朱の空


 秋は朱の空が不思議と似合う。

 あの夕日が何処か心に訴えかけてくるものがあるのだ。だから秋と聞けばあの空を思い出す。朱の空に薄

く白い雲がかかり、その間から夕日が朧に見え。そして薄(すすき)の穂を縫うように飛ぶ赤トンボ。

 背景は土手が良い。それだけでもう秋になる。

 あの寂寥感にも似た、穏やかで慎ましく、しかし少しだけ寂しさを感じるあの景色が秋なのだろう。

 夏の日のうだる暑さも消え、うつうつと身体の中に篭っていた熱と共に苛立ちも少しだけ消える。気温は

徐々に寒くなるものの、穏やかに見え、更に夜ともなれば虫の声が奏でられるが、それも蝉の五月蝿いほど

吠え立てるものとも違う。無常をも感じるような不思議な音色だ。

 となると人は考え事が多くなる。

 暑さも消え、苛立ちも薄れ、少しだけ余裕が生まれると言う事は、それは無駄に虚しく考える余地も生ま

れると言う事。

 だから人は夏の分を取り戻すかのように、いつもより少しだけ多感になる。それがおそらくこの秋の寂し

さのイメージを生み、その象徴として朱の空を見る原因となるのだろう。

 だから秋は寂しいくらいで良いのかもしれない。

 いつもより少し寂しく、そして少しだけ多感に過ごせば良いのだ。



 秋は変化の季節でもある。

 四季の変化は当たり前とも言えるが、しかし秋は少し違う。枯れるでも、育つでもなく、実るのだ。そ

して紅葉と黄葉と言う不可思議な芸術を見せてもくれる。

 言わば命の息吹、命の変化、自然と言うものを四季で一番見せてくれる時、それが秋なのかも知れないと

そう思う。

 常緑樹は春の終わりに黄葉して新葉に変わるのだが、秋の黄葉にはそれとは違った趣がある。

 落葉樹はその葉が落ちるからこそ、より命が満ちているような気もするのだ。最後の一燃えにも似た、生

命の大いなる息吹を。だから秋にはあれだけの物が実るのかも知れない。

 木々だけで無く、色んなものも豊富に溢れるように思う。食欲の秋、そんなつまらない言葉の裏にもそう

言った生命の輝きを感じる。そしてその大いなる恩恵を感じるのだ。

 秋は生命に、そして喜びに満ちている、と。



 ならば人も秋には満ちるのでは無いだろうか。

 それが多感と言う事なのかも知れない。しかしそれは満ちるとは違うような気もする。

 ならば人には何が実るのだろうか。そう考えてみると驚く程何も無い記憶に驚く。

 知恵、技術、そのような無数の存在があり、実際素晴らしいモノも数多くあると思う。しかしそれは全て

人の外にあり、人に実ったと言えるのかどうか。音楽、絵画それは或いは近いのかも知れない。だがそれも

自己の一表現にしか過ぎず。例え自分をいかに巧く表現し、その心を現せたとて、果たしてそれは実る事な

のだろうか。

 実る、それは誕生と同意義である。

 実る、それは大いなる恩恵であり、生命の輝きである。

 ならば人に秋、一体何が実る。人には何かが実るのだろうか。

 内にあり、内から出でる新たなモノ。人には秋、何が実る?

 貴方の内には何かがあるのだろうか。

 朱の空、全てはそこにあるのかも知れない。人は心、心が人なればこそ、私は心を新たに宿したい。

 秋とはそう思わせる。

 秋とはそう言う季節なのだろう。

 貴方の空は何処にあり、何を見る?

 その空は朱の空であるだろうか。私はそうである事を祈る。秋の空である事を。

 或いはそんな想い。




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