廃屋


 そこにはきっと誰かが居たのだろう。

 今は空っぽで、錆(さび)と埃(ほこり)の臭いしかしないこの場所にも、きっと命が溢れていた時が

あった。

 それは得難く、でも当たり前のように得ていたもの。

 きっと初めから在ったのだ。だから苦労しなくて済んでいた。

 でもいつかは失われてしまう。失くすのは嫌だ。もう一度手に入れなければならなくなる。

 今度は自分の手で。

 そうなって初めてその困難さを思い知った。それは不可能に限りなく近い事なのだと。たった一人では

とても到達できない場所にあるのだと。

 もしかしたら初めから無かったのかもしれない。

 そう思えるくらい、いつしか記憶も薄れていく。

 本当にあったのだろうか。その幸せは、命は、そこにあったのだろうか。

 でも無かったとしたら、この残骸(ざんがい)をどう説明すればいい。きっとそこにあったからこそ、

今こうしてここにある。

 そうなんだ。そうに違いない。

 でも本当だろうか。僕には何も解らない。

 知らなかった場所、始めてみた家、がらんどうの空っぽの家。

 誰かが使っていただろう机、椅子。本棚もあった。本も少しだけどある。ぼろぼろで、もう表紙しか見

えないが、確かにある。

 これも前はちゃんとしてて、ずっと楽に読む事ができていたんだろう。

 この椅子に座って、机に腕を伸ばして、読んでいたんだと思う。

 そう思うと、不思議とそういう映像が頭に浮かんできた。

 もしかしたら、未来の、或いは過去の僕なのかもしれない。在ったはずの今はないその思い出が、今溢

れ出す。

 そうでないとしたら、この記憶は誰のものなのだろう。自分の思い出なら、きっと自分にしかない。だ

からきっと、この場所に昔は僕も居たんだと思った。

 頑丈な床はしっかりと僕を支えてくれ、窓から差す光が優しい。かび臭い空気さえ何とかすれば、きっ

とすっきりと過ごせると思う。

 でも違うのかもしれない。ここはもう違う。

 違っていなければ、僕はここから逃げ出さずにすんでいた。ずっと今もそうしていた筈だ。

 いや違う。想像の中で本を読む僕は、僕じゃない。別人だ。

 多分、そうだ。

 何故この人を知っているのだろう。この人がここで本を読んでいた事を知っているのだろう。何故こん

なにはっきりと浮かんでくる。どこまでも覚束(おぼつか)ない筈なのに。

 少し怖くなっていた。

 知らぬ間にこの家に取り込まれてしまっていたような、他の誰かにされてしまったかのような。

 このままずっと年をとっていけば、何の違和感もなくここに居続ける事になるのかもしれない。

 解らないけど、そんな気がする。

 この家は誰かを待っていた。また一緒に暮らしてくれる誰かを。

 そしてこんなかび臭い場所じゃなくて、もっと笑顔が溢れた、楽しい家に戻りたかったんだろう。

 じゃあ、ずっと僕を待っていたのか。

 家は答えてくれない。でもちょっとだけ体をゆすって、微笑んでくれたような気がした。

 この家は優しい。まるでおばあさんのように、あらゆるものが年を取って、少しくたびれているけれど、

だからこそ優しい。きっと誰よりもそうなんだ。

 この家は誰よりも思い出が詰まっている。

 それを僕は見たのかもしれない。あの映像は、あの記憶は、この家のものだったのかも。

 そうだ、家だってきっと思い出を心にずっと、持っている筈だ。

 それが本当に何なのかは解らなくても、この柱の一本一本にまで詰まっている。

 どこに手を触れても、思いを重ねても、きっとこの家は応えてくれる。優しく、あたたかに。

 埃を払って椅子に座り、机に身を預ける。

 木の堅さも、やらわかい温度も、窓から差す光も、すべてが優しい。ずっとそうする事を、待っていた

かのように。

 この家はずっと待っていた。僕を、いいや、違うのかもしれない。でも誰かを待っていて、それはきっ

と僕でもいい。

 だからこうしてずっと眠り、この家のようになってしまっても、良いんだと思う。

 朽ち果てた思い出に。

 切ない眠気を感じて。

 僕はすっとまどろみに沈む。

 いつか誰かが起こしてくれるのを。

 それとも、ずっと同じように、思い出に変わるのか。

 解らない。

 でも、ここで眠るのは、気持ち良いと思う。

 何よりも、ずっと先まで。

 そして全てが朽ちていく。

 僕はもう、どこにも居ない。




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