記憶の中は他人の思い出ばかり


 現代は情報過多の時代だと言われている。テレビ、ラジオ、インターネットの普及により、ありとあら

ゆる情報がありとあらゆる場所から発信され、それを我々が無制限に受け取る事で、その中で必要な情報

は何か、本当の情報は何か、を判別する事が難しくなっているのだと。

 しかしそんな事は実は今も昔も変わらない。いつだって人は情報に踊らされ、情報によって上手く、或

いは性質の悪い冗談のように、動かされてきた。

 情報の多い少ないは関係ない。それによって多くの人間を操作しようとする意志が危険であり、厄介な

のである。

 だが情報過多なのも確かだ。それによる弊害も確かに起きている。もしかしたらそれすらも古今変わら

ない現象なのかもしれないが、情報量が明らかに増えている以上、その影響もその分増していると考えた

方が、多分当たっている。

 色々と考える前に、まず思い浮かべてみるとしよう。

 一人の男が居て、一人の女が居る。喧嘩をし、別れ、色々あった挙句再び付き合う事になる。

 このような想像は容易く出来るだろう。今世界に溢れている情報の中で、最も多い形がおそらくこれだ。

テレビや映画を見ていれば、まるで現実にあった事であるかのようにくっきりと頭の中に浮かび、それら

ははっきりとした形を取り、もしかしたらその表情まで細かに形作る事さえ出来るかもしれない。

 しかしそこに出てくるのは誰の顔だろう、誰の経験だろうか。

 我々はまるでそれを自分が経験した事のようにはっきりと想像し、動画として見る事さえ出来るが。し

かしそれは全く自分とは関係の無い記憶、他人の思い出である。

 はっきりとした顔、心の動き、そして恋。それらは全て他人の物である。しかしその他人の物を、私達

は、場合によっては自分の事よりも、はっきりと頭の中に描く事が出来る。

 他にも今ふと思い浮かんだ様々な場面を想像してみるといい。貴方は自分が驚く程それをはっきりと思

い浮かべる事が出来る事を知るだろう。しかもそれは会った事も無い、しかし実際に存在する他人の姿を

とってだ。

 悪漢に追われる警察官。炎に立ち向かう消防士。命と賭して人助けをする救助隊。スポーツ選手から大

学教授まで、他人の姿と声を借りて、何でも想像出来る。

 勿論人によっては上手く想像できない物があるし、全ての人がそうだとも言えない。しかし我々は大抵

の事をはっきりと想像する事が出来る。だがそれは我々の想像力が旺盛だという事ではない。我々はそれ

だけの情報を目で見、耳で聞いたという事であり、今までにそれだけの情報を、知らず知らず受け取って

いたからである。

 他人の形を取るのは、それが借り物の経験、借り物の知識だからだ。

 色んな媒体から毎日飽きもせず洪水のように情報が我々の中へ注ぎ込まれている。それが我々の記憶に

知らず知らずの内に刷り込まれ、根を張り、しっかりと息づいてくる。

 望んだ訳ではない。しかしありとあらゆる情報が注ぎ込まれた結果、自然とそうなってしまう。

 尊敬する人の言葉は覚えていないが、CMの音楽、うたい文句ならいくらでも出てくる。我々は気付かぬ

内にそういう頭にされてしまっている。

 家族や友人との思い出は薄れてしまっているが、ドラマや小説の話ならいくらでも話す事が出来る。そ

ういう記憶にされてしまっている。

 今となっては自分自身の事よりも、他人の事の方を良く知っている。毎日見ている自分自身よりも、お

気に入りの俳優やモデルの事の方が知っている事が多い。そんな人も居るかもしれない。

 ふと考えてみるに、我々が毎日話しているのは一体誰の話だろう。服、テレビ、新しい何か、そういっ

た話題は、言ってみれば全て他人の物である。我々はそれを知ってはいるが、決してそれは我々の物でも、

我々が生み出した物でもない。全ては他人から与えられた物であり、それを買うにしろ貰うにしろ、基本

的には他人の持ち物である。だからそこに自分というものは、何一つ存在しない。

 勿論、それに対する感想などは自分の物かもしれない。しかしそれは受身の心であり、自分から発信し

た心ではない。ただの反射作用のようなもので、陽光を反射して初めて月が輝くように、例えその光がど

れだけ美しいとしても、自分自身の物とは言い難い。

 少し自分の記憶を探ってみよう。少しでいい、数秒でも考えれば充分だ。ではその中に、果たして自分

だけの、自分の記憶というものが、一体どれだけあっただろうか。自分の思い出や自分だけの記憶、自分

の経験といったものが、一体どれだけあったのか。

 貴方は自分自身の話を、一体どれだけ話せるだろうか。貴方自身の事を、貴方はどれだけ知っているだ

ろう。

 昨日見たテレビの話、街で見た他人の話、そういう話はいくらでも出来るし浮かんでくる。話上手な人

であれば、その手の話を一日中続ける事も可能であるかもしれない。

 だがそこに自分と言うものは、どれだけ含まれているか。

 その話の何処に、自分が居ただろう。

 それは貴方の話といえるのか、貴方の記憶といえるのだろうか。

 我々の記憶は、知らず知らずの内に他人の思い出で一杯になっている。自分の考え、自分を持つ、そう

言いながら、我々の心にあるのは他人の事ばかり。我々が気にかけるのは他人の事ばかり。しかも会った

事も話した事もない、テレビの中、本の中、ネットの向こう側の人の事ばかり。

 自分自身の何かなど、一体どこにあるのだろうか。貴方は自分の中に、自分を見つけられるだろうか。

 これを書いている私自身もそうだ。この書き方も、世の中の見方も、全ては何処かで見た誰かの真似で

あり、ひょっとしたらそれをそのまま書き写しているだけなのかもしれない。

 人間の心が、家族、親類、友人、そういう他人から得た情報を基にして形成されるのだとしても、これ

は余りにも情けなくはないだろうか。

 あまりにも情報が多い為に、そしてあまりにも我々が情報を追い求めるが為に、元々少ない自分という

部分が、益々少なくなっているように感じられる。

 我々は他人の情報が欲しくて欲しくて堪らず、余りにも欲する為に、自分というものすら削ってしまい、

その代わりに益々多くの情報を得ようとしている。

 頭と心の容量に限界がある以上、他人の情報をより多く得ようとすれば、自分の情報を切り捨てるしか

ない。

 その結果自分というものが希薄になり、不思議な孤独感を得ているのだとすれば。自分に対する自信を、

自分と言うものが薄れている為に失くしているのだとすれば。我々はもう少し今の状況を考えるべきでは

ないだろうか。

 今更昔には戻れないとしても、今置かれている状況を考える事は、私達にとって、これからの人類にと

って、とても大事な事なのではないだろうか。

 自分を幸福にする為に、そろそろ他人の事ばかりではなく、もう少し自分の事に目を向けた方が良いの

ではないだろうか。

 我侭に、傲慢に、自分勝手になれというのではなく。今他人の事を気にかけているのと同じ程度に自分

の事も気にかけ、大切にする。

 そして他人の事を気にするのなら、せめて遠くの他人よりも、家族、友達といった身近な他人に心を配

ろうではないか。

 遠い見知らぬ誰かの事を詳しく知るよりも、身近な人達の事を多く知る方が、自分に繋がるという意味

で自分にとってもとても大切な事ではないかと思える。

 国際化、視野を広く、大きな目で、様々に言われているが、人は外ばかりではなく、もう少し自分に近

い場所、自分の内側に目を向けた方が良いのではないだろうか。

 千里眼のように遠く先まで見通す必要は、本当はないのではないか。

 自分の近くに目を向ければ、少なくとも今よりはもう少し身近な思い出で、我々の記憶が満ちてくれる

かもしれない。

 見知らぬ誰かの思い出で埋まるよりは、そっちの方がずっとあたたかいのではないかと思う。

 我々の思い出は我々の物であり、他人の物ではない筈だ。そしてそれはとても大事な事ではなかったか。

 今我々の心が満ち足りず、すかすかに穴が空いているように思うのは、自分の記憶が、自分の思い出が、

自分の側に無いからかもしれない。




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