実る果実


 一人に一つ、実る果実。

 世界という木に、命と同じ数の実がなっている。

 その実はその命が感じた全てのものを蓄えながら、一日一日成長していく。

 苦悩が多ければどす黒く。幸福が多ければ鮮やかに色を変え、見る者を楽しませる。

 どす黒いだけや、鮮やかだけの実は少ない。無いと言ってもいい。

 どの実も傷んだり熟したりを繰り返し、様々な味を形作る。

 苦悩は苦味になるが、その苦味もまた悪くない。その苦味があるからこそ甘味が引き立つ事もある。

 逆に幸福だけの実は甘ったるくて食べていられない。

 そんな実はいくら美しい色でも食用にはならないから、防腐剤をうって観賞用にする。

 しかし観賞用としても、そんな実は二流品だ。

 誰もが苦味に価値を見出し、その具合や、圧倒的な苦悩を前にして、初めてそれに芸術性を与える。

 他人の幸福など詰まらないものだと言うように、味の解る者は見向きもしない。

 デザートになるしかない果実など、そのままで食べるしかない果実など、料理人の腕を見せる事もでき

ない、ただの子供向けの食べ物だと。

 勿論鮮やかな実は希少であるから、その価値は高い。二流品と言われつつ、人は幸福に酔っていたい。

ただいわゆる通と言われるもったいぶった者達からは圧倒的に嫌われている。

 彼らには自分達にしか解らないものを好み、誰にでも解るものを嫌悪する風潮がある。

 だからその価値自体は彼らの意見には左右されない。これは当然の事だ。

 彼らが良いというものに価値がある訳でも、悪いというものに価値がない訳でもない。

 しかしその通ぶった連中だけが望む、ただれきった腐りきった実もまた高価で取引されている。

 その一部の通連中には皮肉な事に金持ちが多く、少数でも立派に金銭価値を高められるからだ。

 腐りきる一歩手前の実が食用には適していると言われるが、そういう実もまた最も希少な一つなので、

大抵は腐りきった実を観賞用に買い、通同士で見せびらかす事を常としている。

 腐りきった実は不味くて、苦いだけで、通ぶった連中の多くにも手に負えない。

 だから連中の多くが望むのは、ぎりぎりの腐りきる前の実、つまり苦悩を越えた災厄が、どうしようも

ない災厄が降りかかる前、それに立ち向かう事も諦めるしかない地点の一歩前。今どうにかすれば間に合

ったかもしれない、という点で収穫された実の事である。

 しかしほんの些細なものでも希望が残されていれば、人は生きようとするし。折角ぎりぎりまで行った

としても、その場合は意地になっていて、そのまま崩れるようにして落ちていくのが普通である。

 大抵は最後の希望に気付きさえしない。だから食べ頃で踏み止まるという意識も無い人々は、そのまま

無駄に落ちていく。価値を落とす。

 そういう程度の人であるからそういう結果になっているのであって、これは極々自然な現象といえるだ

ろう。

 だから近年では、長年の禁を破り、人生にほんの少し干渉をして、落ちきる前に収穫する、という事ま

でやり始めている。

 もっと巧妙な手段としては、一度助けてから再び落としきってそれから改めて収穫するという手もある。

こうすると更に味に深みが出て、より一層濃くなるそうだ。

 これは最熟と呼ばれる方法だ。

 しかし最熟には手間も隙(ひま)もかかるし、そこまでするのはやり過ぎではないか、という意見もあ

って、賛否両論が出ている。

 ただし、最熟によって得られた実は、どちらの意見の支持者にも最高値で取引される。手段に対する意

見も、その実に対する価値とは結び付かないのが普通だ。

 美味ければ、価値が高ければ、その過程など誰も問題にしない。何故なら関係のない事だからだ。通と

しては単純に美味しくいただければそれでいいのであり、皆から賞賛の声を聞ければそれでいいのである。

 通ぶった連中の考える事は解らない。矛盾も当たり前に受け容れている。それもまた通ぶっている理由

なのかもしれない。

 通ぶった連中の事はこれまでとして。

 それ以外の一般の多くの者達は甘味の方を珍重している。

 だからどうにかして幸福で色付けたい。少しでも鮮やかな色に育てたいと願う。

 その為に通ぶった連中を真似して、人生に干渉して幸福を少しでも多く得させようと考え始めた者達も

いるらしい。

 しかし人に幸福を覚えさせるというのはとても難しい事で、甘味を求める者は大抵金持ちではないから、

なかなか効果があがらないそうだ。

 中にはかえって苦悩を増させてしまい、通ぶった連中を喜ばせる事さえ少なくないとか。

 だが一人一人に金はなくても、数だけは居るので、何とか協力し合って日々研究し、甘味を増させる為

の効果的な手段を見つけ出した。数もまた力である。

 こうして全体的に甘味を増す事に成功したのだが、これに異を唱えたのが例の通ぶった者達である。

 彼らは初めは苦味の事しか頭に無かったのだし、初めは甘味が苦味を引き立てるとさえ考えていた。し

かしその総量が増してくるに従い、全体的に甘くなってきたので、段々と甘味自体に対して憎しみを持ち

始めた。

 苦味を邪魔しているのは甘味だと考えたのである。

 そしてそれは満更間違っている訳でもなかった。実が全体的に甘味を増しているのは、確かに苦味より

も甘味が増したからであり。つまりは甘味が苦味の邪魔をしているのである。

 こうして多数に者と通ぶった一部の連中との間には次第に確執が芽生え、仕舞いには喧嘩するようにな

り、そこかしこで個人的な争いが勃発した。

 これが今にまで到る、甘味と苦味の争い。人知を超えた者達の争いの理由である。

 一方は人類全体を甘味で埋め尽くす。つまりは幸福に導く事を旨(むね)とし。

 もう一方は人類全体を苦味で埋め尽くす。つまりは苦悩の真っ只中へ落とし入れ、頃合を見て刈り取る

事を旨とする。

 争いは激化の一途を辿り、今ではお互いの排除すら望んでいるようだが、人が本来苦悩と幸福によって

形付けられ、そのどちらからも切り離せない存在である以上、その割合を変える事はできたとしても、ど

ちらか一方を消す事は不可能だと考えられてもいる。

 どちらも人から自然発症したものであり、この病はどちらが、または他の何者かがもたらしたものでは

ないからだ。

 そうである以上、甘味も苦味も最早人と一体であると考えられ、完全に打ち消す事はできない。その二

味があってこそ人なのであり、少なくとも人が今のままで居る以上は、決してどうにもできないものであ

る筈だ。

 しかし感情的になっている両者はそれを認めようとはせず、あくまでも互いの排斥(はいせき)を望む。

 そしてこの両者はどうにもならない事をどうにかしようとして身勝手に争い続け、それが為に全体とし

ては幸福の総量が減る結果となってしまった。

 これが今の世が暗黒世界だと言われる理由である。

 幸福平均値も年々下がっているのではないだろうか。

 人としてはこの愚かな争いを止めて欲しいと思っているのだが、彼らの食欲が満たされない限り、この

争いは止みそうにない。

 つまり、永遠に終わりの見えない争いである。

 食欲と彼らの味覚が合わさる事がない以上、決して満たされない問題だ。現実的にも感情的にも解決で

きない問題なのだ。

 そして悪い事に、どちらも人の手の届かない所に居て、人の力など及びもしない者達である。

 人はもう祈るしかないのだが、その祈りを捧げられている相手が他ならない彼らなのだから、どちらに

祈ろうとも悪い結果としか結び付けない。

 彼らに祈る事が彼らの力とやる気を増大させ、更に人の世界を混迷に陥れる。

 しかしそれを知る者は人にはいないので、状況は、人と甘味を愛する者達にとって、悪くなる一方とい

う訳だ。

 通ぶった連中にとっては嬉しい事かもしれないが、結局彼らの願いを叶えるには至らないのだから、不

満はいつまでも消えない。

 こうしてどうにもならない状況のまま、時間だけが過ぎていき、両者の飢えだけが増している。それが

叶えられないからこそ、更にそれを求めるのである。

 彼らの欲望に終わりは見えない。

 だから助けを求めても、それを叶えられる存在は、どこにもいない。

 そんな人にとって都合のいい存在はどこにもいないのである。

 人の事を本当に考えられるのは、当人である人だけだ。

 だから人以外に救いを求めている限り、永久に良くはならない。

 悪化の一途を辿るのみ。

 少しでも改善したければ、人自身の努力が必要である。

 だが人は自分自身の事ですら面倒に感じているので、誰もそれをしようとはしない。

 甘味と苦味に弄ばれるように、日々その実の色を、虚しく変えていくだけである。

 これが俗に真実と呼ばれている事柄の正体だ。

 求めている者達に、人にとっての希望など、初めからありはしない。

 知るべきは、悟るべきはその事だけである。

 他には何も知らなくていい。

 その事から目を逸らしてはならない。




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