私の背中は曲がっている。 きっと凄く曲がっている。 空を見上げられないくらい、きゅっと曲がっている。 いつもいつも丸めていたからだ。 下ばかり見ていた訳ではないけれど、決して上は見てこなかった。だからこれでいいのかもしれない。 窮屈(きゅうくつ)に身を屈(かが)め、パソコンにありもしない言葉を打っている。 それだけで十年生きてきた。他に楽しみも無く、意義も無く、流されるようにして生きてきた。 勤勉でも勤労でも一生懸命でもない。私はただの背中が曲がった一人の男だ。 無様で浅はかな人間である。 人一倍欲があるくせに、何もしてこなかった。 できないと思い込んでいた訳ではない。解っていて何もしてこなかった。 生来飽きっぽかったように思う。 それでも十年打ってこれたのは、暇だったのか、そうする事が好きだったのか。 もしくは他に何もなかったからか。 何も生み出せないし、作り出せない。誰かを感動させる事もできなければ、ありがたがられる事もない。死 なないだけましであるような、ちっぽけな人間。求められるものなどありはしない。 それを埋めるべく、優しさのある振りをして求めているけれど。奪われる一方で、誰も私に優しくしてくれ はしない。 いや、家族はそうしてくれているのか。ほうっておいて、好きにさせてくれている。それだけでも幸せと言 えばそうだ。今の私に家族になど構っている余裕は無い。 それに私の望む優しさはそれではない。望む相手も家族ではない。 きっと誰も与えてくれはしないのだろう。未来永劫(えいごう)、きっと。 それでも絶望できない事は不幸なのか、幸せなのか。 解るようで何一つ解らない。何も悟れないまま生きてきた。 人のことは解るが、自分の事は解らない。 人の理由で動けても、自分の理由で動けない。 能動的であるように見えて、実際は受動的だ。 私の行動の全ても、誰かの受け売りでしかない。 飾り立てた、作り物の人間らしさの中でもがいている、そんな一人の人間。 自分でもあわれだと思うが、どうにもならない。しようとも思わない。そしてその事に絶望すらしない。諦 めているのに、希望を持っている。 ありもしないと解っている希望を抱き、それでもまだ生きている。自分に絶望できない。 本当にどうしようもない生き方だ。 もしこれが他人であれば、腹が立って仕方ない事だろう。でも悪い事に、それは他人ではなく自分なのだ。 背中が曲がるのも頷ける。私は堂々と胸を張る事ができない。いつでも身を屈め、誰かに屈している。借り 物の力を負っている。 だから誰も直視する事ができない。自分を恥じているから、下ばかり見ているのだ。 そして曲がった背中をせせら笑い、気にしながら不恰好に生きている。 そんな生をいつまで続ければいいのか。 死にたいとは思わないが、いつまで続くかと思うと物憂く思う事はある。
いつか私の背は、真っ直ぐに伸びるのだろうか。 |