かじる


 一本の大きな木に無数の虫がたかっている。

 それぞれがそれぞれに喰らい、削るようして木の皮を身をかじっている。

 虫の色真っ黒に染まった木は、もうその虫自体が木であるかのようだった。黒雲があるように、墨でべ

ったりと塗り潰したように、いかがわしいまでに真っ黒な木は、息も絶え絶えに喰らわれ果てる。

 一本の木を喰らい終えると虫達は、また次の木へとすぐに移動する。

 そして喰らう。貪欲に。虫は決して満足しない。いつまでも、これからも喰らい続ける。一本一本、確

実に、本能のままに。

 しかし木は考える。何故自分達だけがかじられなければならないのか。何故木が虫をかじってはいけな

いのだろうか。

 結論はすぐに出た。木には口が無いからだ。

 この世に生まれた生物の全ては、食う者、食われる者に分けられる。そしてその両者の何が違うかと言

えば、それは口だ。

 口。それこそが喰らうという意志であり、強さ。かじる、存在を削るという力を宿す器官。

 それを得なかった木は、生まれながらに食われる運命にある。

 でも何故だ。何故木に口があってはいけないのだろう。誰もそんな事を言っていない。木に口があって

も、きっと文句は言わない。口があろうとなかろうと、木の勝手である筈だ。

 木はもう迷わなかった。口がある事に、何の理由も要らない。ただそれが食いたいのであれば、それだ

けがそれを持つ資格。

 木は虫にかじられた部分を大きく開けて、がぶりと虫を喰らった。

 全く警戒していなかった虫達は面白いくらいによく喰われていった。喰われた事にさえ気づいていない

のかもしれない。真っ黒に染まっていた木が、元の色を取り戻しつつあっても、虫達は何も気付かず、何

も変わらなかった。

 無抵抗の暴力を楽しみ、ただただ喰らい続ける。そして喰らわれ続ける。

 自分が喰っていると思いながら、虫達はいつまでも喰われている。

 愚かだ。確かにそうだ。でもそんなものではないのか。

 木も喰われながら喰っている。虫達と何も変わらない。どちらが先に喰らわれ尽くされるか、これはた

だそれだけの行為、一つの勝負だった。正々堂々とした、虫と木の勝負。誰も見ていない所での、命がけ

の、そして他の者にとっては無価値な。

 それがいつもそうであるように、ひそやかに命のやりとりは行われる。

 誰かの足元で、隣の影で、行われている。

 いつも通り、他の木々も何も関心を持たなかった。どちらがどれだけ喰われようと、例え今木が虫に勝

ったとしても、いつかは誰もが喰われるしかないのだ。

 口を持ったとしても、その内喰われる。無意味である。だから木は口を持たない。

 口を持った木と虫は互いに必死に喰らいあいながら、その存在と命を削りあって、消滅する。

 どちらが生き残っても、それ以上生きられないくらい、消耗して果てるだろう。

 虫は随分減ったが、木もほとんど原型を留めていない。多分、もう三口もあれば、消えてしまう。折角

作った口も、随分小さくなってしまった。

 それを惜しむ木もいたが、どうでも良い事だ。いずれ全ての口も、喰らい尽くすか、喰らわれ尽くすか

して、消えてしまうのだ。何も悲しいことなんてない。それが口の行き着く果て。あるべき姿。口こそが

滅び。

 今回は虫の方が勝ったようだ。沢山いたのだから仕方がない。木がいくら頑張っても、一本だけでは全

てを喰らい尽す事はできないのだろう。

 木の口が大きくても、百万の口の代わりにはならない。自分を覆いつくす口の前には無力。かじられて

何もかも消える。

 とうとう根まで完全にかじり削られてしまった。

 そこにあった木という存在は、今はもうどこにも無い。空っぽだ。

 虫の腹の中にある残骸も、もう木ではない。ただの栄養である。砕かれて死んだ残骸には、その時から

何も宿っていない。

 虫は次なる木に取り掛かり始めた。ここまでやられても、何も気付かなかったかのように、虫達は当た

り前に喰らい続ける。その行為を虚しく続けている。

 木々が悲鳴を発しても、仲間が食われても、何をされても怯(ひる)まない。確かに虫は口だった。そ

れ以外の何ものでもない。虫を表すとすれば口しかない。他は全てが後からついた、余計なものだ。

 その点木は口ではなかった。木を表すとしたら根。しっかりと支え、養分を吸収する根が木だった。

 かじりはしないが、根もまた喰らっている。でも喰らいたいと思いながら、かじりたいとは思わなかっ

た。そんな木の気持ちが根になったのだろう。

 だからこの木も喰らわれ続けるしかない。同じ口では虫には敵わない。それは証明された。

 でも虫の数は随分減ってしまっている。この分だと木をかじりきれないかもしれない。最後まで喰らえ

ないかもしれない。

 諦めようか。いっそ口をなくしてしまえば、虫もずっと喰らっていかなくて済む。虫もかじるのに飽き

ていた。そう思えない事もない。

 いつも喰らっているからといって、それが好きだとは限らない。

 もしかしたらいやいややっているのかもしれない。

 口があるからかじるしかないんだと思わせられて、それに否定できない自分が居て、結果として従って

いるだけなのかもしれない。

 それは確かに意思だろう。でも多分違う。そんなに強いものじゃない。元々それが望んだ口なのかも、

解らないじゃないか。

 もしかしたら口の方が勝手に虫にくっついて、虫はしかたなくそれに従っているのかもしれない。喰ら

う事で初めて生きられるようになっているのだとしたら、多分口の方がえらいはずだ。口以外の虫部分は

全て下っ端だ。

 口に命じられるまま、虫は喰らい続けていかなければならない。

 それを拒否しようとしても、誰も許してはくれないだろう。

 口が一体どこからきたのかは解らないが、きっと初めにくっ付かれた虫は迷惑したに違いない。こんな、

一生かじらなければならないくらいなら、自分はもっと考えたのにと、今は誰よりも後悔しているのかも

しれない。

 でも大丈夫だ、心配は要らない。

 この森には、もう一本も口を持った木は存在しない。

 あの口はもう、口の生えた木と共にどこかへ消されてしまったのだ。

 これ以上口が増える事はない。

 おそらくきっと、虫達が全てかじり喰ってしまった。口もまた、口に喰われる。一番口らしい口だけが、

最後まで残るのだろう。

 それを見破られない為に、いつも口を隠しておくべきだ。でなければその口は、もっと大きく強い口の

餌になってしまう。この世に口がある限り、それはきっと、終わらないのである。

 口が口を求める限り、それは終わらない。しかし、全ての事には、必ず終りがある。

 それは口も、避けられない。




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