大人のやり方


 人は皆赤子として生まれ、子供を通り、大人になる。

 赤子の期間は寿命からみると僅かな時間で、大人の期間は成人するのが二十歳からだと考ると、人生の

7、8割にも及ぶ長い期間となる。

 しかし人間は成熟するまでに時間のかかる生き物である。二十歳が一応の区切りだとして、実に大人に

なるのには二十年もかかるのだ。これは他の生物と比べれば、怖ろしい遅さである。

 だから子供の期間も決して短いとは言えない。世の中の事を吸収して行く期間だとすれば、その密度も

濃く、特に印象深い期間なのではないか。

 だが二十年もの年月を費やして大人になったと云うが、実に大人らしくない人間の多い事。それは国や

地方の価値観によって差異もあるが、その中で最も楽な基準でさえ、達していない者も多いと思える。

 では一体何が違うのか。単に歳を重ねる事が大人の条件でないとすれば、一体なにが大人なのか。大人

のやり方だと言うのだろう。

 単純に考えれば、二点が挙げられると思う。

 一に、直接的な報復をしない事。二に、過敏な反応をしない事。

 他国は知らないが、ここ日本においては、所謂長者風の大らかで度量の大きい人間の事を、我々は大人

だと言っている。だとすれば、この二点のような意味ではないかと思える。

 例えるなら、直接的な報復とは、何をされたとして怒って殴りかかるような真似はいけない、という事

になり。過敏な反応をしないとは、小さな事、又は他人の事にまで一々反応しない、と云う事になるだろ

うか。

 ようするに自分だけが良いのだと、自分だけが正しいのだと、思うのではなく。自分と違う考えを排斥

しようと考えるのではなく。まず自分から他を受け容れ、思いやり、お互いが受け容れ合うようにしてい

くのが、大人のやり方と云う事だろう。

 自分を尊重するように、他者も尊重する。それが大事な事とされている。そして実際人生を歩めば、そ

れが本当である事が、誰にでも解る。

 しかしそれも媚びる程までいけば、逆に子供のやり方となってしまう。さじ加減が難しい。だからこそ、

人が大人になるのには、時間がかかるのだろうと思う。おそらく他の生物では、このさじ加減は大して必

要では無い。だからこそ、大人までの期間も短くて済むのだ。

 他の生物は、単純に自分で食えるようになれば大人とされる。それは物理的、身体的な面であって、人

間のように精神的な面は重視されていない。少なくとも、人間よりは重視されていない。中身がどうであ

ろうと、生物の間では、とにかく自力で生きられれば、一人前とされる。

 人間だけが、別のモノを身に付けなければならない。面倒ではあるが、人の世にはそれが必要なのだか

ら仕方が無い。必要なモノを否定する事は、誰にも出来ないのだ。

 他に、今言われる大人という言葉には、別の面もある。

 言い方は悪いが、狡賢い、そういう意味合いも含まれているようだ。処世術と言い換えても良いかも知

れない。つまりはこれが人間でいう生きる力、他の生命の大人の証明である、生存力なのだろう。

 けれどもここで疑問も浮ぶ。従来の長者持つ、大らかなる許し、という面と、この狡賢いという面は、

まったく矛盾しているのではないかと。

 だがよくよく考えてみると、実は矛盾してはいない。狡賢いといえば印象がとても悪いが。これは上手

く生きると云う事であり、その印象から来る媚や計算高いと云う余計なモノを除外すれば、全くもって印

象を損なわず、長者という面と同居出来ると思われる。

 今でこそ狡賢いという印象が強いが、元々は単に賢いという意味だったのだろう。

 先を見て、人を見て、頭を使って生きる。そう云う意味ではなかったかと思われる。

 しかし言葉にしろ何にしろ、長い年月の内に毒され、本来の意味とは離れる事も多いもので、本来の大

人が少なくなってしまった故に、大人と云う言葉までが堕ちてしまったのだと考えられる。

 例えば敵を作らない。味方を増やす。これらは本来悪い印象とは結び付かないものだ。しかし長い年月

の内に、小ずるい手段を考え、それが小ずるいが故に誰にでも出来る事であるから、次第に人間の中で広

まり、浸透してしまう。

 すると人間の機能として、どうも悪い事の方が印象強いものであるらしいから、次第に悪い方の印象の

みが一人歩きし、本来の意味を覆してしまう。

 勿論本来の意味も生きているのだが。元は良いものだったのが、次第次第に歪められ、全く別のものに

変化させられてしまう、と云う事も、往々にして良くある事である。本来は別の意味であった事が、全く

正反対の意味に変わってしまったり、言葉も時代に寄って変化している。

 だからこれを本来の意味に還し、賢い生き方をする人、と云う事にすれば、違和感無く結び付く。本来

の意味を忘れず、歪められた言葉に誤魔化されないように、大人らしく賢く生きていなければならない。

 こういう風に考えを煮詰めていくと、大人のやり方とは、長者の対応、賢い生き方、この二点が重要だ

と云う事になる。

 そしてこの二つを、変わる事無く持ち続ける事が大人と云う存在なのだろう。

 全てが変わっていく中でも、その本来の意味を思い、探り、今ある印象だけではなく、誰かが述べた事

鵜呑みにするのではなく、自分で考え行動するやり方を身に付けねばならない。

 自ら答えを導き出せ、尚且つその答えが誰から見ても立派だと思える事、これが大人の条件であり、や

り方なのではないだろうか。

 感情を上手く抑え、きちんと考えて答えを導き出す、その上でその答えが間違っていないかと探る。も

っと言うなら、自分を自分で操れる者が大人なのだ。

 真に単純かつ明瞭であるが、だからこそ答えとして相応しい。

 答えとは、須くそういうものであろうから。

 そして思うのは、それが大人だとすれば、今の世に本当の大人とは、一体どれだけ居るのだろうかと云

う事。

 まず大人は傲慢ではないから、自分を高く見せようとはしない。間違っても自分で自分を大人だとは思

っていない。そして他者を攻撃する事もしないから、間違っても誰かを馬鹿にしたり、お前は子供などと

恥ずかしくて口にする事も出来ないだろう。

 そもそも大人子供を考える時点で、子供なのである。だから恥ずかしながら、この私も当然のように子

供である。だから大人の条件を模索し、何とかそれに適う人間になろうとしているのだが。寂しい事に、

私の今までの人生の中では、これに適う真の大人など、ほとんど居なかった。

 手本としたい人間はおらず、反面教師にしか出来ない大人ばかりであった。もし手本となる大人が居れ

ば、私が大人になる事にも、他の子供達が大人になる事にも、こんなに苦労する事はないだろうに。真に

残念な事である。

 人として大人まで成長するのは難しい。

 単純に年配の人程落ち着きがあり、思慮深いと考える人もおられるかもしれないが、それは違う。誰で

も自分の人生の記憶を振り返れば、納得出来ると思う。やはりこれは年月ではない。老いに関係なく、む

しろ人に寄る。

 同じ環境で育ち、同じ事を学んだ中でも、人としての成熟具合に差が出るのだとすれば、やはりこれは

環境や時代のせいではなく、自分の問題だとしか考えられない。自分のやり方が、行き方がそもそも間違

っていたのだ。

 人は自分を律し、子供、そしてこれから生まれて来る子供達に恥じぬよう、早く大人になるべく、毎日

精進していかなければならない。世の中を良くするには、まず自分を良くしなければいけない。自分はま

だ大人になりきれていないと気付き、そこで開き直る事をせず、自分の為に努力し続けなければならない。

 そうする事のみが、自らにも幸福をもたらす。待っているだけでは、時を経ただけでは、誰も大人にな

どなれない。歳を経ている分だけ、恥を余計にかくだけである。

 いつか大人の化けの皮が剥がれる前に、なんとしても大人になりたいものだ。

 もしすでに剥がれてしまっているのならば、急ぎ改心せねばならない。

 まだ遅くない。終わり良ければ全て良し、と云う言葉もある。例え短い間になるとしても、最後くらい

大人として晴れがましく生きたいではないか。

 大人ではない大人のままで生きるのは、非常に辛い事である。生きているだけで恥をかく、これ程辛い

事は無い。

 一人の良い歳をした人間として、それに相応しい言動を身に付けたいものだ。

 そして早く真の大人になりたい。

 私は晴れがましく生きて、安らかなるまま生を終えたいと願う。

 その為にこそ、今から実行せねばならない。

 大人のやり方、時間がかかるからこそ、早速始めよう。




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