防衛本能


 我々はいつも漠然とした不安を忘れられず生きている。

 何が不安なのか、何を恐れているのか、原因も理由も解らない。しかし決して消えはしない。理解も意

味も解らず、他に言いようの無い、正しく漠然とした不安である。

 幸福である時でさえ、それは変わらない。むしろ幸福である時に強く思い浮ぶ。

 この幸せはいつかは終わるのではないか、こんな幸せが続くはずが無い。そう思いながら耐えられなく

なり、その緊張感から逃げる為、自分からその幸せを壊してしまう。

 そうして、ああやっぱり幸せは続かない、と一人で嘆くのだ。

 自らが壊しておいて、それを当然の事のように思う、他人事のように思う、まるで天災であるかのよう

に思う。そういう不可解な部分も、この漠然とした不安のせいではないだろうか。

 人の意志や欲望とも関係無しに、この想いだけが独立してあるからではないだろうか。

 だから不可解なまでの行動を起こさせる。そこに人とは別の何者かの思惑すら感じる。

 常にある矛盾。ある意味、不幸になる事で人は満足を覚えるのだ。

 理解出来ない感情と言えるが、誰しも自分を振り返って考えれば、何故か思い当たる節があるはず。そ

ういうものが人にはある。無い人は居ないのではないだろうか。

 真に迷惑極まりない話ではあるが、それが今の今まで消えていないと言う事は、おそらく人間にとって

必要なものなのだろう。常に危機感を持つ、そうしなければ生存競争を勝ち抜く事は出来ないのだと。

 或いはそう思わされているのだろうか。

 それとも、人間が生存競争に勝つ上で、単純に自然な流れで身に付いたものなのかも知れない。

 もしかすれば、全ての生命が等しく持っている感情なのか。

 危機感があるから生きていられるのか。

 確かに生きる事は競争である。命を喰らってしか生きられない以上、そうなって然りの事だ。

 しかしそのおかげでいつしか不幸を求めるような格好となっては、本末転倒ではないだろうか。生きる

為に不幸を求める、これは酷く虚しいように思える。

 幸福をのみ求め生きているはずであるのに、何故幸福を壊そうとしてしまうのか。何故そういう誘惑に

いつも付きまとわれるのか。

 生きる為にそうしているのだとすれば、幸福こそが生命の敵なのか。

 不幸こそが生命の敵ではなかったのか。

 確かに危機感は必要である。今も様々な危機が、人の日常という狭い範囲の中ですら、夥しい程に存在

するからだ。

 しかし自ら幸福を壊すような、怖ろしいまでの、まるで飢えにも似た、危機感を持つ必要はないのでは

ないか。

 傲慢と言われても、事実人が地上を制圧している現状、少なくとも人間が他種に絶滅を強いられる危険

が無い以上、必要の無いものではないだろうか。

 それともまだ何かが、人を滅ぼせる何かが、いつも人を狙っているというのか。

 しかしそれとても、今の幸せを壊す理由にはならない。満ち足りた生であるからこそ、存分に生きてる

からこそ、生命は幸せと感じるのではないか。幸せが幸せを呼び、力をうむ。生命力となる。そうして生

命体は繁栄していくのではないだろうか。

 それを人自身が否定すると言う事は、やはり幸せこそが毒物であるのか。夢を見るから人は滅ぶのだろ

うか。現実だけを見て生きていけ、不幸だけを背負って生きていけ、そういう事なのだろうか。

 だが幸せというのは、維持する事にあると思われる。変化せず、現状に足る事を覚え、満足している。

それが幸せ。ならばやはり幸せが人を滅ぼすとは思えない。

 やはりこの漠然とした不安、不幸から抜け出したい気持、今の幸せを幸せと思わずより求める気持、そ

ういうものが破滅へ導き、自滅していくのだと思われる。

 だとすれば、どう考えても人を滅ぼすのは不幸である。今の幸せに足りず、幸せを壊すから人は滅びて

いくのだろう。

 それに人間が自ら滅びる事はあっても、他の何かから滅ぼされるとは思えない。

 もしそんな事があるとすれば、おそらく地球外の何者かの仕業であるか、地球自体の異変のせいであり、

それは地球上の生存競争とはまた違うものであると考えられる。

 人がどうこうしても仕方が無い以上、この危機感は無用であると言える。

 この漠然とした不安は、不必要とは言わないが、むしろ必要であると言っても差し障り無いと思うのだ

が、どう考えても大きすぎるように思う。

 何度考えても、この不安自体が人を滅ぼしているのである。

 ならば何故、この皮肉な感情を捨てられないのだろう。

 そこまでして、一体何を求めると言うのか。何をしたい、或いはさせたいのか。

 もっと良い物、もっと良い物、際限の無い欲望を満たす為に、いつも幸せを壊していく。それもまた、

この漠然とした不安の為だろう。

 幸福に足りる事を覚えられない。これは何と不幸な事か。しかもそれを誰に言われるでもなく、自然に

人は持っているのだ。何と哀れなのだろう、我々は。

 幸福を得る為に幸福を壊す。無意味としか思えない。しかしその無意味さの為に我々は生きている。

 これを神の試練と呼ぶ人もいるだろう。

 しかし何の為の試練なのだ。足る事をもっと知れ、と言う事なのか。それだけの為に神は人の幸福を壊

すと言うのだろうか。

 そんな事をしなくとも、人は幸福のままでいられたら、わざわざ試練などしなくても、足る事を知り、

心は広くなるではないか。幸せな人間ほど寛大な存在はいないし、不幸せな人間ほど狭量な存在はいない

というのに。

 試練という余計なもののおかげで、人は更なる苦悩と不幸を見出しているとしか思えない。そこに救い

があるのだろうか。神がそんなものを望むのか。親が子にそんなものを望むものだろうか。

 一度不幸に突き落とされなければならないほど、人の欲望は限度が無く罪深いものだと言うのなら。そ

もそも何故そんなものを神が人に与えるのだろう。

 自分から欲望の悪魔のような存在を生み出す必要があるのだろうか。ならば神とは何だ。

 人間という悪魔を生み出す神とは何がしたいのだろう。しかも神は最後には悪魔である人間を滅ぼすと

いう。失敗したから滅ぼす。気持は解らないでもないが、だとすれば何故そこまで人間を放っておいたの

か。まさか気付かなかった訳ではあるまい。

 人自身が見ても解るくらい、人は愚かであると言うのに。反省もなく、自ら滅ぼしては許しを乞う。正

しく悪魔以外の何者でもない。

 まあ神にも様々な者がいる。様々な思惑で生かされれば、このような不条理になってしまっても、さほ

ど不思議では無いのかもしれない。

 神は神同士で争い、人にまで気を配っている余裕はないのかもしれないのだから。

 一神教の神は、おそらく魔王とでも戦っているのだろう。

 と言う事は、よくよく考えてみれば、人は神の手を離れているといえる。だからこれ程愚かであり、救

いようがない。人の罪は神の責任ではないだろう。子供のおかした罪が、親の責任ではないように。

 勿論、まったく関わりの無い事ではないにしても。一人の罪は一人の罪であるように思う。誰かのせい

にするからこそ、人は反省する事を忘れているのだろう。楽な方へ楽な方へと自滅する。

 人の罪はやはり人のものである。

 人の咎を神のせいにしても仕方が無い。そこに答えなどは無いだろう。

 人を貶めるのは人だけであり。人を救うのもまた人だけである。

 この漠然とした不安も、人間が生まれ育つうちに自ら身に付くと考えた方が、よりしっくりくる。

 ならば何の為に、何の為に今そこにある幸せを見失うような事を、人は求めたがるのだろうか。

 その結果幸福になれば良いが、大抵は不幸が待つ。というよりも、その為に壊すのだから、自然に不幸

になると言った方がいい。

 もしかすれば、この地上に人を脅かす存在が居なくなったからこそ、人は自らを滅ぼす手段を持たなけ

ればならなかったのかもしれない。

 増え過ぎれば、即ち滅ぶしかない故に。

 人はいつも危機感を感じていたいのだ。だから危機感を失わない為に、わざわざ自分で危機を生み出す

術を手に入れたのだ。

 そうする事で種としての人間を制御している。

 動物が食べる以外で他の命を奪わないのも、おそらく無意味に他者を襲えば返り討ちに合う危険がある

からで、それは何かといえば危機感である。

 人が無意味に他の生物を襲うのは、おそらく自殺したいが為である。

 冒険心、勇猛心、そういうものもまた、自殺の為の一つの術。

 他に絶滅を強いられる生物がいなくなった今、人間は自ら滅ぼすしかなくなっている。

 それが漠然とした不安を生み出し、耐えられない人間から自滅していく。周りのあらゆるものを巻き込

みながら。

 その中で、足る事を知ることだけが生き残る方法だと悟った者が、辛うじて幸せを繋ぎ止める。勿論、

それもいつまで持つかは解らない。人は変わる。変わるからこそ成長もし、退化もする。

 自業自得とはいえ、それが人である、何と怖ろしいことか。

 全ては自然に身に付いた事。いや、自然が身に付けさせた事、自然が命じた事。

 漠然とした不安。常に危機感を持つ事。それが自然の掟。

 正に自然こそが最大の神である。

 大神である自然も、自然を生かし繁栄する事だけを考えている。とすれば、自然を危機に陥れる存在を

滅ぼす、これは道理である。

 動物も同様、植物も同様、自然に生きる何者も、増え過ぎれば自ら滅んでいる。人だけがそうでないと、

一体誰が言えるだろうか。

 戦争などの同士討ちも、或いはその作用の一つなのか。

 自然もまた、地球自身とは別個の、一つの大きな生命であるのかもしれない。

 その中で暮らす限り、どのような存在もその思惑からは逃げられない。

 何しろ、自然という生命の中に取り込まれれば、誰であれ、その存在もすでに自然でしかない。自然の

一部に組み込まれている。そこに暮らす限り、決して自然からは逃げられない。

 それとも、人はいずれ自然に打ち克つ事が出来るのだろうか。ひいては、この漠然とした不安と、際限

の無い欲望に勝てる日が、いつか来るのだろうか。

 もし出来るならば、自然を滅ぼして人は生きる。どちらがどれだけ繁栄できるか、これもまた人と自然

の生存競争なのだ。

 となれば、人には依然、自然という最も大きな天敵、脅威がいる事になる。ならばこの危機感も自滅す

る不可解な行動も納得出来よう。今正に、人と自然は戦っている。

 しかし自然に克ったとして、自然を失った人間は生きていられるのだろうか。

 それこそが最大の矛盾ではないだろうか。

 ならば無意識の内に、人が望んで自滅しているのだろうか。人という種を残す為に。

 戦うのではなく、自然と人間は協力しているのかもしれない。全滅しない程度に滅びようと、人間から

共存へと歩み寄っている可能性は否定できない。

 これを愚かと言うのか、それとも英知と言えば良いのか。

 誰かと共に生きる限り、やはり人間一人の思惑だけで生きていける訳が無いのだろう。

 なら自然から離れ、宇宙に飛び出せば良いと言う人が居るかもしれない。

 確かにそれも良い方法だろう。少なくとも自然から離れれば、人が自然を生かす為に滅ぶ事は不要にな

ると思える。しかし宇宙に出ても、おそらくは宇宙の思惑があるのだ。

 人が自らに、いや自らの中にあると思っている他者の思惑に、克てない以上、永遠に人はそれに支配さ

れて生きていくのかもしれない。

 或いは無限の優しさによって、人は共存の為に自らを犠牲にしていくのかもしれない。

 どちらにしても同じ事である。増え過ぎれば滅す。全ての生命の理である。

 それとも何者かの思惑だの、誰かの為にだの考えているから、人はこの漠然とした不安に打ち克つ事が

出来ないのかもしれない。

 単純に、自滅するのが楽しいからやっているだけかもしれないのだから。

 人がそれほど高尚とは思えない以上、そういう可能性も多々あると思える。ただ人間が、愚かで愚かで

救いようが無い程愚か過ぎるだけなのだと。

 例えそうであれ、何も考えずにただ生きて自滅したとしても、おそらく人類滅亡まで行く事はないのだ

ろうが。

 防衛本能、それが誰の思惑であろうと、恐るべき刃と言うしかない。

 自滅すら強いる本能。

                                                          了




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