胸風船


 口にせず飲み込む事を覚えた。

 その時の思い、主に苛立ちや悲しみを、誰にも言わずに胸の中にしまっておく事を覚えた。

 それからどれくらい溜め込んできたんだろう。

 今ではこの胸がぷっくりと膨らみ、鳩のように飛び出ている。

 皆心配してくれたけど、原因を言う訳にはいかない。

 この膨らんだ分だけ、皆への不満や怒りが溜まっているなんて、言えるわけがなかった。

 王様とロバの耳を思い出して、誰も来ない場所で、誰も居ない時間に、こっそり大声で叫んでみたりし

てみた。

 でも無駄だった。誰にもぶつけられない想いは、いつまでも消えてくれない。

 誰かに受け取ってもらわないと、この苦しみは消えてくれないみたいだ。

 吐き出そうとしても吐き出そうとしても、どうしても出て行ってくれない。それどころか益々膨らんで、

言えない想いが溜まっていく。

 そのうち悪い事だけじゃなくて、純粋な想いまで伝えられなくなった。

 誰かに好きって、言えなくなった。

 いつの間にか何もかも言えなくなっていて、誰かに自分の本心を聞いてもらう事が、正直な気持ちを伝

える事が、凄く恐くなっていた。

 家族が医者に連れて行ってくれたけれど、どうにもならない。

 僕だけが、僕だけが全てを解っている。原因も、治す方法も。

 でもできないじゃないか。今更、できないじゃないか。それはこれまで築いてきた事を、全て否定して

しまう事になる。そんなのって、ないじゃないか。

 ほろりと涙が流れた。

 でもそんなものでは解決しない。僕の胸は膨らんだまま、何も言えずに涙だけが流れる。

 今もし一つでも吐き出してしまったら、この胸にある想いは、全て外へ出てしまう。

 全ての想いが、今まで隠していた全てが、知られてしまう。

 それは、とてもできない事だった。

 全てを受け容れるしかない。

 諦めるしかない。

 いつかこの胸が弾けてしまうかもしれないけれど。抑えきれない想いでどこまでも膨らんで、弾けてし

まうのかもしれないけれど。

 僕は一人で耐える事を選んだ。

 全てを知られてしまうよりは、今のまま自分だけが引き受けて暮らそう。

 この想いの全ては、僕から生まれたもの。だったら、全部僕が引き受けるのが、一番いい事だと思う。

この苦しみも辛さも、全て自分が創り出したものなのだから。

 こんな気持ちを吐き出すくらいなら、飲み込んだままで居よう。そう思った。



 胸が益々膨らんでいく。なるべく人に会わないようにして、ゆっくりと生活してみたけれど無駄だった。

 人が居ないなら居ないで寂しくて、言い出せない想いは溜まっていく。それに人を好きになる事、嫌い

になる事を、止める事なんできやしない。例えそこに居なくても、その気持ちは膨らんでいく。僕のこの

胸みたいに。

 息苦しくて、吐き出してしまいたくなる時もある。

 でも我慢した。そうした方が僕も皆も笑っていられるんだ、ずっと。

 でも思う。

 なんで皆はこうならないんだろうって。なんで僕だけが膨らむんだろうって。

 皆誰かに吐き出して受け取ってもらっているんだろうか。それとも色々な事を想うのは僕だけなんだろ

うか。誰かを嫌うのも、誰かを好きになるのも、僕一人だけなんだろうか。

 違う、違う筈だ。きっとそうじゃない。

 きっと皆少しずつ、誰かに受け取ってもらっている。そういう相手が居るんだ。

 どんな人にだって居る。でも僕だけが居ない。

 皆は僕を優しいという。決して自分を押し付けたりせず、怒ったり怒鳴ったりもしないって。

 でもそれは良い事なんだろうか。誰もせず、僕だけがしている事。そんな事に意味があるんだろうか。

 それが本当に良い事なら、なんで皆はそうしないんだろう。

 何で誰もが誰かに当たったり、素直な気持ちを伝える事ができるんだろう。

 恐くは、ないんだろうか。

 知るのが、恐くはないんだろうか。

 僕はただの意気地なしなのかもしれない。立派なのは、勇気があるのは、きっと皆の方だ。誰の気持ち

も構わず、遠慮なく本心を言えるなんて、とても勇気の要る事だと思う。

 そしてそれを皆が当たり前にできているのだから、凄いと思う。

 一体毎日どれだけの、僕が胸に仕舞いたい想いが、吐き出されているんだろう。

 きっと数え切れないくらい、そんな想いが飛び出している。

 その想いはきっとこの世界全部を覆ってしまう程たくさんで、いつも繰り返し塞いでいる。

 空が暗くなるのはそのせいだ。

 きっとそのせいだ。

 だったら、僕の胸が膨らんだまま、僕の上だけはいつも晴れているんだろうか。

 この上だけが、世界でたった一つ、いつまでも明るい事に、何か意味があるのなら、僕は誰かを照らせ

るのかな。

 それとも、この光は、いつまでも僕だけを照らすんだろうか。

 それはちょっと、寂しいな。


 ああ、いつかこの胸が膨らみすぎて、空に浮かんでしまうのかもしれない。

 そうすると僕はあの空の上に昇って、一人で何をするのだろう。

 下を見て、皆を見て、僕はやっぱり全てを飲み込むんだろうか。

 それとも、誰も見ていないから、今度は一人で吐き出して、まるで雨のように吐き出して、言いたくな

い想いを世界中に降らせてしまうんだろうか。

 そうすると僕の胸はしぼんで、もう一度地上に戻る事ができるのかもしれない。

 でもその時は全ての人が僕の本心を知っていて、きっと恐い顔をしているだろう。

 それはずっと、嫌だな。


 やっぱりこのままがいい。

 例え空に昇っても、ずっと溜めていよう。

 この想いをずっと、自分だけのものにしよう。

 それが良いのかどうか、解らないけど。多分僕の心は救われる。

 でも僕の想いは救われない。

 多分、どっちかなんだ。どっちかだけが救われる。

 それを選べる事って、幸せなのかな。

 それとも、不幸せなのかな。

 ああ、また涙が出てきた。

 涙なんて出したって、何にも変わらないのに。それを知っていて人は泣くんだね。何の意味もないのに

泣くんだね。泣いてしまわないと、耐えられないから。

 でも良いんだ、それで。

 このまま膨らんで、もう二度と誰と出会えなくなったとしても、僕は、僕は満足だ。

 胸の苦しみが、不思議に心地良い。

 これは、間違っているのかもしれないけれど。




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