背曲がり


 ある所に背曲がりの男がおりました。

 若いとは言えませんが、まだそれほど歳はいっていないのに、どんな老人よりも背中が曲がっております。

 それはきっといつも俯(うつむ)いてぶつぶつ呟(つぶや)いていたからでしょう。この男の顔を真正面か

ら見た人は少ないです。まあ、誰も気に留めないでしょうけど。

 背曲がりはいつも道端に腰掛け、下を向いて何事かを考えております。

 それが何かは解りません。

 一度何を言っているのか気になった子供が聴きに行ったみたいですけど、単語を羅列(られつ)しているよ

うな風で、気味が悪くなってすぐに帰ったのでした。

 そして噂が立ち、背曲がりはいよいよ人々から怖がられるようになりました。誰も近寄ろうとはしません。

 本人もそれに文句も言わなければ、誰かと関わろうとすらしないのでした。

 でも本当は寂しかったのです。わざわざ道端の目に付く場所に居るのも、彼が人との繋がりを求めているか

らです。

 家の中に居たら、本当に誰とも何の接点もなく人生を終えてしまいます。そんな事は恐ろしくて、とてもで

きません。

 人に嫌われ、疎(うと)まれても、独りぼっちよりはましです。

 だから男はずっとそこで待っているのでした。

 ほんのささいな幸運を。自分が動く為のきっかけと理由を。何の当ても無く待っているのです。

「ああ、ほんの少しでいい。誰かと会話できたなら、どんなに幸せだろう。何かを言えば何かが返ってくる。

そのなんとすばらしい事か。そして、せめて自分の言葉でも返ってこないかと地面に向けて独り言をしている

私の、なんと虚しい事だろう」

 しかしいくら嘆いても、自分の言葉すら返ってきません。

 彼に聴こえるのは風の音だけです。

 背曲がりもいい加減くるはずのない幸運を待ち続けるのに我慢ならなくなっていました。

 一度子供が側に寄ってきた事がありましたが、それもすぐに逃げてしまいました。声をかける暇もありませ

んでしたが、もしあの時一言でも何か声をかけていたら、あの子は何か一言返してくれていたのかしら。そう

考えると悔やんでも悔やみきれないのです。

 どうにかしたいのですが、方法が解りません。

 男は今日も背中を丸めているだけ。

 それでも一生懸命考えました。どうしたら自分に興味を持ってくれるのだろう。今のように恐怖心混じりの

好奇心ではなく、純粋に彼の事を知りたい、交友したいと願ってくれる気持ち。それを得るにはどうしたらい

いのか。

 いくら考えても解りません。色んな本を読み、学んできましたが、人付き合いの仕方までは教えてくれませ

んでした。

 本に書いてある方法は、何の役にも立ちませんでした。

 人と人の付き合いは似て否なるもの。ありふれているようで全てが奇跡のように噛み合わさって初めてでき

るものです。

 他人の体験や方法論なんて役に立ちません。

 他人が自分に対して言えるような事なら初めから解っているのです。知りたいのはそんな事ではありません。

 気構えとか、大雑把なものではなく、もっと現実に即した彼に相応しい方法を知りたいのです。

 でもそんな事は自分で見付けるしかありません。初めから不可能な望みでした。

 背曲がりの彼にとって、全ては机上の空論でしかありません。

「はあ・・・・」

 出るのは溜息(ためいき)だけです。その内、溜息だけで浮かんでしまうでしょう。

 何も変わりません。

「こんな無様な姿をした自分と一体誰が仲良くしようと思うだろう。仮に仲良くしてくれたとしても、いずれ

去って行くに決まっている。いや、そもそもそのきっかけさえ無いではないか。去る以前の問題だ」

 そうして自分を哀れめば哀れむほど、人が遠ざかって行くのは解っているのですが、それでも止められませ

ん。自分と対話するのにも飽きています。もう話は尽きました。後は自分で自分を哀れむ事しか残っていない

のです。

 何とか前向きにと考えても、彼が前を向けば、即ちそこは地面。どうしようもありません。

 何とか前を見上げて歩こうとするのですが、首にとても負担がかかり、一分も耐えられませんでした。

 生れ落ちた時は皆と同じく背筋はぴんと伸びていたはずなのに。今ではもう決して伸びる事はないのです。

 一心不乱に一人の世界に閉じこもり、本ばかり読んできたつけがこんな形で現れるとは。

 みがいた知識も使い道がありません。どれだけ深い知識を得、それを知恵に変えられても、伝える相手がい

なければ意味がない。誰も幸せにできなければ、助けられもしない。知識、知恵が人を幸せに導く為にあるの

なら、何て無意味な事でしょう。

 せめてと思って様々な考えや残すべき知識を本に書いていますが、それでは現在のこの心の虚しさを埋める

事はできません。未来の人の為になるなら嬉しい事ですが。背曲がりが欲しいのは、今現在、自分が生きてい

る今の幸福なのです。

「ああ、背中さえ曲がっていなければ、私は何でもできるのに・・・・。友人もいたし、恋人だっていたかも

しれない。結婚して子供ができ、家庭さえ作っていたかもしれない。それなのに今の私はただの背曲がり。虚

しく年老いていくだけの、寂しい人間」

 彼にも彼なりに幸せや楽しい時はあるのですが、この寂しさの前ではどうにもなりません。

「ああ、神様というお方は、何故寂しさなんてものを私に与えたのか。そうでなければ、一人だけで充分幸せ

に生きる事ができていたのなら、私はずっと幸せでいられただろうに。何故人の力が要るのだろう。何故独り

では駄目なのか。解らない。解らない」

 どんな本にも答えは載っていませんでした。結局誰も彼もが同じ事を言っていますが、答えはいつも背曲が

りにはどうにもできないものなのです。

 勇気を出せ、心は通じる、人は外見だけではない。そんな言葉もたくさんたくさん書いてありました。でも

いくら述べられても虚しいだけです。

「彼らも今生きていたなら、自分の言葉を後悔しただろう。見に来ればいいのだ、この私を。この大きく曲が

った背中を。それを見ても同じ事が言えたなら。私と同じ立場になっても実行でき、そして結果が出たのなら、

私は喜んでそれを受け入れるだろう」

 そのどれもは幸せな人が書いた言葉であって、不幸な寂しい人の言葉ではありません。

 救いがあった人の言葉なんて、救いの無い背曲がりに届くはずがないのです。


 このように背曲がりは一日中、いや一年中同じように同じ場所で似たような悩みを抱えて暮らしておりまし

た。そのせいかどうか、背中もますます曲がっているようです。

 彼が自分に絶望する度に、その曲がりは大きく深くなっていくようにも見えます。

 背曲がりは焦りましたが、どうにもなりません。いつまでも救いは無く、いつまでも嘆いているしかないの

です。

 彼は結局何もしていないのですから、何かが返ってくるはずはないのです。

 当たり前の事でした。

 背曲がりも初めから解っていますし、何をするべきかも本当は知っているのですが、動けないのです。背曲

がりという言い訳が、彼にとって心地よいほどに都合よく使えるのでした。

 だから逆に今の自分が背曲がりでなければと考えると、ぞっとしたかもしれません。

 彼は人を怖がっていました。

 もっと正確に言えば、人が自分から離れていく事が怖かったのです。

 背曲がりの彼には他の人と同じ景色を見る事はできません。同じ速さで進む事もできません。だから必ず迷

惑をかけ、お荷物になってしまう。例えそれを解って付き合ってくれたとしても、だからこそそんな優しい人

に失望されるのが怖くなるのです。彼の駄目さ加減がその人の想像以上である事が、怖いのです。

 背が曲がっている。ただそれだけの事がこれほどまでに彼を萎縮(いしゅく)させてしまうのは、そのせい

でした。

 彼には他人に合わせる事も、追いかける事もできません。一度離れれば、決してもう二度と並んで歩く事は

できないのです。

 心にはいつの日か、とか、それでもいつか、とかそういった希望はありますが、彼を動かすにはとても足り

ません。結局はそれも便利な言い訳でしかないのです。

 誰か彼に声をかけてくれる人が居れば良かったのですが、不幸な事にそういった人は最後まで現れませんで

した。

 自分から動いて手に入れようとしてさえ難しいのに、ぶつぶつと座っているだけで向こうから転がってくる

訳がないのです。

 背曲がりは彼自信が予想していた通り、救い無く亡くなりました。

 いつもの道端で、誰にも知られる事なく息を引き取ったのです。

 そんな彼を哀れに思ったのでしょう。近所の人達がお金を出し合って、ささやかながら葬儀を営んでくれま

した。それだけが彼の人生でたった一つの救いだったのかもしれません。

 まあ、その時はすでに亡くなっておりましたけども。

 背曲がりは不気味がられていましたが、彼が思っている程嫌われてはいなかったようです。というよりも、

嫌われるほどの関わりも持たなかったと言うべきでしょうか。

 好かれる事もなければ、特に嫌われる事もなく、彼は静かに寂しく世を去ってしまったのです。

 決して幸せではありませんし、生涯寂しさに付きまとわれていましたけれど、特別に不幸ではなかったのか

もしれません。

 彼の書き残した本は、今も色んな人に読まれているようです。

 その哀れさ、寂しさが、現実の彼を知らない、会う必要も、関わる必要もない人達にとっては、とても魅力

的に思えるのでしょう。

 自分より哀れで寂しい人が居ると思えば何となく安心でき、自分の生活をもう一度素直に見直す事ができる

ものです。

 確かにそれは、その方を幸せへとほんの少しだけ導くのでしょう。

 彼はその為に必要な誰よりも丁度良い存在になったのです。

 勿論、彼より不幸な人もたくさんいます。

 彼の不幸を見て、今の自分に安心できるだけの余裕があったなら、その人はきっと本当は幸福な人生を歩ん

でいるのでしょうね。

 そんなお話。




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