寝室の亡霊


「何故、そう考える以上に虚しい言葉は無い」

 疑問など無意味。寝台に腰掛け、頭を抱えているしかない。

 気付いた時、私はこの部屋に閉じ込められていた。

 豪奢な寝室。そう呼ぶに相応しい場所。どこかの金持ちが住んでいるのだろう。誰も居ないのに掃除が

行き届いている。

 持ち主は誰だ。私か、それとも他の誰かか。

 解らない。

 辛うじて解るのは、私が死んでいるという事。私の死体が目の前に転がっているという事。

 争った形跡は無い。まるで死体をその場所に空から落としたかのように、血を流している以外に変わっ

た様子は見えない。

 これは何だ。

 私の事なのだから、私自身が憶えている。

 確かにそうかもしれない。理屈ではそうだ。しかし悪い事に私は記憶を失っている。何も思い出せない。

自分の名前さえ解らない。この部屋が私の持ち物かどうかも解らないのはそのせいだ。

 私はここに居て、そして何かあった。それに間違いはないのだが、知る為の情報がなく。私はこの部屋

から出る事ができない。

 何故か解らないが、出る事ができない。

 出ようとしても、いつの間にかこの寝台に戻ってしまう。まるで吸い寄せられるように。空間が捻じ曲

がってしまっているかのように。

 多分私の足元にある私の体が、私の魂を離さまいとしているのだろう。或いは私自身がこの体から離れ

たくないのか。

 もしかしたら記憶をこの体に残したまま出てきてしまったのかもしれない。

 それとも死ぬという事は本来そういうものなのだろうか。

 何しろ初めての経験であるから、何も解らない。記憶を失っているから益々解らない。

 私は今、何をどうすれば良いのだろう。

 どこへ、何をすれば良いのだろう。

 諦めてお迎えというやつを待ってみても、一向に現れる気配がない。

 窓を見る限り、一日は経っている筈なのに、人も天使も悪魔も死神さえこない。

 見捨てられてしまったように、私はいつまでも一人この寝室に居る。

 お腹も空かなければ疲れもしない、眠くもない。でもそれが苦痛だ。こうしてただ答えなく悩んでいる

しかないというのは、非常に辛い。

 せめて眠れれば・・・・、何も考えずにいられるのに。

 する事も無いので、室内を調べてみた。何か手がかりはないのか、私を知る、私の死因を知る手がかり

はないのかと。

 それが解れば、何か思い出せるかもしれない。

 しかし目立つような物は見当たらず。本当はそこに答えがあるのかもしれないが、記憶を失っている為

に、それを判断する事もできない。

 結局嫌になって止めた。

 益々迷うだけだ。

 諦め、腰を落ち着けて考えているが、いくら待っても無駄だった。記憶は何一つ戻らない。完全に失っ

てしまった。忘れたのではなく、失ってしまったのだろう。

 手がかりは無い。

 ここには凶器も犯人も目撃者も記憶も無く、私の死体が転がり、血を流しているだけ。

 この部屋から出る事もできない。

 完全に手詰まりだ。これが推理小説か何かであれば、名探偵か警部でも登場してくれるのだろうが、そ

れもないようだ。

 一体ここの住人はどうしているのだろう。何故誰もこの部屋を訪れない。こんなに綺麗に保たれている

というのに。誰が掃除しているのだ。何故昨日今日に限って誰も来ない。

 まさかその掃除人が犯人なのか。私は偏屈な人間嫌いで、来る人間といえば身の回りの世話をするその

犯人だけ。だから殺されても気付かれず、気付かれないまま放置される。

 それなら説明がつく。

 しかし見る限りこの屋敷は相当に広い。ここも一階や二階の高さではない。一人二人では到底綺麗に保

つ事はできないだろう。誰が犯人でも、別の誰かが気付く。

 という事は、組織的な犯行なのだろうか。そういう仕事を請け負っていると見せかけて、窃盗や強盗を

繰り返している組織があり、そいつらにやられた。

 その可能性は否定できない。

 もしそうなら私は、いや私の死体はもうおしまいだ。

 ここには誰も来ない。未来永劫うち捨てられ、いずれ腐り、消えていくだろう。

 誰にも知られないまま、私はこの死体と共に消えていく。

 死だ。永劫の死だ。

 それとも私だけは、私のこの魂だけはいつまでも残るのだろうか。誰にも知られず、誰にも知らされず、

記憶すらなく、誰とも知れぬ誰かのまま、独り存在し続けるのだろうか。

 それは嫌だ。そんな事になるくらいなら消えてしまいたい。

 私という記憶がどこにも無いのなら、消えてしまいたい。私の存在そのものまで忘れてしまいたい。

 ああ、そうか。私は忘れたかったのだ。死んでまで私という人生を憶えていたくなかった。だから全て

を忘れ、ただ死した後の存在となって、今ここに居る。

 もう二度と思い出す事は無いだろう。私という存在は、私にさえ忘れられてしまった。私の希望通りに。

 しかし何故だ。何故こうも悲しい・・・。忘れたいから忘れた筈なのに、誰も憶えていてくれない事が

こんなにも寂しく悲しいとは。

 矛盾している。いや、実際に忘れてしまうまでは、それが持つ本当の意味を知らなかったのだろう。忘

れるという事の怖さを、私は知らなかった。

 だから望んだ。愚かにも。

 何も解らず放り出されたまま、永遠に存在し続ける事の虚しさを、私は知ろうともしなかった。憶えて

いるから辛いのだと、全てを忘れてしまえば楽になるのだと、そう考えていたのだ。

 そうだ。そうだった。私は全てを忘れる事で解決できると信じ、この手で、この手で私自身を・・・。

 いや、違うのかもしれない。そんな気もするが、やはり何も思い出せない。記憶は空っぽで、何も答え

てくれない。私がここに居る意味さえも。

 真っ暗だ。私の心は真っ暗で虚しい。

 この推測は正しいのかもしれない。だが、そんな事もどうでも良くなってきた。初めこそ知りたかった

が、例えそれを知ったとしてどうなる。私の記憶は戻らない。そして私はこの部屋から出る事ができない。

 何になるというのか。

 助けを呼ぶ事も、救いを求める事もできない。私は死んでしまったのだ。死んだ人間は何もできない。

ただ死に続けるだけ。私のように全てを忘れ、忘れながら消えてしまうだけだ。

 それともいつまでも居続けるのか。ここに。

 それが罰なのか。自分そのものから逃げ出した罰なのか。

 許されぬ罰なのか。

 この部屋が腐り落ちて後も、私はこの場所に留まり続けるのか。

 嫌だ。それだけは嫌だ。しかし、どうする事もできない。

 逃げ出したくても逃げ場は無い。すがり付こうにも誰も居ない。逃避しようにも自分さえ無い。こんな

私に何が残されている。どうすればいい。どうすれば救われる。

 祈るしかなかった。

 最後に残されていたのは祈り。神に祈りを捧げ、許しを乞う。偉大なる貴方なら、私を救って下さるで

しょうと。

 しかしその答えは無慈悲なもの。

 私は救われない。救いはこない。天へ導く筈の何者も、私の前には現れてくれなかった。

 泣き喚いても無駄だろう。

 そんな理由さえ忘れてしまった。

 忘れてしまった事を泣いても、愚かだと笑われるだけだ。自分の選んだ道を嘆くなど、どうかしている。

 それでも神は許してくれる。

 そうかもしれない。実は今もそう信じていたい。自分勝手な心だが、まだどこかで救われる事を望み、

待っている。それは素直にそう言おう。隠す必要も無い。

 だがそれは叶わない。ただの夢だ。

 悪魔でさえ見放した私の魂を、一体誰が救ってくれるというのだろう。

「ああ、今の私には涙さえ忘れてしまった」

 どうしようもない思いを抱えながら、私はいつまでも死んでいるしかない。

 誰も居ないこの場所で、誰にも気付かれず、こうして居るしかない。

 本当の孤独というものを、私は何も知らなかった。

 人は生きている限り孤独ではない。本当に失われるのは、死んだ時なのだ。この世との繋がりを無くし

た時、私という存在は本当に独りになる。

 勿論、救われる人間も居るのだろう。神が、或いは悪魔が手を差し伸べる人間が、どこかには居る。否

定はしない。

 でも私のような人間は全てを失ったまま、永劫に孤独でいるしかない。その本当の孤独を、貴方は想像

できるだろうか。独り死ぬ虚しさを、理解できるのだろうか。

 どんなに辛い人生であっても、忘れてしまえばおしまいだ。何も残らない。

 喪失感だけがあり、それを味わう為に存在している。

「ああ、私はいつまでこうしていればいいのだ」

 これは罰か。

 答えてくれる声は無く。また気にかけてくれる誰かも居ない。

 私はこの部屋で、いつまでも失った生と共に居る。多分、お互いが、消えてしまうまで。

 魂もまた、腐り落ちるのだろうか。

 そうだったら、どんなに良いだろう。

 願えるとすれば、それだけを願いたい。

 いつか、終わりが来る事を。

 死は終わりではない。始まりである。

 私は何も知らなかった。何も。

 そして何も憶えていない。いつまでも。何も。今も。




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