果たして今キュウリを食べるか否か。これは非常に重要かつ悩ましい問題だ。 確かに小腹がすいている。今このキュウリをさくさくっと食べてしまえば、それはそれで満足感は得ら れよう。しかし今それをする必要があるのだろうか。もう少し、いや後半日も待った方がより美味くこの キュウリを食せるのではないか。 このキュウリを食べずにおいて得られる事は、空腹感を増させる効果だけではない。もし冷やしでもし ておけば、その頃には程好く冷え、未だ暑さの残る今の時期では、その冷たさが非常に心地よく。キュウ リとしての味だけではなく、清涼感までもが味わえる。 ならばそれを逃す手は無いのではないか。 しかししかしだがしかし、今食べるという事の心地よさもまた捨て難い。 確かに今食べるべき理由は少ない。必ず今食べなければならぬという理由は何一つないと言っても過言 ではないだろう。 とはいえそれは逆もまた然り。今食べるべき理由はないが、今食べずにおくべき理由もまたないのだ。 おかしな事だが、相反するものでありながら共通する部分があるという事が、少なからずこの世の中に はある。 それがキュウリであれ、その他の例えば哲学的問題であろうとも、その真髄は同じ。全て同じ気持ちか ら派生する問題であるからには、そこに下等も上等も無いと言える。 今それをやるのかやらぬのか。やらぬとすればいつやるのか。いつまでもやらないのか。という問題は 全ての事に当てはまる悩みとも思え、それを解決する為にこそ我々は自らの人生を捧げているような気が しないでもない。 それらから要約すれば、我々はこのキュウリの問題を解決する為に生き。逆説的に述べるならば、この キュウリ問題に大して悩む事こそが人生であるという事になる。 キュウリ問題が私にとって、そして全人類にとっても、どれだけ重要な問題であるかがこれで理解出来 た筈だ。全ての問題はキュウリに帰結し、そしてまた全ての問題はこのキュウリから生まれる。それが我 々の求めていた真理であるのだと。 真理、真実などというものは、須らくちっぽけでつまらないものである。それを高尚なものと思いたい 所に、我々の不幸があるに違いない。 こんな風に取り留めのない思考に身を任せていると、小腹がすいたという形容から、私の腹すき具合は いつの間にか遠ざかっていた。 つまり本格的に空腹を覚え始めていたのである。 今食べれば、確かに先程までよりも深い満足感を得られる事だろう。 だがここまできてしまうと、あと少し待った方が良いのではないか、という気がしてくる。 そう、こうしてただ黙って目前のキュウリを観察してきた今までの時間を思うと、今までに使ったその 時間を更に有意義にする為に、もう暫く待つという事を検討すべき価値が充分にあると考えられるのだ。 しかしそう結論付けようとした所で、私はある重大な過失に気が付いてしまう。 それはキュウリを冷やしていないという事だ。 確かにあの時から今までの間冷やしていたとしても、劇的な変化がこのキュウリにもたらされる訳では ない。むしろごく僅かとすら言え、無視してしまっても良い程度だろう。 だがこれからまた待つとすればどうだろうか。今までの時間は大した損失ではないとしても、これから 先の時間を考えれば、その大した事ない時間の差が決定的なものになる可能性が出てくる。 これから先も冷やし続ける事を考えれば、今までに冷やし忘れていた時間は、決して小さくはない。 ならば何を悩んでいる。何よりも今すぐこのキュウリを冷やすべきではないのか。 それには全く否定のしようもないのだが。私の中には今すぐこのキュウリにがっつくべきではないか、 という気持ちもまた消えていないのだ。そしてその気持ちは益々強まっていくように感じる。空腹感が強 まっていく度にこの欲望もまた強まっていく。そこにキュウリが見えればこそ、その想いは常に忘れられ ず、常に決断を迫り、私を悩ましく誘惑する。 今すぐ食べるという選択肢が消えない以上、このキュウリを今すぐ冷やすという行為はなかなかに行い 難いものとなる。 冷やしてから考えればいい。 確かにそうだ。しかしそこには致命的な問題が潜んでいる。 キュウリをどう冷やすとしても、今居る場所から移動させる必要がある為だ。 冷やすにも実に様々な手段があるが、私が思いつく全ての手段は、今居る場所からは行えないものばか り。不思議な事にいつでも食べれるという状態を維持しながら冷やすという手段は、一つとして無いので ある。 だから冷やすか、それともいつでも食べれるというこの悩ましくも幸福な状態を維持するか、二つに一 つの答えを選び取らなければならない。 冷やしているキュウリの側へ行くという手段は論外である。私にとって今この場所でくつろぐ事の重大 さはキュウリを凌ぎ。その問題を悩むとすれば、それは今以上に厳しく辛い悩みとなってしまう。だから それは得策ではない。 同じキュウリに関する問題でも、事の大きさはやはり変わってくる。油断してはならない。 だからこの場にキュウリを置いたままにし、いつでもその場で食べられるという状態を維持する事は、 冷やさずの後悔に匹敵するくらい大きな事なのである。 今食べるか、それともまだ暫くの時を置くか。待つとすれば冷やすか、それとも気が向いた時にすぐさ まかじりつける状態を維持するのか。 この四つの要因が複雑に絡み合う事で、私のキュウリは、大層悩ましい問題へと変貌していた。 何事も一つ一つは単純なのだが、それらが組み合わさる事で複雑さを生み出す。少なくとも人はそう感 じる。そこに人の悩みという問題に対しての難しさがあるように思う。 それにそこからまた、待つならばいつまで待つのか、待ち過ぎればキュウリ自体を失う事になる、とい う更に大きな問題が生み出される事も忘れてはならない。 そう、このキュウリというものには食せる期限がある。ずっと美味しく食べられる訳ではない。いずれ は腐り、食糧としては使えなくなる。 生命には限りがあり、特にもぎ取られた実というものはその時間が短い。それが為に様々な保存方法を 生み出した程に、人類にとって悩ましい問題なのだ。 残暑厳しい今の時期では尚更である。このキュウリはじきにしおれてしまうだろう。暑さは生命力を失 わせる。それはキュウリにしても変わらない。 日陰におく事で応急処置としているが、その程度でひるむような気温ではない。 今更ながら、桶に氷水でも入れてキュウリをつけておけば良かった、という悔いが浮かぶ。もしそうし ていたのなら、全ての問題は問題として私の目の前に現れる事はなかっただろう。 あの時の私はすぐにこのキュウリをほうばるつもりであったのだ。まったく甘い考えである。 だがしかし、そんな私に氷水を用意しておけなどとは酷な言い草ではあるまいか。人間はそこまで万能 ではない。そこまで万能であったとすれば、人が悩む事など一つとしてない筈だ。 何故そこまで万能にしなかったのかと今までの人類の歴史に対し、憎らしささえ湧いてくるように思う が。それこそ言っても仕方の無いことだろう。 ああ、しかし、何という事だろう。すでにキュウリが生温くなっている。取るに足りない事を考えてい る暇があったら、さっさと喰らっておくべきであった。 さあどうする。もう時間がない。キュウリからその妙味が消えるまで、もう時間が無い。 食べるのか。いま食べるべきか。 急げ。急がねばならん。 問題は性急になっている。 確かにそうだ。先延ばしにすればするほど、問題は性急になってくるものである。全ての時間には限り があるのだから、時間が経てば経つだけ性急になってくるのは当然だろう。 よし、ならばよし。 こうまでくれば四の五の言わず、むんずと掴んでそのまま喰らってしまおう。 今まで悩んでいた事自体、馬鹿馬鹿しい事なのだ。良いのだ、食えば良いのだ。当初の予定通り、今す ぐにでも喰らってしまえ。 と私が手を伸ばしかけたその時、横から現れた愛猫がひらりとキュウリをさらい、どこぞへと喰らい去 ってしまった。 あれだけ手塩にかけて育てたというのに、そしてあのキュウリにはあれ程に悩み、悩みぬいた挙句の決 断をようやく下せたというのに。運命とはかくも皮肉であることか。 ぼうっとしている内に横からかっさらわれる。これこそが真理なのか。 ならばこの事を忘れぬ為、これらの思考をキュウリ論と名付ける事にしよう。 |