悪魔と伯母


 私には伯父と伯母がいる。しかし彼らの血族である事は、私にとって耐え難き事である。

 二人を想う度、私の胸を鋭い痛みが刺す。思考そのものが私を苦しめている。今までも、そしてこれか

らも、多分私が朽果てるまで。忘れたい、しかし忘れられるはずがない。

 身体を流れる血と、起きてしまった過去には、誰も手出しが出来ないのだから。

 ここに書き残せば、少しは心が安らぐだろうか。誰にも話せないが、しかし書く事くらいは・・・。

 苦しみを、せめて・・・・。

 これを目にした方よ、貴方は私を救って下さるか。

 いや、いい。良いのです、読んでいただけるだけでもいい。誰か、誰かに、もうこの苦しみを溜め込んで

いるには、私の身体は衰えすぎている。もう耐えられないのです。

 おお、この苦しみを書き残す事をお許し下さい。

 これを読む方よ、私の弱さをどうかお許し下さい。

 救ってくだされとは申しませぬ。せめてお許し下さい。お許し下さい。

(読み取れぬ語句が続く。恐ろしさの為、これらは排除した。以下は辛うじて読み取れた部分である。願わ

くば、貴方に祝福あらん事を。そしてこの哀れな男が今も冥府で苦しんでおりませぬように)

 私が幼き頃、伯母が他に男を作り、伯父の家を出た。私の家でも大騒ぎだったのを覚えている。私の両親

は酷く伯母を蔑み、そして私もまたそうする事が当然のように感じていた。

 小さき私には状況がさっぱり理解できなかったのだが、おそらく両親の心が私に伝染し、そしてやはり何

事か許せぬ事態である事を、子供故に感じていたのだと思える。

 こうして親戚一同大騒ぎだったのだが、当の伯父は平然としたもので、親戚の家々を回り、伯母の代わり

に騒ぎを起こしてしまった事を陳謝していた。

 勿論私の家にも来、その冷静かつ真摯な振舞いに大いに尊敬心を感じたものだった。

 ようするに私は、この時何も解っていなかったのである。いや、大人と呼ばれる年齢をとうに過ぎ去って

いる今でさえ、私は何を解っているというのか。

 伯父の堂々たる態度によって、一応この騒ぎも治まりを迎え。その後はあれだけ騒いだ反動なのだろう。

親戚一同誰一人として、この事に触れる者はいなかった。私もその雰囲気を感じ取り、決して口にしてはい

けない事が、世の中にはあるのだと、解った風なふりをしていた事を覚えている。

 伯母は一族の禁忌となったのである。

 しかし騒動がこれで終わった訳ではなかった。数年過ぎた頃だろうか、詳しくは覚えてないのだが、突如

伯母が恥ずかしげも無く、伯父の家へ戻って来たというのである。

 何でも相手の男に騙されたのだそうで、散々都合のいいように使われた挙句、次の女を見付けるやすぐに

捨てられたものらしい。

 伯母は泣きながら伯父に許しを乞い、驚くべき事に伯父はあっさりとそれを受け入れた。一言も責める事

無く、しかし一言も許しを言うでもなく、ただ黙って迎え入れたらしい。

 私を含め親戚一同は大いに憤慨したのだが、伯父が許した以上表立っては何も出来ず、たまに伯父と会っ

ては(戻って以後、伯母は人と顔を会わすのを恐れるように、家から一歩も出ず、来客があっても決して会

おうとはしなかった)、愚痴愚痴ともらしたり、流石は伯父であると褒め称えたりした。

 私もこの伯父に深い憧憬を覚えたものだった。

 何と男らしく、立派な人物なのだろうと、私は誇らしかったのである。そして伯父が私の伯父である事を

神に感謝した事も覚えている。

 忌々しい事だ。

 子供っぽいといえばそうだが、この時の私が親戚一同の気持ちを代弁していたといっても、差し支えない

と思う。恥ずかしい事だが、私達は皆そう言う風であったのだ。

 我が一族は揃いも揃って愚者ばかりだったのである。

 しかし伯父は誰と会っても、弁解も非難もせず、一言も伯母の事を口にしなかった。

 責めもせず、まるで無視するかのように、一言も言う事は無かったのである。

 それが伯父の名誉を益々高め、伯母の名を益々蔑ませた。

 ただ無言でいるだけ、無視するだけ、それなのに、ただそれなのに、何故こうも私達の心を燃えさせたの

か。何故あれだけ伯母への憎しみを燃え立たせたのか、今も解らない。

 誰も解っていなかったのだろう。

 思えば伯父は、何もしていなかったのだ。それだけだったのである。そしてそれこそが伯父の狙いであっ

たのだ。

 それに初めて気付いたのは、私が伯父の家に遊びにいった(尊敬する伯父の家に行く事は、私の誇りであ

ったのだ)、夏の日だったろうか。そうだ、夏の暑い日、でなければ、あの窓が開いている事はなく、決し

て私を真実へと導く事はなかったろう。

 運命とはかくあるべきか。

 真に忌々しい事だ。

 私はもう一人立ちしてもおかしくない年齢となっており、大人とまでは言えないものの、そろそろその仲

間入りをしても良い頃合であった。その一環としてだったか、確か伯父に留守番を任されたのだと思う。そ

の時私は確かに一人だった。そう、伯母を除いては。

 私は暫くは自分もとうとう一人前に扱われたのだと思い、その高揚感に酔っていられた。しかし心という

ものは非常に飽きっぽい。高揚感が次第に薄れてくると、一転して退屈になってしまった。

 勝手なものであるが、そうなってしまったのだからどうしようもない。

 私は恥ずかしくも家の中をうろつき始め、興味をひく物を探しながら、いつの間にか外にまで出ていた。

そうだ、あの頃は家の中に居るだけで、もうたまらない想いがしたものである。

 その時、ある窓から、いつもは決して近寄らない、私の中でも禁忌となっていた窓から、すすり泣く女の

声が聴こえてきたのである。

 そこは伯母の部屋と言われている場所に間違いなく、私はその声を聞く事すら極度に恐れた。

 しかし何と云う事だろう。足の方が勝手にその部屋へと歩いてしまうのだ。まるでその声に引き摺り込ま

れるかのように、確かにその声は私を誘い、私はその誘惑に勝てなかった。

 いや、むしろ望んでその場へ向った。恥ずかしい事に、愚かしい事に、禁忌に触れるという事を、大人に

なる為の試練だとでも思っていたに違いない。反抗する事が、大人だとでも言わんばかりに。

 忌々しい事だ。

 本当はそれに決して触れない事が、大人である事の条件であったというのに。

 ああ、忌々しい。

「何故泣いているの」

 そして私は、あろう事か彼女に話しかけてしまった。それだけ彼女の声に悲哀が満ちていたのだが、やは

り私の弱さであったのだろう。或いは蛮勇の強さだったのか。結果を知り、真実を知った今でさえ、果たし

てそれが何であったのか、判断する事が出来ない。

「おおう、おおおおおおおっ」

 伯母は私の優しげな声を聞き、先にも増して泣き始めた。

 くぐもった声、何度も押し殺すように泣いていたせいだろう、まるで獣のように潰れた、怖れを抱かせる

低い泣き声に、私は正直怖くて動けなくなってしまった。

 それを伯母は優しさと勘違いしたのだろう。ようやく自分も懺悔が出来る日が来たのだと、ゆっくりとそ

の言葉を私に教え始めたのである。

 伯母は自らの嘆きを、私の心へと掘り込もうとしたのである。

 懺悔というものを、自分の罪を人の心へ移し込む事だとでも言うように。

 それは容赦なく、私の心などは易々と打ち砕かれ、掘り込まれてしまった。

 忘れられぬのは、だからなのだろう。もう決して消せはしない。掘り込まれた心を失うには、人の寿命は

短すぎる。

 だが確かに窓越しに話す私と伯母は(伯母が一方的に話す事も含め)、懺悔室で告白する者とそれを聞く

者に似ていたかもしれない。

 懺悔であり、告白であった。

 私はもう逃れられない。その構図にすっぽりと嵌め込まれてしまっていた。

 忌々しい事に。

 伯母に声をかけてしまった時に、それはもう決して避ける事の出来ない運命となってしまったのだろう。

 決して二度と口に出来ない、その時を逃しては決して喋る事の出来ない。やはりそれは運命という逃れ難

き、あるいは偶然の中の偶然、忌むべき奇跡であったのだ。

 伯母の声は聞き取り難かったのに、何故か私は全てをはっきりと理解していた。脳に響いたのだ。耳では

ない。脳に響いたのだ。

(伝え難き言葉の羅列、恐ろしきが故に、書き残す事を放棄する)

 伯母は家に戻る事を決めた時、自分が無様に罵られる事を覚悟したのだという。それは当然であり、辛か

ったが、しかし最早他に行く所はなく、このまま死ぬよりはましだと思い、それを受け入れる事にした。

 伯父の家へ向い一歩足を踏み出す度、恐怖と惨めさで涙した。一歩一歩涙したと言う。

 私もまた涙した。しかしそれが私に哀れみを持たせたのは、伯母の涙がまったく伯母自身の為だけに流さ

れたものであったからだ。彼女は悔いはしたが、決して反省などはしていなかった。おそらく機会さえあれ

ば、また同じ事をしたのだと思う。

 未だ伯父を尊敬していた私は、その時伯父の為に泣いたのだ。

 忌々しい事に。

 恐れながら伯母は家に戻ったのだが、前述した通り、伯父は無言で迎えた。

 伯母は初め喜んだそうだ。私はまだ愛されていた、これで私は助かるのだと、邪悪な喜悦に花を咲かせ、

心の奥底から歓喜に導かれるようにして、その戸をくぐったのだと言う。

 しかしそれが彼女の勘違いである事は、一日と経たずに理解できた。いや、思い知らされたのである。

 伯父は伯母を無視した。それも存在そのものではなく、彼女の人間性だけを無視した。

 家畜と同じ暮らしを強い、家畜へ向けるのと同じ目を伯母へ向けたのだ。

 そうだ、伯父は伯母を許してなどいなかった。受け入れてすらいなかったのである。

 伯父が伯母を家に入れたのは、優しさでも、世間体を気にしてでも、他の何でも無く、ただ伯母を苦しめ

る為だったのである。

 伯父は昔から頭の良い人だった。彼は知っていた。人が罪を犯した時、むしろ責められた方が楽になれる

のだと。そして罪を口にし、ただ謝罪し、そして許しの声を上げるだけで、人は幾許かの安楽を得られるの

だと。

 自らの不幸に浸る事にさえ、人は幾許かの喜びを得る。

 しかし伯父はそんな事を決して許しはしなかった。

 安楽など、心の平穏など、伯父は決して許しはしないのだ。

 故に誰にも話せぬよう家に入れ、閉じ込め、彼女が何を言おうとしても何も聞かず、豚が鳴いているとで

も言わんばかりの目で蔑んだ。鳴ければまだ良い方で、伯母が何か文章らしき言葉を言おうとすると、すぐ

に部屋へ追い立て、伯母が人の言葉を話す事を、それを人が耳にする事を、決して許さなかったのである。

 彼女は人でなく、ただ物を食べ、排泄し、眠り、嘆くだけの存在にされてしまったのだ。

 伯母に寄せられるのはただ悪意のみ。村中からも血族からも疎まれ、蔑まれ、しかし伯父の名前と権威だ

けは高まっていく。

 来客がある度に漏れ聴こえる(勿論伯父がそうなるようにしておいたのだ)声で、その事を痛いほど知ら

されるが、彼女には逃げ場がなかった。

 更に彼女は悔いる事も許されなかったそうだ。

 伯母は馬鹿だが、頭が使えない訳ではない。考えに考え、自分が悔い改め、許しを乞えば、最後は許して

くれるのではないかと考えた。しかしその言葉を口にしようとした瞬間、彼女にある考えが浮んだのである。

 伯父は確かに伯母へ悔いる事を望んでいたのかもしれない。それは彼女を苦しめるという事に役立つから

である。伯母に罪悪感が芽生える、これは伯父をさぞ喜悦させた事だろう。

 しかしその後自分はどうされるのか、伯母は震え上がった。

 あの伯父が、あの伯父が、悔い罪悪感を覚え、絶望の局地へと落ちた自分を、それ以上家においておくだ

ろうか。そんなはずはない。何故なら、決して自己満足的な悔いを、伯父は許さないからだ。例え一時伯父

を満足させたにしても、その後で伯父は怒り狂うだろう。

 豚である伯母が悔いなどと、お前などにそのような心があるものかと。それは人への冒涜なのだと。

 伯父の望む罪悪感は、伯母の望む悔いではないのだ。

 伯父を怒らせれば伯母はどうなるか。おそらく一切の呵責無く捨てられる。いや捨てられるよりも酷い目

にあうかもしれない。

 どちらにせよ、今の伯母を助けてくれる者などいないだろう。家に居ても、家から例え逃れられたとして

も、最早伯母は苦しみから解放される事は無いのだ。

 伯父は伯母を捨てた後も、決して伯母を許しはしない。あらゆる手を使って伯母を苦しめ、貶めさせる。

悪魔すら許しを乞うほどに、それは執拗で、耐え難き苦痛であろう。

 伯母はその時初めて伯父という人間を知ったのである。

 理解する力などありはしない。しかし悟ったのだ。

 自分が生きる為には、決して悔いも存在も無い、全ての喜びを放棄させられたこの暮らしを、それでも続

けていく以外に無いのだと。もし伯父が満足した時、これ以上彼女を貶める必要は無いと伯父が思うまで貶

めた時、伯母は初めて解放される。止めを刺される為だけに。

 あの伯父がやるのだ。仕上げとしてこの世でもっとも恐ろしい終わり方を、最後の贈り物として与えてく

れるのだろう。

 だから伯母が生きる為には、ずっと伯父の本性に気付かないふりをしながら、彼から与えられる苦しみを

甘んじて受け入れ、神経をすり減らしつつ、この家で飼われ続けるより他になかった。

 そして伯母は生きる事を選んだ。生きる事が伯父への憎しみの証明であったとも言っている。

 伯母は生きた。

 伯父の本性を誰かに伝える為にだけ、それだけを糧に今まで耐えてきた。そして今、待望の聞き手である

私が、この私が、この場所へと、誘い込まれてしまったと云う訳だ。

 私は信じられなかったが、かといって伯母が嘘をついているとは、それ以上に思えなかった。

 しかし私には嘘も信じるも何もかもがどうでも良かった。

 そんな事よりも、その事実の余りの恐ろしさに、私はその場から逃げ出してしまったのだ。伯母の話はま

だ終わっていなかったが、そのままいても恐怖で失神していたと思う。 

 私はひたすらに怖く、その場から逃げ出し、泣きながら家へと戻り、それ以後は二度と伯父の家へと行く

事をしなかった。

 両親から何を聞かれても、伯父から何を言ってきても、決して私は口を開かず、青い顔をしたまま、どこ

でその話を聞いたとしても、一目散に逃げ出し、あの事を思い出さぬように生きてきた。

 私の生は、その為だけにあったと言っても、過言では無い。

 忌々しき事には。

(あえぐような涙の痕、掻き毟るような爪の痕)

 あれから幾十年、もう伯母も伯父もこの世にはいない。

 だからこそ私はこうして懺悔している。

 いや、これは懺悔ですらないのかもしれない。私はこうして書き残す事で、何某かの許しを得たいのだろ

う。伯母がそうしたかったように。

 伯父と伯母がどのようにして、一体何処へと召されたのか、私は知らない。

 ただ伯父は頭の良い人だった。良すぎる程に良い人だった。きっと私が何かを知った。或いは伯母から聞

いたと言う事までを。彼はあの日悟ったに違いない。

 ならば何故私を放って置いたのか。

 長らく疑問だった事だが、最近ふと思い到った事がある。

 伯母はあの時私という希望を得た。もし私が誰かに伯父の事を言えば、伯母が助かるかは解らないが、何

らかの事は起こるだろう。そして何か疑問が芽生えれば、伯父の目論見は崩れたか、変化を余儀なくされた

可能性はある。

 しかし逆に考えると、私さえ黙っていれば、伯母の希望は永遠に訪れない事となる。

 そして伯父は知っていたのだろう。私が臆病で、決してこんな恐ろしい事を誰かに言う事は出来ない人間

であった事を。そう、決して広がる事の無い希望、実る事の無い希望、これもまた大いなる絶望ではなかろ

うか。

 なまじ希望があるから苦しむ事がある。そしてその苦しみはただ絶望するよりも、尚の事大きい。

 しかも私が生きている限り、伯母が生きている限り、その希望と絶望は繰り返し、そして年月が経てば経

つほどに絶望だけが伯母の心へ増していく。

 伯母は待っただろう。ずっと何かが起こる事を、あの部屋で、耐えながら待った事だろう。幾日も幾月も

幾年も。

 伯父にとって、これほど嬉しい事はあるまい。

 そして私がこの事を思い返す度に苦しみ、酷い恐怖に打ちのめされる事すら、伯父は当然承知していたは

ずだ。彼は私にも確かに罰を与えていたのである。決して晴れぬ、決して救われぬ罰を。

 私も伯母も、やはり何も解っていなかったのだ。伯父は伯母や私が思っていたよりも、遥かに・・・・伯

父は・・・・遥かに・・・・・、遥かに・・・・ああ・・。

(最早その筆先は何事も記そうとせず、まったく読み取れない記号が続いている)


                                                         了




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