事を望んだ。私も私の話をする事を望んだ。独立心の強い人間にはそれは当然の事だと

思えた。だから我々は親身になってお互いの話を聞き、助言をし合い、時には反論もした。しかしそれこ

そ望まれるべき形ではないのか。お互いの話を詳細に聞きあう事、全てを受け止める事が必要な事ではな

かったのか。

 人と人が解り合う為に、何の遠慮もわだかまりもなく話し合う。それが重要ではなかったか。

 私には友人の言葉は何一つ解らなかった。何か心に響くものがあったような気もしたが、結局何も解ら

なかったのである。

 私はやはり他人に求めるべきものなど何一つないのだろうと考え、その友人とも離れ、一人になって考

える事を続けた。何年も何年も考え続けた。我々の、いや私のあるべき姿とは一体どのようであったのか。

我々はどうすれば、何を目指せばよかったのか。

 だがいつまで経っても答えは出ず、良く解らない悩みだけが頭の中を蠢いては積もっていき。息苦しさ

だけが増し、絶望が強まっていく。

 もう愛するという事を断念するしかない。人に求めても駄目、自分に求めても駄目。これでは人をどう

愛すれば良いのか解らない。これは諦めるのに充分な理由である。

 私は考える事を放棄し、再び他人の側へと戻る事にした。

 結婚前の生活に戻り、友人と語らい、女性と楽しい時間を過ごした。妻が愛していた頃の私に戻れば、

何かが見付かるのかもしれない。あの頃は確かに二人には愛があったのだから。

 しかし怠惰な生活の内にそのような悩みもいつしか失われていき、私はそのような悩みも忘れてしまっ

た。全ての思考は無意味なものとして剥がれ落ち、素直な私に戻ったのである。

 そうして思い浮かんだ事がある。私は確かに間違っていた。人に求めるのも、自分に求めるのも、誰か

に求めている事に変わりない。夫婦という間柄に幸福を求めるのであれば、個人ではなく夫婦にこそ求め

るべきだったのだ。

 私は愚かな程に個人に拘り、結婚すれば当然変わる筈の関係を変わらなくしようとした。それはつまり

結婚しないと言う事なのだ。だから幸福な夫婦を夢見ていた妻はいたたまれなくなり、私のもとを去るし

かなかったのだろう。我々の夫婦生活はあまりにも窮屈だったのである。

 これは随分後で聞いた話なのだが。妻は私に言ったような意味で私と別れたのではないらしい。ただ私

と居る事に、私との結婚生活に気詰まりを感じ、常に違和感を感じ、とうとうそれに堪えられなくなって

逃げ出したのである。彼女は私よりもよりそれに耐えられなかったのである。

 私と妻、どちらかに拘った私が初めから間違えていたのである。それは夫婦という二人の問題であり、

夫と妻、それぞれの問題ではなかった。夫婦の問題である以上、どちらにも理由はあったのである。どち

らがより悪い、より良いという事はあっても、どちらかにしか理由がないと言う事は、ありえない事だ。

 我々はいつまでも二人の事を二人の事として考えられなかったから、別れるしかなくなったのだろう。

 お互いがお互いのみで生きるのであれば、初めから結婚する必要など無いし、二人で居る意味などない

のである。一人一人が独立しながら夫婦という二人の関係を築く。そんな事を目指せば破局するのは当然

だ。初めからそんな事は不可能なのである。

 私は私らしく、私の自由に、などというように子供っぽい考えをしていては、誰かと繋がる事など出来

ない。それは当たり前の事である。誰が自分のみを優先させる人と、一緒に暮らしていけるだろうか。そ

れを望むだろうか。

 私は、私個人と妻個人の事は多く考えたが、夫婦という二人の事については何一つ考えなかった。むし

ろそれを考える事を悪とさえ考えていた。

 夫婦という繋がりを避けていた私に、それを続けていく力がなかったのは、当然の事である。

 私はいつまでも独りだった。だから今も独りなのだ。

 二人で居る事を望まない者が、二人で居られる筈もない。

 答えは初めから出ていたのだ。




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