私は誰に言い訳をしているのか


 何か間違い、そして後悔し、それでも意地になってしまう時。止めておいた方がいいと思いながら、つ

いやってしまう時。私はいつも言い訳をしている。それも自分に。

 自分の意志、よしやろうという決意を持ちながら、その裏では必死に自分を説得している。これはいい

事だ、望む事なんだと、必死に言い聞かせている。

 それを当たり前のようにやっている事に気付いた時、愕然とした。

 私は今まで一体誰に言い訳をしていたのかと。

 当然のように私は自分だ。そして自分の事を決めるのも行うのも自分。つまりは私。この私が決め、行

う。私は私の責任の上で、それを覚悟して行っている筈なのだ。

 これがまだ誰か他人に言い訳をするのなら解る。でも何故自分に対して必死に言い訳を考え、必死に呟

き続けているのだろう。

 何故私を説き伏せる必要があるのか。この私が、今ここで望むように、思うまま、実行している筈の私

に、何故私自身が言い訳をしているのだろう。

 そんな事が必要なのか。何の意味があるのか。必要は無い、そして何の意味も無い筈だ。私に言い訳す

る必要など何処にもないし。それにどう言い繕ったとしても、自分で自分を誤魔化せる筈がない。自分の

事は自分が一番良く知っているのだから、誤魔化そうと考える方が無理だ。

 私は一体誰に言い訳し、誰に言い訳されていたのだろう。

 自分とは、意志とは一体何なのか。

 そこにはいつも迷いがある。そしてそれをどうにかして抑えようと、私は私に言い訳をする。私という

存在に言い聞かせながら、必死で生きている。

 そう考えられるのかもしれない。

 だがそう考えると、私という人間は何ともか細いものだと思う。

 私は私にさえ言い訳しなくては生きていけないのかと、何とも言えない気持ちになる。

 常に誰かに許しを、例えそれが自分自身であっても、乞わなければ生きていけないのだろうか。行動す

る事が出来ないのだろうか。

 私の意志は、私という存在に言い訳をしてからでなければ、発現する事はないのだろうか。

 だとすれば私の考えていた意志とは本当は何なのだろう。

 そして自分にさえ誤魔化される私という存在は、果たして一人の人間だと言えるのだろうか。

 自分で自分を許し、誤魔化しながら生きている。何と言うちっぽけで、愚かしい姿だろう。自分という

ものが、この二つの関係で成り立っているのだとしたら。今日まで誇ってきた私という存在、人生は、今

までのようではいられない。

 空しい、でも、妙に納得出来る部分がある。

 そう考えると、悲しいくらいにしっくりくる事もある。

 私は私に言い訳をし、私も私に誤魔化される事で、初めて安らぎを得られるような。その決断は確かに

私自身が許したのだと、そんな心地良さすら感じる部分があるのを、私は否定できない。

 考えてみると、こういう関係は、私が物心付いた時からあった。

 私が考え、私が決意し、私が許し、私が動く。

 どれも確かに私一人。それら全ては私一人の事。

 でもその中で色んな心が現れては、様々な言葉や思いを残し、その上で私という全体が決めてきた。

 一人とは一つという意味ではなく、全てが内包された意味での一人、一人の人間であるように。

 私の中に無数の私が居るというのでもなく、それら全てで私という一人なのだ。元々そうなのだ。

 私という一人の人間。一人の人間と言う時、しかしその中にはたった独りという意味ではない、一人の

私という大きな入れ物の人間が居るのである。

 その中に入っている全てで、初めて私一人になる。

 不思議な話に思えるが、確かにそうなのだ。そうとしか思えない。今となってはそれ以外には考えられ

なくなっている。

 そして私はその事を決して忘れてはならない。

 そこで誰が何をしようと、どうしようとも、それは私なのだ。私自身以外の何者でもない。

 だから常に私の言動は、私という意思が、私と言う人間に下した結果だという事に変わりはない。

 確かにちっぽけかもしれない。どうしようもないかもしれない。自分自身にすら振り回され、独りでは

何も出来ない、それが私だと、私の正体だとすれば、情けなくて涙が出てくる。自尊心も消えてしまう。

 でも、それでも良いのではないだろうか。人は独りで出来なくても良いのではないだろうか。

 私が私に誤魔化されるような、私自身にすら許されなければ生きられないような、そんな弱くも小さな

存在であっても、私はそれらを内包した一人の人間としては独りで決める事が出来るのだ。むしろ自分で

自分を慰めたり、励ましたり、許したり、怒ったり、そういう事が出来るからこそ、一人立ちする事もで

きるのではないだろうか。

 私の中には色んな自分が居る。

 そしてそれらが重なり合ってこその自分。

 それが自然であり、脳が古き脳を内包して成長してきたように。私もまた全ての自己を内包しながら、

日々新しい自分、つまりは新しい意思を生み出し、成長していくのだろう。

 むしろちっぽけな自分であるからこそ、広い脳の中で、いくらでもその羽を広げる事が出来る。そんな

風にも思えてくる。

 だがこれもまた言い訳と言えばそうかもしれない。

 私が私に必死に言い訳している事を知り、愕然とした自分。その自分を立て直す為に、或いは別の目的

の為に、必死で今までと同じように、私が私に言い訳し続けている。これらもまた、ただの言い訳である。

 いつから言い訳が始まったのか、それは解らないが、いつの間にか自分で自分を誤魔化そうとしていた

とも思えない事はない。

 こうして今日もまた、私は私に言い訳をしながら生きている。

 そんな事が必要なのか、一体何の意味があるのかは解らない。我ながら女々しい事だとも思う。でも誰

に迷惑がかかる訳でもないし、これはこれで良いのではないだろうか。

 それにこれにも何か良い事があるのだろう。

 それが何かは解らないが。これも長い間かかって作られたやり方なのだ。そうなるにはそうなるだけの

理由があるだろうし、自然にそうなってきたという事は、そうなる事が一番具合が良かったという事にな

る。他の人がどうかは知らないが、私にとってはこのやり方が一番良いのかもしれない。

 ならばいい。気にせず私は生きるとしよう。

 私が例え何であったとしても、どういう事になっていたとしても、私が私である事は、この今の私が私

である事は、いつも変わらないのだ。

 私が選び、私が進んできた道が、常に私という存在を形作り、表している。

 そういう意味では、私はとても正直ものだ。

 それに常に自分を説得しているのだと思うと、それはそれで面白くもある。

 ならそれでいい。私は今、そう思う。

 これもまた、誤魔化しなのかもしれないが。




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