幻滅という強さ


 僕らはいつも頭に描いている。

 自分の事、他人の事、環境、一度も行った事のない遠い遠い場所の事まで、ほとんど全ての事を。

 ある時ふと気付いてみると、自分ですら知らない事実が頭の中で勝手にできあがってしまっている事さえある。

 そしてそれを本当にあった事、本当に今起っている事であるかのように認識してしまう。

 想像力が暴走しているのだ。

 けれどその身勝手な妄想は僕らにとっては真実である。

 だから実際にそれを見、妄想と違っていた場合(合っている方がおかしいのだけれど)、その対象にがっかり

し、否定する。

 おかしな事だけれど、実物を妄想の為に否定するのだ。

 そしてその否定の強さは、丁度現実と妄想との間にある溝の分だけ大きくなる。

 つまり信じていた分だけ本物を否定する事で、愚かな自分への罪悪感を緩和し、恥ずかしさから逃れようとする。

 そうでない事は自分自身が一番よく解っているのに、その場を取り繕う為に(そんな事はできないのだが)否

定する。

 そうする事で余計に恥をかくとしても、そうする事が唯一自分の身を守る方法だと錯覚してしまう。

 しかし人によってはどれほど現実をかけ離れた妄想をしていたとしても、そこから生じる幻滅という衝撃を平

然と受け止めてしまう者もいる。

 それはその人の心の強度、つまり度量の広さに大きく作用されると思われるが。それよりも幻滅という衝撃に

対する耐性の方が大きく関係していると思われる。

 幻滅の衝撃そのものの大きさより、その衝撃を受けた人がどのくらいの衝撃としてそれを捉えたかの方が重要

になってくる。

 簡単に言えば、同じくらいの衝撃を受けても、人によって感じる衝撃の強さは違うという事だ。

 これから導き出される答えは、強い人間とは心にかかる衝撃に強い人間、という事となる。

 では人は皆強い人間であるべきだ、と言えばそうとは言い切れない。

 確かにそういう人間は現実の中で割合伸び伸びと生きてはいける。

 大抵の事にへこたれない。たまには涙を流すかもしれないが、その内泣いた事さえ忘れてしまう。

 ああ、そんな事もあったな。くらいに平然と消化する。

 強い人間だ。

 しかしその反面、強い人間は人に冷たい、人間味がない、というような印象を与えてしまう。

 それはおそらく多くの人の中に、心は弱く壊れやすいものでなければならない、という願望があるからだろう。

 何故願望と言ったかというと、結局の所、人の心は誰が思うよりも頑強で、またしぶといものだからである。

 だが本当にそうであるならば、自殺者や鬱病患者がこれほど多い訳がないのではないか。そういう問いが出て

くるだろうと思う。

 これに対する答えは、それは本質的に心の強さとは関係のない、文字通り病の話であるからだ、という事になる。

 自殺はそのほとんどが発作的なものであり、一番心が弱っている場合に起きやすいが。だからと言ってそれを

した人間の心が弱かったとは言えない。

 たまたま弱った時に悪い偶然が重なってそうなったのであって、弱いからそうしたという事にはならないのだ。

 だから普段は強くたくましいと思われていた人間もそれをする場合があるのである。

 それはそうかもしれないが、確かに自殺しやすい人間とそうでない人間はいるではないか。

 そう問われれば、確かにそうだと僕も思う。

 それは間違っていない。

 だがそれも自殺しにくい、しない人間の方が大多数であるという事実を見れば、人の心が本質的には強いもの

だという理由に結び付ける事ができると思う。

 その言葉は逆説的に僕の説を証明付けるものであると。

 しかし、そんな強い人ばかりではあるはずがない。世の中は無情であり、弱い人の方が多い。そんな弱い人間

達が集まって、日々細々と暮らしている。人が本来強い生物だったとしたら、そんな事にはなっていないはずだ。

 そう言いたい気持ちは僕にも解る。理解できる。僕もまたそう思いたい方だからだ。

 でもそこには、人は弱いものなのだから、僕が人に甘えるのもしかたない、という願望がある。先程願望と言

ったのはそういう理由からだ。

 自分の弱さに甘える事は、最も楽な自分を救う方法であり、だからこそ大多数の人間は人間が本質的に弱いも

のであると考えたい。

 それはおそらく人の、生命の本能であるのだろう。

 そう考える事で、自分の心と命を守っているのだ。

 だがそうである以上、人の心は強かで悪にも似た強さを持つと言える事になるのではないか。

 鬱病に関してはそのまんま病であるのだから、特に触れなくても良いと思う。人は誰しも風邪をひくように、

時には鬱病にもなるのである。そしていずれは治る。そしてまたかかる。そういうものなのだ。

 話が横道にそれてしまったが。要するに強い人間、心の許容量の大きな人間というのは、弱さに甘えたい僕の

ような人間にとっては敵にも近しいものとなる。

 お前のような人間がいるから、僕らは弱さに甘えられない。お前のような奴さえいなければ、自分の弱さを惨

めに感じる事はなくなるのだ。

 そういう想いが浮かぶ。だから否定し、排除したいが、とにかく強い人間なのだからそうする事は無理である。

 そこでその強さを冷たさ、人間味のなさと変える事で、そのような人間は特別であり、また我々とは違う人種

なのだから気にする事はない。あいつが異常なのだ。というように自己防衛しているのだろう。

 要するにその強さに僕らは幻滅しているのだ。

 逆に心が弱く、すぐ折れる。そこまではいかなくとも感情を爆発しやすい(怒りではなく涙など、感受性が強

いという意味で。怒りをすぐ爆発させるような人間はただの嫌われ者である)人間は、なんてあたたかい人だ、

優しい人なんだ、という印象を与えやすい。

 それはきっとその人にある弱さに安心し、また憧れるからだろう。

 その弱さを人は正直、素直さというような言葉で飾っている。

 それがある事で人にだまされやすいとしても、そうであるからこそ好まれる。

 こいつなら僕にだまされても、僕をだますような事はしないだろう、というわけだ。

 強さは時に弱みとなる。弱さも時に強みになる。強いと周りから認識されてしまうと無用の責任を背負い込ま

される事にもなるし、あまり良い事はない。

 頼りがいのある人間というのは、要するに面倒を押し付けやすい人間という事であり、人から頼られるという

事は面倒なものなのである。

 人は本能的にそれを知っているが故に、強くなりたい、自分も人から頼られるような人間になりたい、と口に

しながらも。その心では常に弱くある事を願い、弱い自分に憧れている。

 強くなりたい、という言葉ですら、今の自分は弱いのだから大丈夫、許される、という言い訳めいて聞こえて

きたとしたら、貴方も万事強い人間への一歩を踏み出したという事になる。

 めでたい事であり、ご愁傷様である。

 人は皮肉と矛盾の中に生きる生物であり、その言葉と心を一々真に受けるのは危険である。その人が何を話し

たか、ではなく。その人が本当は何を言いたいのか、を察してあげるべきだろう。

 そうしてそれを直接的な表現で言うのではなく、やんわりと聞きやすいように言えるようになれば一人前だ。

 貴方も憧れの大丈夫という訳だ。

 しかしそうなっても気をつけなければならないのは、人は自分の事を解ってほしいが、かといって本心を暴露

されれば怒り狂う性質を持つからである。

 人は皮肉と矛盾から成っている。それを忘れてはならない。

 人は誰も他人に本心など語らない。

 語れば命のやりとりにならざるを得ないからである。

 僕もまた誰しも思うように素直で強い人間でありたいと思うが、同時にそれと同じだけそんなものにはなりた

くない、唾棄すべきものであると考えている。

 そしてその逆もまた然りである。

 そんなお話。




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