思われ茄子


 隣の窓辺にぽかんと茄子がぶらさがっている。

 ゆらりゆらり、とても楽しそうに。

 私が手を伸ばそうとすると、たまたま通りがかった猫に睨まれた。

 猫もこの茄子が気に入っているのだろうか。

 猫が一声鳴いて何処かへ行ってしまったので、私はもう一度手を伸ばして触れてみる。

 何の事は無い、ただの茄子である。でもこの茄子が揺れていると、何だか宙に浮いているような心持に

なって、愉快でたまらない。

 一度、二度と揺らしていると、何処からか鴉が現れ、一声つっついて飛び去ってしまった。

 これはえらい事だ。茄子には明らかにつっつかれた痕がある。これではまるで私がつっついたようでは

ないか。

 私はおそるおそる手を戻し、窓を閉めた。あの鴉め、今度会ったらただじゃおかない。



 今日も隣の窓辺にはぽかんと茄子がぶらさがっている。気のせいか数が増えたようだ。

 ひい、ふう、みい、三本ある。それがぷかりぷかりと揺られている。

 窓を開けると風が吹き込んできた。なかなかに強い。これでは出歩くのに苦労しよう。

 茄子にはつっつかれた痕が残されている。それも三つ程に増えている。さてはあの後も鴉めがやってき

て、つついていったに違いない。

 私は窓辺に鏡を吊るしておいた。あの黒ずくめは己を暴く光が怖いのだ。きらきら光を反射して、丁度

良い鴉避けになってくれるだろう。

 心から安心し、それから夕暮れまで茄子をゆらして遊んで過ごした。



 今日は朝から隣人が在宅である。茄子はいつもどおり揺れているが、手出しする訳にはいかない。

 勝手に触っているのを知れば怒る筈だ。

 それに何やら騒がしい。そっとして置く方が良いと思う。

 私は茄子を諦め、終日眠っていた。



 朝起きると何もかもがらんとしていた。

 昨日の騒がしさが嘘のように静まりかえっている。もし私が息をするのを止めたならば、音という一切

の音は消えてしまうだろう。

 茄子は揺れている。黙って揺れている。

 窓を開け、茄子の状態を確かめた。

 今日は大丈夫なようだ。つっつかれた痕はそのままだが、増えても減ってもいない。

 ただ大分しなびてしまったのか、姿が縮んでしわが目立つようになっている。

 お前も老いたな。

 私はそっと茄子から手を離し、黙って彼らを見守っていた。

 つっていた鏡は落ちてしまったのか、どこにも見当たらなかった。でも茄子がこんな姿になってしまっ

ているなら、鴉めも興味を持つまい。

 鴉というのは贅沢である。

 それだけ食い物が溢れているという事なのだろう。

 我々が皆して鴉を飼っているのだと思うと腹立たしかったが、今更どうしようもあるまい。

 窓を閉め、考えるのは止めた。



 窓を開けると微かに茄子の匂いがしてくる。どこかで茄子料理でも作っているのだろうか。

 隣の窓辺を見ると、みずみずしい茄子がぶら下がっていた。それも五つも。

 それらが揺れる様は圧巻であったが、さりとてどうする事もできない。

 とにかく私はその光景を忘れまいと思い、絵にする事を思いついた。

 後は終日それに没頭し、気付くととうに日は暮れていた。

 夜もまた、明るい。

 いつから昼夜の別を失くしたのだろう。



 茄子は無残に食い散らかされていた。

 その事に何の意味があるのかは知らないが。わざわざ鮮度の良い茄子をぶらさげなくても良いのではな

いか。これでは食ってくれと言っているようなものである。

 鴉か雀か仇の名は解らないが、鳥である事には間違いあるまい。

 鼠という案も浮かんだが、流石の奴も空は飛べない。

 へただけが名残のようにぶらさがっている茄子もあり、それを見ているといたたまれなくなって私は窓

を閉めた。

 せめて鏡をつっておけば、こうなってしまわずに済んだのだろうか。



 隣人が荒れている。

 何があったのかは知らないし、大して興味も無いが、隣人は隣人だ。それなりに心配にはなる。

 隣の窓辺には、茄子のへただけが悲しそうに揺れていた。



 窓の外で鴉が鳴いている。

 ふと強い使命感に襲われ、床に転がっていた雑誌を掴み、窓を開けて鴉めに投げ付けてみた。

 鴉はあの腹立たしい鳴き声を残して飛び去る。

 急いで隣の窓辺を見たが、そこに茄子の姿はなかった。

 遅かったのか。それとも初めからなかったのか。或いは別の何かがぶらさがっていたのか。

 私は何だか酷い罪悪感に襲われ、その後は部屋でじっと何かを待っていた。



 気が付くととうに日が昇り、窓からは呆れるほど輝く光が差し込んでいる。

 私は何故かうんざりした気分でそれらを眺め。暫く日溜りの中を転がっていた。

 だが何をやっても気分は晴れず、仕方なく起きて窓を開ける。

 そこには恐ろしい程の光があり、私は何も考えられなくなった。

 光の中に溶け込み、全ては光のままに。

 全てのものが、その時だけは意味を失くす。

 何かに引かれるようにそちらを向くと、そこにはつやつやと照り輝く茄子がぶらさがっていた。

 どことなく嬉しそうに思えたのは、私の気分が良くなった証なのかもしれない。

 私はその茄子をもぎ取って、思い切りかじってみた。

 新鮮な苦味が口の中に広がる。

 噛んでいる内に柔らかな甘味が出てきた。

 苦いようでかすかに甘い。

 汁がこぼれる。

 茄子が消え、味気なくなった隣の窓辺が寂しいので、代わりにちくわをぶらさげておく。

 穴の空いている所が、どこか私に似ている。

 隣人は気に入ってくれるだろうか。



 窓を開けると、私の窓辺にも茄子がつるしてあった。

 気に入ったのか、それとも違う意味があるのか。

 みずみずしい茄子が、私の目の前で輝いている。

 私はもう、見ているだけで満足だった。




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