百億


 ある時数人の若者に絡まれた。話には聞いていたが、まさか本当にこんな事があるとは思っておらず、

しかもそれが自分にふりかかるなんてもっと思っていなかったが、それでも現実に起こる時は起こってし

まうらしい。

 狭い路地で前後を塞がれて逃げ場所はなく。切り抜けるだけの腕力もない。どうやら金目当てのようだ

が、財布にはわずかな金。素直に出しても納得してくれるだろうか。隠していると思われ、酷い目に遭わ

されるかもしれない。

 万事休す。諦め、せめて病院の世話にならないように祈った。

 しかし幸運にも助け舟が現れた。どこからともなく。まったく何の脈絡もなかったが、これも現れる時

は現れるものらしい。

 それが何であれ、来る時は突然に、そんなものかもしれない。そしてその助け方もまた突拍子もないも

のだった。

「目的は金か。ならばくれてやる。さっさと失せろ」

 その人は乱暴にそう言って札束を無造作に放り投げたのである。私は暫く呆然と眺め見ているしかなか

った。若者達も状況が把握できずぼうっとしていたようだったが、大分時間が経ってから目の前の札束に

気が付くと嬉々とした表情をして、私の方などもう一切気にかける事無く、分け前を争いながら何処かへ

と消えてしまった。

 おそらく目当ての何かを買いにでも行ったのだろう。くだらない何かを。

「あ、ありがとうございます。お金は弁償致します」

 若者達を見送った後、私もようやく我に返りそんな事を言った。勿論金を返す当てはない。しかしここ

はそういうしかなかったのである。私も人である以上、最低限の責任と礼を持たなければならない。当て

はなくとも気持ちだけは返すつもりでいた。

 しかしそんな私の言葉をその人は全く考慮せず。

「必要ない。むしろ好都合なのだ。人助け以上に上手く金を消費出来る手段はないのだから」

 そんな事を言って、さっさと去ってしまおうとする。

 だが私としてもこのまま去られては困る。金が要らないとなれば、相当の金持ちなのだろう。そんな相

手に何が出来るかは解らないが、出来る限りの事はしなければならない。でなければ自分が惨めになる。

 だから私は無理を言ってその辺にあった喫茶店に誘い、とにかく一杯の珈琲でも奢らせてもらう事にし

たのである。

 その人はいかにも迷惑そうだったが、私の熱意に負けたのか、邪魔くさいと思ったのか、最後には私の

提案に乗ってくれた。

 こうして期せずして不思議な人間と話す機会を得たのだが、全く不思議な人だった。

 職業などその人の事は一切教えてくれなかったので解らないが、とにかく有り余る程の金があり、もう

何もしなくてもただ生きているだけで後から後から金が増えるような状況にあるとの事で、金というもの

に心底うんざりしているらしい。金も足りないと思うから欲しくなるのであって、使えきれない程あった

としたら、逆に使いきれない分だけ虚しく感じるものらしい。

 私のような者には解らないが、金持ちには金持ちなりの苦労があるようで、全てを捨てたいとまでは思

わないが、とにかく自分が管理できるくらいの額には減らしたいらしい。

 この人はその目的の為に金を浪費しているのであって、感謝されたいとか、何か良い事をしたいと思っ

て金を使っている訳ではないそうなのだ。

 そのままでは金が増えてしまうので、資産なども少しずつ売り払っているそうだが、売り払う事で毎年

の収入はなくなるとしても、その売り払う事自体で莫大な金が入ってしまい、どうにもならないらしい。

とにかく使って使って使わなければ、とても減らない。

 どれだけ使っても大して減らず、いくら散財しても追いつかない。そういう人間も居るのだという事を、

私は始めて知ったのである。

 金というのもある程度まで増やせば、それ以後は稼ぐのに大して苦労はしないらしい。勿論簡単ではな

いが、あえばあるだけ危険の少ない儲け方がある。だから金持ちは益々儲け、一般人はそのまま、という

訳だ。

「どれだけ使っても増えていく、まさに地獄さ、うんざりする。くだらない人間はまとわりついてくるし、

誰も彼も金を狙っている。初めはこれ幸いと望むだけやっていたが、そんな事をしている内に噂を聞いた

人間が亡者のように溢れ、一日中金をばら撒かなきゃならない始末さ。でもそれでも減らない。一応投資

っていう名目だからね。それだけ大勢の人間にばら撒いていれば、その中の何人かは成功してしまうのさ。

全く馬鹿馬鹿しい話だ。私はそんな事をする為に生まれてきたのじゃない。私には私の人生がある。金に

振り回されるのはもう沢山だ。だから家も何もかも売り、こうして当ても無くうろついている。小汚い格

好をしてね。全く滑稽な話さ。誰だい、金があれば幸せになれるとか言っている奴は。そんな奴らは全員

地獄に落ちてしまえ。この苦しみを知らないくせに、好き勝手な事言ってるんじゃない。お望み通りさっ

さと金に埋まって死んでしまえば良いんだ。金なんて全て消えてしまえ」

 初めは頷きながら聞いていた私だが、話がそこに至ると、流石に反論をしたくなった。確かに金だけで

はどうにもならない事もあるのかもしれない。あり過ぎるというのも一面は不幸なのかもしれない。しか

し無いよりは良いではないか。

 金がなくて今日生きるのにも苦労している人がいる以上、例え面倒な事があったとしても、衣食住の心

配をしなくていい暮らしというのは、やっぱりどれだけ幸せか知れない。

 その人も苦労はあるだろうが、やはり一面的なものだろう。この世は金持ちの理屈だけで成り立ってい

る訳ではないのだから。

 私がそういうとその人は怒るでもなく、むしろ私を哀れむような声でこう言った。

「ならば体験してみるといい。ここに百億の小切手がある。これを君にあげよう。どう使うかは君の自由

だ。何をしても構わない。ただしそれで何が起きようと私は知らないし、何をしたとしても責任は持たな

い。好きなように好きなだけ使い、好きなように暮らしてみるといい。もしこの金を全て使い切る事が出

来たとしたら、私は君を信じよう。ああそうだ、換金に困ったら、ここへ連絡してくれればいい」

 そして百億の小切手と連絡先の書かれた紙切れを残し、その人は今度こそ去って行ってしまった。その

言葉が何を意味するのか、何がしたかったのかは解らない。しかしこうして私は労せずして百億という金

を手に入れたのである。

 小切手。これがなかなか厄介なものだった。換金に手間取り、自分の口座にお金が入るまでに時間がか

かる。そしてそれ以上にその小切手を見た時の銀行員の表情とその態度の変化の方が気になった。

 言ってみれば新しい餌を見つけた野獣のような、というべきか。何とも嫌な顔。

 大口の取引も多く、ある程度の金額には慣れている銀行員でも、ぽんと百億の小切手を出されると、そ

してそれまでにまったくといって良い程利用されていなかった、利用しても呆れるくらいの小銭しか動か

なかった口座に振り込むとなると、やはり思う所があるらしい。

 金の出所を根掘り葉掘り聞かれたし、まるで容疑者のような扱いを受けた。その癖態度自体はあくまで

もやわらかな風で、慇懃無礼という言葉が良く似合う。こんなに気持ちの悪い、気分の悪い人間の姿があ

るものかと、私は思ったものである。

 しかし小切手と一緒にもらった紙切れを渡し、暫く経つとその態度は急変し、容疑者から大臣にでもな

ったかのようなおかしな変化を味わった。

 全く人というのは何てころころと変わるものなのだろう。同じ人間、同じ相手でこうまで変わるものな

のか。

 しかし今思えばその姿は上辺だけだった事に気付く。銀行員は全く変わっていなかった。私に対する扱

いは明らかに変わったが、様々な融資先だの預金方法だの、どうでも良い言葉を並べ立てられる事も、考

えてみれば尋問されているのと何も変わらない。聞きたくもない事を延々と聞かされる事は、何も変わら

ないのである。

 うんざりして強引に打ち切って逃げ出したが、そうしなければいつまでもどうでもいい言葉を延々と聴

かされていた事だろう。それは騒音と変わらない。

 金があってもなくても銀行というのは性質が悪いものだ。馬鹿丁寧な態度の裏に、全て軽蔑を感じる。

銀行を利用する時は奴らに目を付けられないように気をつけた方が良い。奴らとは極力関わらない方が幸

せなのだ。

 それから一月が経ち、ようやく金が振り込まれた。もっと早くても良さそうなものだが、どういう理由

で時間がかかったのかは解らない。銀行員の話をほとんど聞いてなかったからだ。とにかく入金されれば

電話で知らせを受ける事になっており、当然のようにその時にも様々な融資先だのを紹介された。気持ち

悪いくらいに同じ口調で、同じ事を言ってくる。これも途中で強引に切らなければ、精神を無意味に浪費

させられていた事だろう。

 あいつらの言葉を聞いていると、十歳は老け込んでしまう気がする。馬鹿丁寧なくせに気持ちがなく、

底には軽蔑だけがある。まったくうんざりする。

 私は少しだけあの人の苦労が解ったような気がした。ただ金を受け取るだけでこんな目に遭ってしまう

ようでは、この先一体どんな苦労が待っているのだろう。言ってみればこれからが本番なのだから、想像

するだけでうんざりし、憂鬱になる。

 そしてその他にもそうなる理由があった。

 私はこれまでせいぜい数十万程度の金しか見た事はないし、持った事もない。数千円の買い物にも戦々

恐々し、百円多いか少ないかを非常に気にするような生活を送ってきた。

 そんな私が突然百億の金を得たのだ。一体どうすれば良いというのか。そして銀行員の変化を思うと人

に対しての恐怖も強くなる。もし私が大金を持っていると周囲に知られたとしたら、周りの人間は一体ど

ういう反応を示すだろうか。

 友達、家族、知人、その全てが銀行員となって私を責め立てるかもしれない。そんな事になったら、と

ても耐えられない。銀行だけでもうんざりしているのに、世の中の全てがそうなったとしたら、もう生き

る居場所がなくなってしまうではないか。

 初めはあれをしようこれをしよう、あれも買おうこれも買おう、などと浮かれていた気持ちも、この一

月の間に随分様変わりしている。

 喜びはいつの間にか消え、今では絶望と困惑だけがある。

 こいつも知っているのではないか、急に近付いてきたのも金目当てではないか、誰に会ってもそんな疑

問だけが浮かび、私は次第に人に会うのが怖くなって、仕事を辞め、全てを引き払い、人里はなれた田舎

に山を買って、そこに一人で住む事にした。

 百億の金も、いや一億でもこんな所に居る限り無意味だろう。金もただ貯めているだけではゴミと同じ。

使い道が無ければ邪魔になる。いや、邪魔どころか人が欲しがるだけ危険だろう。さっさと捨てるなり燃

やすなりしてしまった方が良いかもしれない。

 私には結局金を使う才能も度胸もなかったのだろう。金を使うどころか、恐怖し、追い詰められ、そし

て最後には逃げ出した。確かに私は金のせいで全てを奪われた、破滅したのだ。それも金を奪われたから、

失ったからではない。意味も無く大量に得たからこそ、全てを失ったのである。

 私に与えられていた唯一の本当の財産。地味だが平穏な生活、は全て消えてしまった。

 残されたのは使い切れぬ紙切れと金属だけ。多分一生かかってもこの百分の一も使わないだろう。そし

て預けている金は毎年増えていく。使えない金がいつまでも増えていく。それが誰の為か、何の意味があ

るかは解らないままに。

 確かにあの人の言った事は本当だった。使い切れない、減らない金などあっても、どうにもならない。

それは人を滅ぼすだけである。金も他の物と同様、必要なだけあればいいのだ。一億も百億も使い切れな

い、それだけ使う必要がないのは同じ。ならばある一定以上はいくらあっても無駄なのだ。過ぎた分だけ

無意味である。

 いや、無意味ではない。その分だけ恐怖が生まれ、私を追い詰める。増えれば増えるほど恐怖する。そ

こから早く逃げ出したいが、しかし今となっては金を失う事もまた怖くなっている。

 不思議なものだ。あっても困るが、失っても困る。丁度良い分だけ捨ててしまえば良いのかもしれない

が、さてその丁度良い分とは一体どれだけなのか。

 私はこんな風に悩み、一生を過ごすのだろう。

 今日もまた全てを恐れている。

 あの人に会う事も、もう二度とないだろう。




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