帽子の紳士


 彼は誰にでも帽子を取り、丁寧にお辞儀する。

 スーツを着込んだ金持ちらしき紳士、ドレスを身にまとった淑女、麗しき娘、気高き青年、知る知らな

いに関わらず、誰にでも丁寧にお辞儀する。

 配達員、清掃夫、召使、乞食、誰であれ等しく丁寧にお辞儀する。

 それが誰であろうと、それが何者であろうと、彼はにっこりと笑い、帽子をとってお辞儀をする。

「ごきげんよう」

 そんな事を言ったりもする。

 誰彼問わず、彼はとても丁寧である。

 彼の世界には、自分と他人という区別しかないらしい。王であれ、浮浪者であれ、彼にとっては等しく

他人なのだ。

 全ての人は他人という一括りの分類であって、そこには上下も何もない。誰もが同じ他人である。

 だから誰にでもお辞儀をし、誰とでも丁寧に話す。

 彼はいつも変わらない。家族であれ、初対面であれ、或いは何度会って友人付き合いをしようとも。例

え女性と付き合う時でさえ、彼はいつも変わらない。

 いつも丁寧で、物柔らか、顔には微笑を浮かべている。

 家柄も正しく、気品漂うその姿は、誰が見ても紳士である。

 しかし人は彼を紳士ではないと言う。又は彼は紳士を勘違いしていると言う。

 紳士とはあくまで上流階級という特権者のみが持ちうる称号であって、紳士は確かにいつも気品正しく

物柔らかでいなければならないけれども、それは紳士、淑女同士の間柄に限るのだと。

 それを召使、清掃夫、事もあろうに乞食にまで丁寧に振舞うとはどういう事か。

 彼のやっている事は、紳士と乞食を同格にする事であり、まったく紳士らしくない態度である。他の自

称紳士淑女達は彼にそう言う。

 しかし彼は改めない。

 彼はいつも自分で決める。人の意見は確かにその人にとっては大事かもしれないが、他人である自分に

対してはまったく無意味な事である。彼はそう考えている。

 親であれ、貴族であれ、例え王であれ、他人は他人。赤の他人の意見などを一々容れてやる者が、一体

どれだけいるだろうか。誰も他人の意見などは聞かない。同様に、彼も他人の意見などは聞かない。

 自分の為を思って言う意見というのは、ただ自分一人だけが持てるものだからだ。

 彼は知っている。君の為を思って、そんな風に言う人間もまた、ただ自分の事しか考えていないのだと

言う事を。

 だから聞かない。彼はいつも自分の判断に従う。

 そして言う。

「私は自己解決するのが好きなのです」

 人は彼を紳士ではないと言う。しかし私は彼こそが紳士だと思う。

 紳士とは自立した人間であり、一人前の人間の事である。そういう独り立ちした人間には、そもそも助

言も他人の意見も必要ないのだ。

 何故ならば、自らの確固とした意志があるからであり。それがあるからこそ彼は紳士であり、全ては自

分で判断できる。半人前でない以上、他人の意見などはいらない。

 これが公の事なら解らないが。私的な事であれば、自分一人の意見で充分なのだ。

 だからこそ彼は紳士である。そして今日も丁寧にお辞儀をする。

 出会う人、出会う人に微笑を投げかけ。少しおどけた仕草で帽子を取り、優雅にお辞儀する。

 人は彼を規律を乱す者だと言う。しかし私は思う。自立した一個の大人に対し、規律などがそもそも必

要であるのだろうか。

 規律とは当たり前の事を守れない、半人前の人間。つまりは子供に対してあるものであり。本来、大人

には必要のないものではないだろうか。

 むしろ大人が真面目ぶって大人に言う事ではないだろう。それは人に言われる前に、自然に自分で護る

べき事であり。正義感、自尊心という当たり前の、ありふれた人間の感情の一つなのだ。

 規律、規則、礼節、礼儀、色んな言葉がある。そしてそのどれもが大事であるに変りない。

 だがそれは全て半人前の人間に教える為に、わざわざ文章や言葉にしてあるのであって。そんなものを

振りかざし、乱すだの乱さないだの、そんな事を人に言う筋合のものとは思えない。

 本当の紳士であれば、淑女であれば、他人にそんな差し出がましい事を言わず。彼のように黙って、常

に礼儀正しく振舞うのではないだろうか。

 口にする必要はない。誰もが自然に護れている、護れているはずなのだから。それが大人である。

 それに、そもそも彼はただ分け隔てなく、誰にでも丁寧に接しているだけである。

 果たして丁寧である事が、裁かれるべき罪となるのだろうか。

 彼は正しい事をしている。紳士の精神に、まったくもって相応しい。

 もしそれを罪だと言うのなら。紳士淑女達の言う、規律を乱すというのは一体どういう意味だろう。

 彼は、誰よりも紳士であると言うのに。誰よりも紳士らしく振舞っていると言うのに。

 彼はいずれ裁かれるのだろうか。それとも貶められるのだろうか。

 私は私が知るただ一人だけの紳士が健やかに過ごせるよう、毎日神に祈る。

 そして今日も彼が一日丁寧に振舞えていた事を、眠る前に神に感謝するのみである。

 出来ればいつまでも感謝していたい。


                                                            了




EXIT