玄鳥の夢


 私はよく鳥になった夢をみる。

 鶴(つる)になり、燕(つばめ)になり、気ままに飛びながら、ゆったりと空で過ごす。

 その夢の中では何とも晴れやかな気分で、下界の出来事などまったく気にならない。

 誰がどこで何をしていようと、安らかな思いで眺め、後は一人ゆったりと空の軽快な旅を楽しむ。

 夢の中では疲れもせず、風向きも何もかも関係なく、私は自由に自らの欲するままに飛んでゆける。

 これほど気持ちの良い事があったのかと、初めて見た時は思ったものだ。

 その夢を見ると起きた後まで気分が良い。一日中さっぱりと爽快(そうかい)な気持ちで、誰が何をし

ていても、何をされても、私はまったく平気である。

 むしろ詰まらない事しかできないそいつに対して、同情すら覚えてくる。何と言う憐れな人間なのだろ

うと。そいつらに対して涙さえ出そうなほどに、私はその日機嫌がいい。

 しかしある時私は、ふと下の景色しか眺めていなかった事に気付く。

 確かに空を飛ぶ、それは下界を眺める時以上に感じられる時はない筈だ。しかし世界は下に広がってい

るばかりではない。むしろ上にこそ尽きる事なき世界が広がっている。

 私は空にいて天を見るという、人間では出来ないであろう経験を想い、身震いした。あまりの喜びに翼

までぷるぷると奮え、失速してしまうのではないかと思ったほどだ。

 そうして私は待望の想いを遂げるべく、ゆっくりと天を見上げてみると。

 何と云う事だろう。私の上に誰か立っているではないか。

 太陽の光りで影となり、それが誰なのか、そもそも人間なのか、その他の見知らぬ何かなのかさえ解ら

なかったが、それでも確かにそいつはそこに居た。

 重さも気配も感じないが、確かにそいつは私を踏み付けていたのである。

 もし私が今天を見上げなければ、永遠に気付かなかっただろう。だが確かにそいつはそこに居る。

 私は気付かなければ良かった、と少しく後悔したのだが。気付いてしまった以上、むらむらと不快の念

が湧いてくる。

 いくら飛ぶのに支障はないと言っても、自分の背にいつまでも乗っかられているのでは、たまったもの

ではない。不快を通り越して、怒りが芽生えてくる。

 しかしそいつはそ知らぬ風で、私が睨みをきかせてみても、まったく動じていないようだった。

 ぴくりとも動かない。ただそこに居て、それだけで満足しているかのような、不可思議な嫌悪感を私に

与え続ける。

 怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、何故だが脅しなど無意味だという確信を覚えたので、仕方なく丁

寧な口調でこう言ってやった。

「もうし、もうし、そこの貴方」

 しかし上に立つ誰かは全く聴こえていないかのように、身動ぎもしない。どこを見ているのか、意識が

あるのかないのか、じっと私の背に立っている。私はたまらなく不快になった。

「もうし、もうし」

 そこで声を大きくしてみると、まるで今目覚めたかのように、ゆったりとした動作で、私の方へ顔らし

き部分を向ける。

「なんでしょう」

 その声は酷く落ち着いていて、それがまたたまらなく苛立たしかった。例えれば、自分は世界の全てを

知っているかのような、そういう口調で、とにかく耳に障(さわ)るのである。

 しかし怒っても無駄な事は何故か理解できてしまうので、私は心を抑え、深呼吸して、空を飛んでいる

自分を思い出し、何とかいつものゆったりとした気持ちを取り戻そうと試みてみる。

 暫くは不快の念が抜けなかったものの、それも下界を眺めれば、何となくすっと下へ抜けて落ちた。

 気分が落ち着いた所で、もう一度聞いてみた。

「そんな所で一体何をしているのですか。早く降りていただけませんか」

「まあ、良いではありませんか」

「良くありませんよ」

「でも、私が居ても貴方は飛べるではありませんか。重さも何も感じていないはず。今までもそうだった

のですから、これからもそうであって良い筈でしょう」

 私はまたむかっときたが、今まで気付かなかった事を諭されているようで、たまらなく恥ずかしく。も

うそれ以上は何も言えなかった。

 それに確かに飛べるのである。そいつが誰であろうと、何をしていようと、飛ぶ事には支障がない。だ

が、そうといって、この不快と不満が埋まるものではない。

 私は気を取り直すと、もう一度訴えてみた。

「もうし、もうし。確かに仰る通りなのですが。貴方が上に乗っておられると、私はたまらなく不快にな

るのです。ですから、どいていただけませんか」

「そうは言っても、私には羽がありません。私に落ちろと、そう言われるのですかな」

 腹が立つのは変わらないが、そいつの言う事ももっともだった。私が鳥になっていたので気付かなかっ

たが、そいつはどうやら飛べないらしい。

 夢の中でも誰もが当たり前のように飛べる訳ではないようだ。

「では地上に降ろして差し上げますよ」

 私は速度を上げて、地上へ向って矢のように降下した。これは初めての経験だったが、とても心地よく。

空を切り裂いていくようで、ひどく楽しかった。

 しかもとんでもない速度が出ているのにも関わらず、私はまったく怖さを感じない。人が自分で走って

もその速度に恐怖を覚えないように、どれだけ速度を出して降下しても怖さを感じず、今までと同じよう

に、下界がはっきりと見える。

 楽しくなってぐんぐん速度を増していくと、あっと言う間に地上に着いた。

 そこは広々とした草原で、丈の高い草が森のように生え、青々とした匂いがとても胸をすっきりとさせ

てくれる。

 機嫌が直った私は、そいつにゆったりと言ってやる。

「もうし、着きましたよ。ここなら大丈夫でしょう」

 しかしどれだけ待っても、そいつは一向に降ようとする気配が無い。

 さきほどすっきりした心に、また大きな苛立ちがむくむくと湧き上がってくる。

 腹立ち紛れに身体を揺すり、そいつを落としてやろうとしたが、足の裏らしき部分でぴったり私と繋が

っているようで、そいつはヤジロベエのようにまったく振り落ちる様子がない。

「もうし、もうし」

 いくら訴えても、私はいつまでもそいつに踏まれていた。

 そしてそんな風に一所懸命身体を振っていると、何故だかそいつが急に重くなってきた。

 私はあまりの重さに痛みを覚え、悲鳴を上げて助けを乞うたが、そいつはまったく動かない。

 そして、あまりの重みに、私はぴったりと目が覚めた。



 気が付くといつもの時間、目覚ましが隣で鳴り響き、時間を私に主張する。

 それを見ていると、夢のあいつのような気がしてきて、苛々した私は、思わず目覚ましを思いきり殴り

付けてしまった。

 目覚ましは気持ちよく飛んで行き、壁にあたって心地よく壊れてくれたが、おかげで拳の辺りが酷く痛

む。気晴らしの為には、高い代償になってしまった。

 私は後悔しつついつもの服に着替え、いつもの朝食の用意をして、いつもの洗顔を終え、いつもの玄関

からいつもの会社へと向った。

 その間中いつもの道を通りながら今朝の夢の事を考えていたが、あんな事は初めての事で、いくら考え

ても何も解らない。

 そもそもあいつはいつから私の背に乗っていたのだろう。

 何故あいつは私から離れなかったのだろう。

 もしかしたら離れられないのかもしれない。あれだけぴたりとくっついてしまえば、どうしても取れな

いのかもしれなかった。

 だとすれば、少し申し訳ない気になって、私は今朝の苛立ちを忘れてしまった。

 何が私の心をこうも揺り動かすのか。

 溜息を吐きつつ、窓から差す光に身をさらす。

 いつもの窓から見える景色は、やはりいつものままだった。



 帰宅すると、ここにもいつもの光景が広がっている。

 人は模様替えといっては色々動かしたりするようだが。私は着る物も何もかも、あまりその位置を変え

たくはない。

 面倒ではなく、気持ちからの心だ。

 私は何物も動かしたくないのである。変わりたくも無い。変化に喜びを見出す事も出来ない。

 むしろ変わらない事に対して、ちょっとした喜びを見出す。

 私はちょっとした事で右往左往するような、そういう人間が嫌いなのだ。ゆったりと空を翔け、ゆった

りと生を過ごす、そういう事が一番重要だと思っている。

 私は落ち着きの無い人間を見ると、嫌悪感が浮んでくる。見っともないし、第一煩(うるさ)い。自分

が迷っているから、他人も迷わせないと気がすまないのだろうか。そいつが何を考えていようと、私はま

ったく興味を抱かないと言うのに。

 私はこれ以上迷いたくないのだ。



 今日もいつも通りの日だった。心が清々しい。この満足感があれば、他に何が必要だというのだろう。

 今日もいい夢が見れるはずだ。



 私は重みを感じていた。空を翔けて尚、背中に忘れえない重みを感じている。

 それはどっしりとしていて、何だか湿っぽい。

 じっとりと汗が滲むかのようで、酷く不快であった。

 そしてそこにはどうしてもあいつが立っている。

 睨んでみるが、何の反応も寄越(よこ)さない。何かを言おうにも、重苦しくて言葉が出なかった。

 私はどんどん失速していき、以前とはまったく違う無様な姿で、落下するように地上に降りた。

 そうして大地に着いてしまうと、腹がそこにくっつきでもしたかのように、いくらもがいても、もう二

度と飛び上がれない。

 そいつの足らしき部分から酷い重みを感じ。私はそいつに貼り付けにされたようにして、いつまでも地

上でもがいていた。

 いつまでもいつまでももがいていた。



 目覚めると全身に汗をかいているのを感じた。

 べっとりと気持ち悪い。

 そして酷く寒かった。

 布団もまるで用を成さず。私は寒くて寒くて起き上がる事さえ苦労した。

 タオルで全身を拭き、新しい衣服に着替えてみたが、寒さはおさまらない。

 室温はむしろ暖かいくらいであるのに、私の身体が酷く冷えている。

 身体は起きるとすぐに動くようになったが、この寒さは消えなかった。

 一日中消えなかった。



 夢を見るのが怖くなっていたが、見たくないと思ってもいつものように見てしまう。

 そういえばこんな夢を見るようになったのは、いつからだったのだろう。

 もう思い出せないくらい昔から、この夢を変わらず見続けているようにも感じるし。昨日今日から始ま

ったかのようにも思える。

 記憶があやふやというよりは、それが夢というものなのかもしれない。

 ただはっきりと解るのは、私はあいつを見始めたときから、酷く恐怖していた。

 怖かった。ただただ怖かった。

 そんな気がする。

 空を切る時に感じる風が、まるで我が身を切り裂くように、私の方が空に切り裂かれているかのような

不思議な感覚へと変わっていた。

 今までは空は私の物であったのに、今は完全に私を拒絶している。排除しようとすらしている。

 私は怖かった。酷く怖くて、あいつを見上げると、あいつは今日も酷く怖かった。

 ただ何故かあいつを見ると、少しだけ安心する。

 よく解らない何かが、私の中にあるようだった。



 今日もまたあいつの夢を見た。

 もう、あいつの夢、と言えてしまうくらい、私にとって圧迫感のある存在になってしまっている。

 あいつは当たり前のように私の夢に出て、私をいつまでも踏み付けているのだ。

 その度に恐怖を感じるが、どうしてもそいつは逃げてくれない。どれだけ懇願(こんがん)しても、ど

れだけ脅(おど)しても、そいつはいつも私の上に居て、ずっしりと重みを加え続ける。

 何故そうするのか解らない。

 重くなってからそいつは一言も話さなくなったからだ。

 何を聞いても、何を言っても、あいつは何も知らない風に、いつまでも私の背に乗っている。

 決して離れない。いつまでもそこに居る。



 起きてみると、シーツが汗で湿っていた。いや、もう濡れていたと言った方がいいかもしれない。

 水をかぶせたかのように、私の全身から汗がとめどなく噴出(ふんしゅつ)し、風呂上りのように濡れ

ている。

 梅雨時の雨のようだと思った。

 あの凍えるような寒さはなかったが、それでも朝の風は冷たい。

 身震いするのを感じ、慌てて暖房を入れ、汗を拭いて着替え、白湯を飲んで気持ちを落ち着かせた。味

気の無い暖かい液体が身体をめぐるのを感じると、不思議な充実感を得る。

 昔から白湯が好きだったが、こう言う時は尚更心地良い。

 しかし起きてからもこうもはっきりと夢を覚えていられるものだろうか。

 今も背中にはあの重みがあるような気がする。

 その夢が良い夢であったなら良かったのだが、残念ながらおかしな辛い夢である。

 何となく情けなさを感じ、私は大きく溜息を吐いた。

 それでも、いつも通り会社へと私は向う。



 家から会社へ、会社から家へ。その移動手段も時間も、何もかもがいつも通り。それなのに、何故夢だ

けがこうも私に反抗するのだろう。

 苛々する。何か解らないものが、苛々する。

 あいつの何かが、酷く私を貶(おとし)めているような気がするのだ。

 人の上に無慈悲に立ち、ただただ重みを加えてくる存在。

 気付かなければ誰も気にしないのに、ふと気付いてしまうと後は重みだけを与えてくる。

 はばたいていた私は圧し落とされ、あれだけ気持ちの良かった時間が、今はもう恐怖しか感じられない。

 夢なら一度きりだと思うのだが、あれは必ず出てくる。

 私の夢は、もうあいつに支配されているのかもしれない。

 哀しいが、これもまた事実であった。



 私はもう鳥でさえない。

 羽ばたかせようと腕を振ってみるが、短い手足では浮く事どころか、動く事すら困難だ。

 身体には重苦しい甲羅が付いている。

 そう、私は亀になっていたのである。

 それでもあいつは私の背に乗っていて、変わらない重みを加えてくる。

 甲羅のおかげで少し楽になったが、重さは変わらない。

 ずっと重く、心まで大地へ潰されそうだ。

 懸命に手足を動かすが、身体はまったく動かない。私はこの地に打ち付けられてしまったようだ。

 あいつはきっと、釘なのだ。



 再び夢を見る。

 もう何が夢も現実も変わらないが、夢が夢である事ははっきりと解り、私にその事を主張し続ける。

 今度は亀ではなかった、私は鳥に戻り、雄々しく羽ばたいていた。

 しかしやっぱり奴が居る。

 背に乗って、何をしているのか、ただ背に乗って。

 私は飛び立つ事に成功したのか。おぼろげになっていた間も、私は頑張っていたのかもしれない。

 いや違う。足元には地面がある。私は走っていた。

 そして勢い良く翼をはためかせ続ける。

 速度さえあれば飛べるはずだと信じたいかのように。

 でもどうしても飛べない。あいつがそれ以上に重いからだ。

 何故あいつはこんなに重いのだろう。

 そしてそんなものを乗せて、何故私は飛べていたのか。

 考えてみると、急にそいつが重くなったとは思えないのだ。

 夢だから。そうかもしれない。だが私はそういう理解出来ない事は嫌いだ。夢もまた私の創り出したも

のなら、解らないものを見る事は出来ない。

 今まで理解出来ない物を見た事はなかった。

 幽霊も、宇宙人も、私の夢には出てこない。何故なら、見た事も解った事も無いからだ。

 解らないものは見ようが無い。

 ではあいつは誰なのだ。あいつは何なのか。

 夢に出ると云う事は、きっと私に解るはずなのである。

 あいつは誰だ。何故私を苦しめる。



 今日は休日、しかし私はいつも通りの時間に起床する。

 同じなのだ。今日もまた同じ日、決して変えてはならない。変えるのは気に入らない。

 私にとっては平日も休日も同じ、ただの一日である。

 特別な事も無い。やるべき事も無い。ただの一日なのだ。

 それを自由と呼ぶ者もいるが、私にとっては牢獄でしかない。変化を嫌う者にとって、自由とは痛み。

何も無いのに、何かが出来るはずがない。

 何もないからこそ、何でもできる。そんな事は嘘だ。何もない所には、何も生まれない。

 何もない場所へ解き放たれてしまうのは、とても、そう、とても、怖い。



 今日は家でずっと仕事をやっていた。仕事ならば、与えられる義務であれば、いくらでも見付かる。

 家事をしてもいい。必要な物を買いに行ってもいい。でもそれが義務以外の何かであってはならない。

 そんなものは私には解らない。

 詰まらない事だ。いつも通りにだけ生きていればいい。多くを望めば、必ず絶望する。

 雄々しく飛び回れば、必ず失墜するのだ。

 あの夢の、私のように。



 地面すれすれを飛んでいる。草が顔に当って痛い。でも飛ばない訳にはいかない、私は鳥なのだから。

 そいつは私の上で、いつも通りじっと立っている。

 今回は足がはっきりと見えた。着ている服も見える。顔までははっきりと見えないが、どうやら人のよ

うだった。

 誰かが立っている。多分、私の知る、誰かだろう。

 知らない誰かという事はありえない。

 あってはならない。そのような不可思議な事は、私は嫌いなのだ。

 人は望まない夢は見ない。本当は違うかもしれないが、私はそう思う。

 だからきっと、そいつは誰かなのだ。きっと、人なのだ。

 違うのか?



 起きても爽快な気分がしなくなった。

 私は努力している。誰よりも努力している。

 夢を思い返せば、それは明らかだ。高度は低くても、昨晩は飛んでいたではないか。

 進歩だ。どうしようもない進歩だ。

 私はまた飛べるようになるだろう。しかし、飛べたとして、あいつはまた重いのだろうか。

 前のように、あのように、気持ちよくはもう、飛べないのかもしれない。

 今日は朝から酷く疲れている。



 いつも通りのはずなのに、会社へ行く道が、酷く険しい。

 会社の人間が、酷く苛立たしい。

 私に付く全てのものが、きっとよけいなものなのだろう。私はうんざりしていた。

 何故ここでは、飛べないのだろう。



 帰った家でも、気休めを覚える事はない。

 ここは変わってしまった。変わっていないが、変わってしまった。

 でなければ、何故私の夢が変わるのだ。変わらないのが、私だというのに。

 私は達観していたのだ。全てを飲み込み、受け入れ、認めていたのだ。

 全てを知っていた。全てを理解していた。

 解らないはずは無い。解らないものは、決して見えないのだから。

 あの夢も、理解できる筈だ。



 しんどくなって、会社を休んだ。もう辞めようとさえ思う。

 何故かは知らない。だが、私の何かが、何かを望んでいた。多分、どうでも良い何かを。

 私は望みたくない。この気持ちは、理解出来ない。私は気持ちに見下されているように感じた。まるで

それは、あいつに見られているようだった。

 私は気持ちが悪くなり、そのまま横になる。



 真昼に見る夢、確かに光り輝いている。私はそこに居る。

 あいつは何処に居る。ああ、きっと私の背に乗っているはずだ。

 しかし何度振り返っても、光の向こうに何も見えない。

 どうしてなのか解らないが、私には、もうそいつが見えなかった。

 気持ちが良い。私は空を飛んでいる。

 腕を動かしても何も起こらないが、私は確かに飛んでいる。

 そう、私は私に乗っていたのだ。



 夢から覚めると、外は真っ暗だった。しかし気分は高揚(こうよう)している。

 私は今も空を翔け、この暗がりの空を、誰かを踏み付けながら、当たり前のように飛んでいる。

 そしてまた、私は誰かに踏み付けられてもいる。

 それは自分であったり、他の何かであったりする。

 しかしどれもこれも、結局は自分が生み出したもの。であれば、やはり私が踏み付け、私は私に踏み付

けられている。

 そいつは私で、私がそいつ。

 私を押し潰せるのは私だけ。私を飛ばせるのも私だけ。当たり前の事だ。全ては私の意志なのだから。

 やはりそうだ。理解出来ないことなど、何も無いのだ。

 この世界に、私の世界に、理解できない事など。

 私は再び目を閉じ、ゆっくりと身体を横たえた。

 今日もまた、私は私に見下されているのだろうか。




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