有り難き事


 ありがとう。

 私達が日常的に使う感謝の言葉。

 これはつまり、有り難き事をしてもらった。当たり前にない特別な事をしていただいた。という意味なのだろう

と思う。

 この言葉を作った人々は、本当に良くしていただいた、有り難い事をしていただいた、という心を込め、その感

謝を現す言葉として私達に残してくれた。

 そんな言葉を、現代に生きる私達はあまりにも無味乾燥に使ってはいないだろうか。

 感謝という言葉もそうだ。

 謝を感ずる。これを自分の過ちをわびている事からきている言葉だと捉えれば。私に到らぬ所がありました。そ

のせいで貴方にご迷惑をおかけ致しました。という謝りの気持ちから転じてお礼を意味する言葉になったとも想像

できる。

 しかし私達がこの言葉を使うとき、本当に自分の過ちを悔いているのだろうか。その相手に申し訳ないと思い、

その方にしていただいた事に対してありがとうという気持ちを持っているだろうか。

 確かにその言葉を述べるのは良い事だ。何も言わないよりはずっといい。嘘でもありがとうと言えば、何となく

場も和む。

 けれども、本来の意味合いとそれは違うのではないか。そうではなく、我々のご先祖がその言葉に託した想い、

その想いを今を生きる私達が受け取って初めてその言葉は命を持つのではないか。我々の心に深く作用するのでは

ないだろうか。

 有り難う。

 感謝しています。

 できればその本来の意味を感じ、その想いを持ったまま使いたいものだと思う。

 これは日本だけの話ではない。

 世界各国どんな言葉にも、全てを知るわけではないから多分そうだろうという事になるが、ありがとうという意

味の言葉はあると思う。

 そしてそれを作った、或いは使ってきたご先祖達の気持ちは万国共通して同じものなのではないだろうか。

 つまり、我々人類は全て、感謝の言葉を持ち、感謝の気持ちを持って生まれてきているという事だ。

 これは素晴らしい事だ。

 勿論、怒りや憎しみといった負の気持ちと言葉も同時に持って生まれてきている。

 けれどその怒りや憎しみさえ、人は自分ではなく他人の為、義憤として抱いたりもする。またその怒りや憎しみ

も、より大きな悲しみからきている事は少なくない。

 その攻撃的などうしようもない感情の裏には、切ない程の愛情が秘められている事すらある。

 そして大抵の人間は怒りや憎しみから時間を置けば後悔の気持ちを抱いたりもし、その行為に対して償いたいと

いう想いを宿すようにすらなる場合もある。

 身勝手に恨み、怒るのはそれが本当に何なのか、どういう意味を持っていたのかを理解できなかったからであり。

攻撃的な感情というものの大部分は勘違いでしかなく、純粋な悪意などもしかしたら存在していないのではないか

とすら考えられる時もある。

 悪という字も、つっかえた気持ちという意味を持ち、だからこそどうにもならない気持ちをどうにかして晴らし

たく、短絡的な行為に及ぶ、その後悔を現す言葉ともとれる。

 それは開き直りではなく、戒めの言葉だ。

 そこにあるのは私達のご先祖からの忠告であり、優しさなのだ。

 我々は生まれ学んだ言葉を当たり前の、無価値なものであるかのように考えている。

 まるでそれが全て意味のない言葉、当て字のように何となく作られた物であるかのように。

 しかしその言葉一つ一つには全て意味があり、私達の先に生きた人達からの遺言が含まれている。

 遙か昔、我々人類が誕生した時から、或いはその遙か以前から持っていた気持ち、心、それが言葉という形を取

って私達に与えられている。

 言葉こそ人類の財産、歴史、人そのものである。

 そしてそこには全てご先祖からの労りの気持ちがあり、彼らが生涯をかけて学んだ経験から得た我々へのありが

たい忠告が含まれている。

 私はせめてその事を忘れずに生きたい。




EXIT