屋根の有る世界


 いつまでも閉ざされている。

 この陰鬱な黒い壁。

 周囲を覆う黒い壁。

 いつからか、何故なのかは知らない。

 私の世界はこの黒い箱の中だ。

 上を開き、空を見たい。透き通るほど蒼く澄み切った空を。

 私の空はいつも黒く塗り潰され、心を重苦しくさせる。

 開放。その言葉は私とは無縁だ。

 閉ざされている事のなんと心細く、息苦しい事か。

 私はどうしようもなくうつむいて眠るしかない。

 涙も出ない。



 護られている。

 私は完全に隔離され、ここには私を脅かすようなものは存在しない。

 私だけだ。ここには私だけ。私だけが居る。

 でもそれだけだ。他に何も無い。私だけしか居ない。

 腹も空かない。喉も渇かない。ただ毎日同じように眠り、目覚めるだけ。

 日が変わったのか、時間がどれくらい経ったのかも解らない。

 この黒い壁を見るだけでは、得られるものは何も無い。

 だからうつむいて溜息を吐くしかない。

 それしかない、私は。



 疑問に思う。

 私は何故ここに居るのか。

 強制ではない。望んでここに入った事を覚えている。

 理由は忘れてしまったが、私は自分からここに来た。

 その為にこの箱に入り、その為に今もここに居る。そんな気がする。

 だから怒りも暴れもしない。ここに居る事が、多分一番良いのだろうと思いながら。

 何も求めず、ただこの箱に居るだけなら、私はずっと生きていられる。

 生きていく為に生きるのなら、ここは最高の場所だろう。

 何も無い。だからこそ満たされている。そう思う事も出来る。

 ならば何故、私はこうも求めるのか。

 あの空を、どうしてこんなにも懐かしむのだろう。

 この思い出は、どこから来たものなのだろう。



 思い出せない。

 全てを忘れてしまった。

 今ではもう、何も覚えていない。

 覚えていない事さえ、覚えていない。

 だからこそここに居られるのか。ただ生きていられるのか。

 解らない。それさえも解らない。

 私はただ、ここに居る。

 いつまでなのか、いつまでもなのか、解らないままで。



 空は蒼かったのだろうか。

 本当に私の求めているものはあったのだろうか。

 もしかしたら、初めから、世界はこの黒い箱の中だけなのかもしれない。

 これ以外には何も無く。

 私以外には誰も居ない。

 眠気も思い込みでしかなく。

 あらゆる欲も希望も、初めから存在しなかったものなのかもしれない。

 私はこの箱の中、独り完全で、だからこそ永遠に生き続ける。

 何も要らないし、何も無くていい。

 私は私だけで完全である。

 そして生き続ける。

 いつまでも、いつまでも。

 終わり無く、いつまでも。



 違う。そうではない。

 私は覚えている。

 あの空を、蒼い空を、この黒壁以外の世界を。

 私は満たされずそこから来て、ここでようやく満たされて、でも心は空っぽだ。

 全ては満たされているのに、心だけは空だ。

 何故だろう。

 何故と考えることさえ、何故なのか。

 解らない。諦めるしかないのか。

 私は眠ることを止めた。本当は必要でないと思ったからだ。

 私はいつまでも起きていられる。疲れもしない。

 そう信じ、実行する。するとそれは事実だった。

 眠りは必要ではない。

 でもそれが解った事で、そうした事で、私はますます空が恋しくなる。

 まるで、私がそこからより離れたせいで、よりそれを求める心が強くなったかのように。

 私がそこから離れる度、私の心はそこに戻ろうとする。

 私は間違っていたのだろうか。

 それは捨てるものではなく、求めるものだったのだろうか。

 例え生きるに不便でも、それを無くしてしまえば空虚になる。

 満たされれば、満たされる程、隙間が空いていく。

 何故なら、満たされない事こそが、人間なのだから。

 そうかもしれない。

 でも本当にそうなのか。そうだと言えるのか。

 誰も教えてくれない。

 ここには私しか、居ないのだから。



 私は眠気を取り戻した。

 それは難しくない。

 今までやっていた事を思い出せばいいのだ。

 でもそれ以上は駄目だった。

 空腹、喉の渇き、そんなものはとうに忘れてしまっている。

 もしかしたら初めから無かったのかもしれない。

 満たされない事を忘れてしまった私は、それだけ人間から遠のいているのだろう。

 だから私は記憶を探り。

 決して得られない事を思う事で、その代わりとしたのだ。

 心を満たせば体が。

 体を満たせば心が。

 満たした分だけ満たされない。

 私は結局満たされない。

 それを悟ると全てが虚しくなり、考える事を放棄する事にした。

 そしてただ眠る為だけに生きる。

 いずれその理由も忘れるだろう。

 忘れても生き続けるのだろう。

 その時私は、一体何になっているのか。

 解らない。怖い。

 でもこのままで居るよりは、その方がましだと思う。

 だから自分を閉ざす。

 この真っ黒い空のように。



 ああ、私が私を忘れていく。




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