ある日の貴女


 可愛らしい衣服に身を包み、貴女は笑う。

 美しく、艶やかで、まるで夢から生れたかのよう。私はいつも貴女に魅せられる。

 純粋に喜び、素直な笑み。

 私が貴女を連れ去ってきた事など、一体誰が信じられるだろう。私ですら信じられない。

 人は貴女を見て、それでも恥知らずな娘だと罵るだろうか。家を捨て、家族を捨て、一人の男に連れら

れた貴女。それでも貴女は美しい。

「ミス、あまりゆったりとしていられません。もう船の刻限が迫っております」

「あら、私ちょっぴりのんびりしすぎましたかしら」

「ええ、ミス。私が愚図愚図していたせいでもありますけれど」

「あら、貴方は悪くありませんわ。さあ、行きましょう」

 誘われたのは私。

 故郷を出、この街に着いて初めて出会った一人の娘。朗らかで愛らしく、女神かと思えた貴女。

 それが僅か三十分程前のこと。貴女が居なくなっている事に、従者達はそろそろ気付いただろうか。

 気付いているに違いない。貴女から目を離すことなど、誰にも出来はしないのだから。

 それでも彼らがほんの一時目を離したのは、神の悪戯だとしか思えない。そしてそこへ導かれるように

私が出会わせたのも、運命というよりは、神の悪戯だと思える。

 貴女は私などが共に居る事を許されるような方ではないのだ。

 でもそんな事は問題ではないのかも知れない。人は貴女だけを見て、側に居る私などには初めから目も

くれない。私が例え乞食のような格好をしていたとしても、誰も咎める者はいないだろう。

 何故ならば、誰も私に関心を向けている暇などないのだ。

 貴女は夜に輝く太陽のような方なのだから。

 例え私が王侯貴族だったとして、共に居る事は、やっぱり憚られたと思える。どんなに身分が高かろう

と、神の前では人は皆同じ。卑小なる一人の人間でしかない。

 誰も変りない。ただ貴女だけを皆は見る。関心があるのは常に貴女。

 それを救いと思うべきか、それとも恥ずべき事と思えば良いのか。私には解らない。

 貴女の側に居たい。それだけが私の望み。

「ミス、船旅は初めてなのですか」

「ええ、私船は乗るものではなく、見るものだと思っておりましたわ」

「ああ、ミス。私は何と言う事をしているのでしょう」

「あら、何を仰ってるの。私が望んだことなのよ」

「ミス・・・、ああ、ミス・・・」」

 幸福で張り裂けそうな私の胸を、貴女の視線が刺し続ける。

 私は何度砕かれた事だろう。何度貴方に奪われた事だろう。

 私は夢を見ているに違いない。でなければこんな事があるはずがない。

 その名前を呼べば、きっと覚めてしまう。この夢も、この至福も。

 そして、至福であるが故の痛みも。

 私の身に収まりきれない幸せは、果たして私にとって薬か毒か。本当の不幸とは至福の上にあるのだろ

うか。これが愛と言うのか、いや、私は敬意を捧げているのだ。貴女に愛を告げるなど・・・、誰にその

ような資格があるというのだろう。

 神よ、哀れな男に、どうかお答え下さい。貴方の伴侶としてもおかしくはないこの美しき人、その方に

私はこれ以上何を捧げれば良いのでしょう。

 ああ、貴女が微笑んでいる。

「船って揺れているのですわ」

 驚いてはしゃぐ貴女。何故貴女はこのような場所に居るのでしょう。何故このような場所へ生まれてき

たのです。何故私などと出会ってしまわれたのか。

 そして何故、貴女は私を誘ってしまったのか。

 気まぐれだったのかもしれない。新しい遊びだったのかもしれない。

 けれど、この船が出てしまえば・・・・もう・・・。

 ああ、神よ。お救い下さい。私は永劫の罪を犯そうとしています。

「ミス、やっぱり降りましょう。貴女の居る場所は、もっと・・」

「あら、今更何を仰るの。紳士がそのような事をいうものではありませんわ。男性は常にエスコートしな

ければ。それとも私が教わった事は、間違っていたのかしら」

「いえ、いいえ、ミス。貴女の仰る事はいつも正しい。私が間違っております。ですが、貴女は・・・」

「あら、そうなの。でしたらもっと楽しそうになさいな。私だけが楽しむのは、やっぱり間違っていると

思いますの。皆仰いますわ。二人で居る時が一番楽しいって」

「ミス・・・」

 貴女の微笑と共に船は我が新しき故郷から離れ、私と貴女を連れ去っていく。

 私は何故かそれが酷く悲しかった。

 理由は解らないけれど、私は酷く悲しくなった。

 ああ、ミス。麗しい貴女。貴女は一体何をしようと言うのだ。私は何処へ行こうとしているのか。

 離れていく彼方を見て、私は酷く悲しかった。

 不安でも、幸せでもない。私は酷く悲しかったのだ。きっと、その時から。


                                                            了




EXIT