ナマケモノ


 職場に働き者が一人居る。今年入社してきた新入社員の一人なのだが、これが実に良く働く。

 仕事を覚えるまでは細かな雑用をやらされる訳だが、文句一つ言わずに次々とこなす。器用なのかそう

いう細々とした仕事が得意なのか、どちらにしても相当真面目な人間なんだろうと好ましく思っていた。

 働き者というのはやはりいい。たまに失敗するのも構わない。少しずつ上達していく様も見ていて心地

良いものだ。

 やる気の無い怠け者がよく居るが、ああいう手合いを見ると何がしたいのだろうと思う。仕事も出来な

い癖に手を抜いて、その上顔だけは一人前面をしている。一度痛い目を見て反省すれば良いのだが、大抵

一度の挫折で逃げ帰るか、或いは不貞寝するようにして益々やる気を失くす。

 あれで自分にとって何か良い事があるとでも思っているのだろうか。傍から見て疑問に思うが、おそら

く当人は何も考えていないのだろう。何も考えていないから、簡単に手を抜く事が出来るのだ。彼らはそ

れがどう云う事か解っていない。

 そういう手合いは失敗しても何とかなると思っている。しかし一度しくじれば終わり、そのくらいの気

持ち、気迫がなければ、現実には何も出来ない。失敗すれば終わり、後に挽回する事は出来るかもしれな

いが、その事は永遠に失敗のままだ。

 それをくだらない言い訳をして誤魔化せると思っている。その了見が気に食わない。ぐだぐだと愚痴を

こぼすのも悪くないが、それですっきりして頑張れないのであれば、一体何の意味があるというのか。

 彼らは自分の生をどう思っているのだろう。一生懸命に生きるのが愚かしいと思える人間の頭の構造は、

一体どうなっているのか、甚だ疑問である。

 人間には現状から相応の未来が待っている。やる気がなければ、やる気の無い未来が待っているだけだ。

 幸福な未来を妄想しながら、くだらない現在からくだらない未来への道を進む。

 私には彼らが自分で苦しんで楽しんでいるとしか思えない。彼らは幸福など求めていない。不幸を喜ん

でいる。

 別にそれに異を挟む気持ちは無いが。やる気が無いのであれば、初めからやらなくても良いだろうに、

人に迷惑をかけるのが趣味なのだろうかと、そんな風には思う。

 もしかしたら確信犯であるのかもしれない。妄想の中で生きている。視野が狭い。

 日頃そんな風に憤りを感じていたので、働き者が一人来てくれた事を嬉しく思う。多少贔屓したくもな

るが、誰の為にもならないので、逆に厳しく、しかし丁寧に扱う事にした。そこに気持ちがあれば、多少

厳しくしたとて、人が離れていく事は無い。当人にやる気があるなら尚更だ。

 ぞんざいに扱わない限り、その厳しさが正当な限り、信頼は少しずつ生まれ、育って行く。

 私はそう信じてきたし、結果も出してきた。それが押し付けがましいものでなければ、丁寧に扱う事で

人との関係は自然と良くなるものなのだ。

 勿論、やる気の無い人間に、何をどれだけやったとしても、一切は無駄な事なのだが。

 ともかくそんな風に上司と部下として親交を深めていたのだが、ある時、私が常々働き者である事を評

価していると告げると、その働き者はこんな事を言った。

「いいえ、私くらい怠け者はいません」

 私は謙遜しているのだと思い、その点も好ましく思って尚更褒めた。

 しかし暫く話していると、どうやら本気でそう言っているらしい事が解ってきた。

 そうなると何故そう思っているのか、その理由が気になってくる。誰が見ても働き者であるのに、それ

が怠け者だとは、一体どう云う事なのか。

 別に納得いく説明をして欲しいとか、そんな大げさなつもりは無いが、とても興味を覚えた。一体この

働き者の心に、何があるのだろうか。

 そこでゆっくり話を聞いてみると、その働き者はこんな事を言う。

「私は生来の怠け者です。子供の頃からそうでしたから、多分生まれた時からそうだったのだと思います。

でもだからこそ思ったのです。怠け者だからぞんざいにやって当然、ではなくて、怠け者だからこそ人の

倍やって、やっと普通になれるんだと。昔はそれを理由にして誤魔化していた事もありますけど、そんな

事をしても何も良い事はなかったです。ですから、私は人並みに頑張る事にしたのです。怠け者だからこ

そ、人の倍も三倍も働かないとならないのです。それでやっと、人並みなんです」

 私はなるほどと思った。

 言われてみればそうだ。怠け者なのだから、人と同じではやはり怠け者。倍も三倍もやって初めて人並

みなのだ。

 だからこそこの働き者は懸命に頑張りながら、それを誇る事が無いのだろう。これから先、四倍も五倍

も働くようになって、初めて働き者と呼ばれる事に喜ぶのだろうと思う。そしてきっとその為に一生懸命

頑張っていくのだろう。

 人の為とか、人に好かれたいからとか、そんなちっぽけな理由ではない。自分の為、自分の幸せの為だ

から、平気で頑張れる。

 とすれば、怠け者なのも、実は天の贈り物なのかもしれない。それもまたある種の才能である。

 努力こそが天才を作ると言った人がいる。それは多分、こう云う事なのだ。

 ならば、人の短所とは何なのだろうと、私はふと考える。それは悪いモノでも、人より足りない事でも

ない、それこそが可能性なのかもしれない。それを乗り越え、克服する事で、人は幸せな満足感を初めて

得る事が出来る。

 だとすれば、それこそが天からの贈り物なのではないか。

 私もそれが得たい。今まで短所に目を瞑り、長所を磨く事で目を逸らしてきたが、それこそが間違いだ

ったのかもしれない。つまり私も、自分に楽な道を選び、日頃嫌っていたやる気の無い手合いと同じく、

ぞんざいに生きていたのである。

 自分がそうだったから、同じ生き方をしている者に嫌悪したのだろう。まるで鏡を見せられているよう

で、不快だったのだ。

 反省するべきは私自身の方だった。

 私は全てを恥じ、もう一度一からやり直す事を決めた。

 今更と思うが、この歳でとも思うが、それこそが恥じるべき考え。人はいつでもやり直すべきである。

この愛すべき働き者のように、欠点を素直に認め、受け入れ、そしてぐだぐだとやりもしない願望を妄想

するよりも、前向きに実行すべきである。

 そうしてこそ、人は初めて幸福な生を歩む事が出来る。

 誰もがそれを心の何処かでは解っている。なら、それへ踏み出すべきだ。

 誰でもない、他ならぬ自分自身の為に。

 私は心が晴れ晴れとするのを感じていた。幸福になれる可能性が、ようやく私にも生まれたのだ。

 ようやく私も人並みになれる可能性が生まれたのである。

 これは何よりも喜ばしい事だ。




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