エフンエフン


 ある所にエフンという爺さんが居た。

 何事も偉そうに、まるで自分が王様ででもあるかのように、人をエフンエフンと咳払いでこき使う所から付

けられた名前である。本名は誰も知らない。

 この爺さんはもう相当な歳のはずだが、彼の幼い頃を知る者は皆亡くなってしまっているので、誰も知らな

い。もしかしたら自分でも忘れているのかもしれない。

 いつ頃からここに居て、何をして、今何をしているのか、誰も知らない。

 解るのは生きていくのに充分な金があり、頑固で、自己顕示欲が強く、他人にはわからないおかしな行動を

毎日のように取るという事だけ。ようするに偏屈な爺さんなのだ。

 例えばこのエフン、今朝は鶏を追っていた。話を聞くと、いつもより十五分も早く彼を起こしたからだそう

で、お仕置きする為に捕まえるのだという。

 だが鶏も然る者、エフンの杖をかわしてはコッココッコと嘲(あざけ)るように鳴き走る。エフンはその態

度に腹を立て、必死で追い回すが、いかんせんもう歳で足が遅い。鶏は悠々と爺さんの散歩でもしてやった風

である。

 でもこれはまだ良い方だ。

 昨日はもっと変で、落ちてくる雨一粒一粒に対し、何故わしの土地に無断で入るのか、入るものは何でもい

ただくが、もう二度と出しはせんぞ、と話しかけていたらしい。

 本当におかしな爺さんだ。

 呆けているのではないか、という人もいるが。話し方ははっきりしているし、行動もてきぱきしている。と

てもそうは見えない。後はもう変人とでも言うしかない。

 しっかりしていると言えばこのエフン、朝は散歩を日課としていて、やたら時間に正確だ。

 同じ時間に同じ場所に行けば、毎日彼に会えて、昨日と同じ行動をしている姿が見えるという。昨日記録し

たものを再生するかのように、何につけても正確に同じ行動をしている。

 数字にも強く、その事で村人と揉める事も多い。飯を食べればやれあっちの方がおかずが一切れ多いだの、

パン粉が小指の爪くらい多いだの、やたらと細かく、しかもそれが大体あっているのだから始末に悪い。

 できれば一緒に食事をしたくないのだが。この村では皆が一つしかない食堂で食事をとる事になっている。

避けようがない。

 皆で食べ物を持ち寄り、皆で食べる。それが誰も飢えさせない為に作られた、この村のしきたりなのである。

それを破る事はできないし、エフンも相応の食べ物を納めているから、文句は言えない。

 だから皆諦め、そういう時は少しだけ多く彼に物を分けてやった。そうするとエフンは何とも言えない笑顔

を浮かべ、大人しく席へ戻り、美味そうにそれを食べるのだ。

 別に嫌がらせをしているのではなく、他人より下に、或いは他人よりも少しでも損をするのが気に入らない

性分であるのだろう。



 さて、このエフン。ある時、突然旅に出ると言い始めた。

 あまり良く思われていない爺さんだが、さすがに高齢だから皆心配になって口々に止めろと言う。でもエフ

ンはそう言われると意地になるのか。わしはまだまだ若い、いくらでも歩ける、世界の果てまでだって行ける

ぞ、と息巻く始末。

 結局人の話しなど聞きもせず、大して準備もしないまま出かけて行ってしまった。

 この爺さんも本当に旅に行く気なんてなく。どこそこへ旅行へいっただの自慢たらしく言う隣人がいたから、

張り合ったに過ぎないのだが。生来の頑固と歳をとって天邪鬼になっているものだから、今更引っ込みがつか

ないのである。

 自分でも馬鹿だと思いながら、いつも止められない。エフンは村を出て十歩も行かない内から、もう後悔し

ていた。

 そこで近場の観光名所でも行って、何となく格好をつけてさっさと帰ろうと思ったのだが。よくよく考えて

みると、その程度では格好をつけられない。

 日帰りなんか以ての外、一泊や二泊でも飽き足らない。せめて一週間、いや一月は出ていなければ、あれだ

けの事を言った手前、とても帰る事はできないのではないか。

 エフンは考えた末、船旅に変更する事にした。これなら足腰も疲れないし、金もそれほどかからない。快適

な寝床と食事を諦めれば、いくらでも安く行ける。船の中に居れば、それほど物も要らない。

 寝ている間に着いてしまうだろう。

 そう考えると気が楽になってきて、エフンは近くの港町へと進路を変えた。

 歩くには遠過ぎるので、乗り合い馬車を利用する。知り合いでもいたら乗せてもらう所だが、村には引き返

せない。残念だが、金は多少持ってきている。馬車に乗るくらいは何でもない。

 そうしてエフンエフンと咳払いをしながら、馬車に乗り、町へ着き、今度は船に乗った。

 行き先は決めていないので、とにかく安い船に乗る。旅行に行ったという形さえできればいいのだから、安

ければ安いに越したことはない。

 旅行店にも、どこでもいいから半月から一月で帰ってこれる安い船を紹介してくれ、とだけ言った。

 紹介された船はいかにも古くてぼろい船だったが、手入れはされているようだ。大きさもそこそこあるし、

まあ沈みはしないだろう。

 さっさと船に乗り込み、そのまま寝てしまった。



 気付いた時、船の中は驚くほど静かだった。

 初めは解らなかったのだが、食事と水をもらおうと船内を歩き回っている内、人の気配がしない事に気付い

たのである。

 結構居たはずの人が、誰も居ない。荷物も無い。素人目でも何かおかしい事が解る。

 船底の方に行くと、海水が入ってきているのが解った。沈没するのかと慌てて外に出てみると、岩場に乗り

上げてしまっているのが解った。

 船体には大きな穴が空いている。

 乗り上げているからこれ以上沈む様子はないようだが。四方を眺めてみても、小さな島がぽつりぽつりと並

んでいるだけ。人が居るようには思えない。

 誰か残っていないかと船内を探していると、乗せてあったはずの小型の舟が消えている。多分それに乗って

皆脱出してしまったのだろう。エフンだけを置いて。

 本来なら考えられない事だが、もしかしたら一番安い船室を取ったのが原因かもしれない。そこは船奥の物

置のような部屋で、行き来に不便な事もあって普段は誰も利用しない。

 本当なら泊めるような場所ではないのだが、エフンがうるさく言ったので仕方なく空けてくれたのだろう。

だからそこに客が居る事を忘れてしまい、点検もしなかった。そう考えるのは無理のない推理というものだ。

 エフンは後悔したが、今更どうにもならない。

 忘れられているなら、救援も絶望的だろう。エフンは船に乗ってから全く出歩かなかったので、知っている

者は少ないし、顔を見た者も印象に残っているかどうか解らない。積荷を取りに戻ってくる可能性はあるが、

この場所を正確に憶えているか解らないから、いつになる事か。

 自分で助かる、生きる道を探さなければならないだろう。

 そこで外れかけていた一枚の戸を外し、いかだ代わりにして近くの島にまで行ってみる事にした。勿論、持

てるだけの食料を積む事も忘れない。彼は欲深であるが、慎重でもあったので、戸が沈む程積みはしなかった。

欲しければまた取りに来ればいいのだから。

 戸もかい代わりの板もなかなか丈夫で、天候も良かった事もあり、難なく近くの島まで辿り着く事ができた。

 着てみるとなかなか大きな島で、砂地があり、草木も豊富、これなら飢える心配は要らなそうだ。水もこれ

だけ草木が育つという事は相応の水源があるという事。それが使えなければ雨を汲んでも良いし、まだ船に残

されている。死ぬ事はないだろう。

 それだけを確認した所でもうくたくたに疲れてしまったので、森の方に行って戸を屋根代わりにして簡単な

家を作り、ぐうぐうと寝てしまった。

 何をするにしても身体を休め、健康を保つ事が先決だ。例えここから脱出できなくとも、生きていられれば

いい。どうせ長くはない命、ここで最後を過ごすのも悪くない。

 誰も居ない無人の島なら、何を気にする事も、意地を張る事もせずに済む。正直エフンもあんな暮らしに疲

れていた。誰も信用しないかもしれないが、他人の耳目だけを気にする生活に飽き飽きしていたのである。

 面倒な人の暮らしを思えば、いつ寝ても起きても関係ない。何を食べても、何をしても、誰も文句を言わな

い。そんな暮らしはたまらなく魅力的だった。



 そんな調子で三日ほど快適に暮らした。足りなくなれば船に戻り、必要な物だけ取ってくる。島にも色んな

物が豊富にあったし、探索を進めるにつれて船に戻る回数は減っていった。

 ここには美しい湖があり、様々な動植物が生きている。中には見知らぬ獣もいたが、その全ては小型で、エ

フンであっても棒で追い払える。敵意を持つ生物も少なく、脅かせばすぐに逃げて行った。

 エフンにはまるで自分がこの島の王になったかのように思えていただろう。

 そうなると欲が出てくる。彼はこの領地を広げるべく、近隣の島々を全て回る事にした。誰もいない場所な

ら、全て自分の物にしてしまっても問題ないはずだ。

 実際、侵略は快適に行なわれた。

 どの島も似たようなもので、エフンに対抗できるような存在は居ない。初めて見る彼の姿がよほど異様なの

か、誰もがすぐに逃げて行った。

 そうなるとエフン自身も自らの偉さを実感するようになり、様々な物をぞんざいに扱うようになって、その

態度は以前のようなものに、いやそれ以上のものになってしまった。

 この島にきた当初はあれだけ安らいでいた心も今はとげとげしく、意味の無い被害妄想を抱かせる。

 たくさんのものを得た事で、かえってそれを奪われる事に激しい恐怖を覚えるようになってしまった。

 エフンは誰かに奪われないよう急いで全てを消費しようとし。今度は逆に失うのが惜しくなって数日間何も

食べなかったり、と極端な行動を取るようになった。

 情緒不安定というのか、自分でどうして良いのか判断する機能が著しく衰えてしまっている。

 今では代名詞であるエフンエフンという咳払いも聞こえなくなり。せかせかと動き回っては一点でじっと動

かなくなり、げっそりしては肥満になり、大騒ぎしては泣き出したり、そんな風にして終日過ごしている。

 そして長い無人島暮らしの中、髪とひげの塊のような野人へと姿を変えていく。

 不思議と以前よりも元気で、足腰も強くなり、数十歳若返ったかのような印象を与えるものの。話し相手が

居ない為に言葉を忘れ、行動も野性的になり、人間らしさを失っていく。

 たまに思い出したようにエフンと咳払いをする事だけが、唯一彼らしさが残っている点だろうか。

 すでに船に積まれていた食料は費え、鳥や小動物を素手で獲っては焼いたりしていたが、その内生のままか

ぶりつくようになった。火を起こす道具が壊れたか、面倒になったのだろう。

 魚も初めは干したりしていたが、すぐに生のままかじるようになった。全てが機能的に、より今の状況にふ

さわしい姿に変わっていく。エフンはそれに乗って動くだけの、もしかしたら正真正銘の、自然の一部になっ

ていたのかもしれない。

 たまに何かを思い出しては酷く悲しくなるのか、大声で泣く事もあったが、その回数も時間と共に減ってい

った。

 今では村に居た頃の記憶が残っているのかどうかも疑わしい。

 いくら身体が元気でも、脳と心までが健康とは限らない。ただ生きるだけが人でないのであれば、彼はもう

人間ではなくなっているのかもしれなかった。



 エフンが完全にそうなってしまった頃、この群島に大きな船が辿り着いた。

 流されたのか、ここを目標にしてきたのかは解らないが、武装された船で中には銃を持った兵士がうようよ

居る。そして彼らは次々に島を占領し始めた。

 老人一人で侵略できたような平和な島だ。兵にかかれば占領するのは容易(たやす)い。船長は満足そうに

その様子を眺め、いつぞやのエフンのようにふんぞり返る。

 周辺で一番高い山に大きな旗が立てられた。その側には監視小屋のようなものも作られている。彼らの目的

ははっきりしていた。

 そして彼らは一つの島で奇妙な生物を捕まえる事になった。毛むくじゃらの、汚い野人である。

 船長はこの発見に非常な興味を示し、すぐに本国へ連れ帰った。そこはエフンの居た国とはまた別の、大き

な王国である。

 エフン自身は彼らに全く抵抗しなかったようだ。初めこそ襲い掛かるようなそぶりを見せたが、実際にはそ

れも感激して走り寄っただけの事。彼は全てを忘れつつあったが、自分が人間であり、彼らの仲間である事は

まだはっきりと覚えていたのだ。

 しかし言葉を忘れ、世俗習慣を忘れた彼にできた事は犬のようにうなる事だけ。

 昔は文字を読み書きさえできたのに、今ではもう一つの言葉すら話せない。

 エフンは泣きに泣いた。人の居る土地に足を踏み降ろした時、我慢できずに涙を溢れ、大声で泣き叫んだ。

 船長達はここで彼がただの野人でない事にようやく気付いた。

 そこでエフンを散髪し、身体を洗い、相応の服を着せてやった。すると彼は背筋がぴしっと伸び、いままで

がに股だった足もしゃんと立って、いかにも立派な老紳士という姿に変わったのである。

 不思議な事に姿を改めると、エフンの記憶までよみがえったのか、少しずつ言葉も話すようになった。

 その態度も野人そのものといったものから、優雅なものに変わり、エフンエフンと言っていた時よりも数段

立派な人間になったようだった。まるで垢と髪と一緒に色んなものが綺麗に洗い流されてしまったかのようで

ある。

 船長は驚き、客人としてのものへと態度を改め、王へ引き合わせた。

 王もまたその不思議な人間に興味を持ち、国賓(こくひん)として扱い、次第に賢人と敬うようにさえなっ

ていく。

 エフンはその後長く幸せに生き、自分に起きた不思議な体験を本にして出版した。その本は大変に売れて、

いつまでも人々の記憶に残り、語り継がれる作品になったという。



 というのは勿論彼の見た夢でしかなく。現実のエフンはそのまま見知らぬ土地で野性の獣に戻りながら生涯

を終えた。

 最後には全てを忘れ、ただ一個の獣となって生きたそうだ。

 悩む事も、寂しがる事もなく、生きる為に生き、その生を全うしたのである。自然の動物として。

 それが幸せだったかどうかは解らないが。人が付けた全ての価値の意味を失くし、忘れた彼は、以前のよう

に心を苦しめられる事はなかった。誰と比べる必要もなく、全ての物があってもなくても同じ。それでいて食

料と水は豊富にあり、飢える心配はない。

 それを開放と呼び、平和と呼ぶのなら、そうなのだろう。

 全ての価値観を失った時、しかしそれは全てを手にする事と同じなのかもしれない。

 そんなお話。




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