成人の儀


 夜明けと共にその儀は始まる。内容は誰にも知らされない。知らないまま森の前に連れて行かれ、別の場

所から同じ森に入る。その後の事は中に入れば解るらしい。

 葉のざわめきを耳にしながら、一歩踏み入れる。暗闇が晴れていない森、瑞々しくも躍動する風。大気に

は水が満ち、湿っぽく空気を揺らしている。吸い込んだ息も水に近い。

 持たされたのは護身用の刃物一本にわずかな水。獣には良い餌だろう。

 まずはこの森で生き抜く事を考えなければ。

 参加者の数は解らない。付近にある全ての集落から来ているはずだから十や二十ではないだろうが、その

半分は出てくる事は無いという。今年はどれだけの人が生き残れるだろう。そして自分はその中に入れるの

だろうか。考えれば考えるだけ気持ちが塞がる。

 どこに何があるのか、何が待っているのかも解らない。この神聖な森に踏み入れるのは人生にたった一日、

この成人の儀だけだ。話を聞こうにも大人たちは皆口を閉ざす。誰も、何も、喋らない。そうする事が罪だ

とでも言うように。

 持ち物を確認し、閉ざされた世界を進む。

 進んでは止まり、周囲を確認してはまた進む。大気も緊張しているのかかたく、身を震わせる。獣の鳴き

声が聴こえてきた。それに応えるように遠吠えが一つ、二つ。今までに聞いた事の無い声だ。犬よりも深く、

荒々しく、それでいてよく通る。雲まで貫きそうだ。

 一歩踏みつける度に地面が心地よく沈み、同じだけ足裏に返してくる。やわらかい土壌に覆われてはいる

が、しっかりしたものを感じる。

 この大地は全てを受け止め、そして放さない。

 獣もまたこの森の囚人なのか。

 周囲を見回しても何が見える訳でもない。何が起こる訳でもない。何が在る訳でもない。ここに入れば解

ると言っていたが、さっぱり解らない。ここで何をすれば良いのか。

 獣の吼(ほ)え声がまた聴こえる。もしかしたらこの獣を討ち取る事が証になるのか。その骸(むくろ)

を持って返れば、大人として認められるのか。

 そうだとしても簡単に狩れるものではない。第一どこに獣が居るのだ。声も近くのようで遠くのようで、

はっきりとしない。

 また声が聴こえる。手探りで草むらを分けながら、仕方なくそちらへ進む。一番近い獣の声の許へと、ゆ

っくりとだが確実に、声と進路を照らし合わせて進む。

 次第に自分がどこにいるのか、何をしようとしているのか解らなくなってきた。この森は全てを失わせる。

無数の影に包まれて、自分もまた影になる。

 森を行く一匹の獣に変じ、影から影へと渡った。誰にも気付かれないように。

 獣を追っていると考えるのは傲慢(ごうまん)だ。本当は自分が獣に追われているのかもしれない。今も

その木陰から、じっとこちらの様子を窺(うかが)っているのかもしれない。

 何が本当で、何が嘘なのかを見抜かなければならない。

 慎重に進むとやがて少し開けた場所に出た。水流の音がする。そこには湖とそこから流れる川があった。

 使った水をその分だけ補充する。不思議と喉が渇く。少しずつ飲んでいても水はすぐに無くなった。節約

しようにもとても我慢できない。

 本当に獣を狩ればそれで良いのだろうか。

 もしかしたらこの森で生きるという事自体が試練なんじゃないか。

 ただ一日の間生き抜けば、それで大人として、独り立ちできると認められるんじゃないか。何をどうする

という事ではなく。ただ生きる為に生きる。独りで生きる。それが成人の儀。

 いや、それは逃避(とうひ)かもしれない。

 目の前の苦難から逃げる為だけの言い訳。

 何故目的を知らされないのだろう。それを見つける事に意味があるのかもしれないが、この制約さえなけ

れば、ずっと楽に動ける。何も解らないまま命じられるというのは苦痛でしかない。

 どちらにしろ、現実は人の願望とは無縁だ。

 湖のほとりに獣が居る。四足の間接を伸ばし、ゆっくりと疲れを癒しているようだ。しばしの休息か、そ

れともずっとそうしているのか。その姿にまだ眠気が残っているように見えるのは、勘違いなのだろう。

 獣の側には何かの骸が転がっている。食い散らかした後か、これから食べるのか、どちらでもないのか。

解らないまま獣は身体を揺すり、身繕いしている。のんきなものだ。

 この手には刃物がある。一振りの鉈(なた)。この森と比べればいかにも頼りないが、使い慣れた一つだ

けの武器。油断している今なら、いけるかもしれない。

 獣にそうっと近付く。

 身体と匂いは隠しようがない。でも獣は動かない。まるで眼中に無く、常の自分を保っている。そこに何

をぶつけても、決してこの獣は動かないのだろう。

 そういう風にできている。そんな気がした。

「ウォォオオオオオオオオオッ」

 雄叫びを上げ、走り出す。獣がこちらを向いた。その目には赤い光が宿っている。

 身をかがめ、飛び出す。一直線にこちらへ向かってくる。最早敵意を隠そうともしない。一匹の獣が迫っ

てくる。それを待っていたかのように。

「シャアアアアアアアッ」

 鋭い声を上げ迫る獣。その爪先が届く前に、鉈がその脳髄を砕いた。真っ直ぐに突き刺さった刃は綺麗に

頭蓋(ずがい)を割き、血が溢れ、全身を染めるようにこぼれ落ちる。

「ウォォオオオオオオッ!!」

 全身を奮わせる程の声が湧き上がってきた。こんな声が自分のどこにあったのか。何も理解できないが、

勝利した事だけは解る。勝ったのだ。この獣に。

 次に感じたのは飢え。

 皮を裂き、火を焚いて肉をあぶった。香ばしい匂いが立ち昇り、周囲に満ちる。草むらが動いたのは、お

こぼれでももらいにきたのか。それとも敵を討ちにきたのか。

 どちらでも関係ない。肉汁したたるご馳走(ちそう)を手に、思いきりかぶりついた。旨味が口中に広が

る。よく食べていたのに、初めて食べたような味がした。

 生を実感する。

 どこまでも果てしなく続く生。その代償の死を心から感じる。

 酷く生臭い。

 水を浴びるように飲み、全てを流し込んだ。

 まだ日は高い。半分も終わっていない。なのに何だか一生が終わってしまったかのような気持ちになるの

は何故だろう。

 考え過ぎか。そうかもしれない。

 獣の砕けた頭とそこに張り付いている顔に、ふと懐かしさを覚えた。

 お腹が膨らむと気も大きくなってくる。打ち勝って自信も付いたのか、こちらから積極的に探索してみる

事にした。

 川に沿って進もう。

 森は相変わらず静まっているが、そこかしこに生命とその痕を感じる。あまりにもそれが満ちているから、

この森は神聖かつ不気味に思えるのか。

 踏みしめる度に草を薙ぐ。それさえ何かをぼうとくしているような気にさせられる。何がそうさせるのか

は解らないが、静寂を乱しているのは確かだ。

 この森は入ってはいけない場所なのだ。

 それなのに何故一生に一日だけこの森に入るのか。そして誰もが口を閉ざすのか。その訳はもう理解した

ような気がしているが、それが何故なのかは解らない。

 川のせせらぎが耳を潤(うるお)す。このわずかな音が心地よく、不思議なくらい救われた気がする。

 水を飲み、一休みする。

 しかしそうしてゆっくり腰を下ろした瞬間。

「シェッ!」

 吐息から切り裂くような音を放ち、何者かの刃が空を裂いた。

 後一瞬でも腰を下ろすのが遅かったら、首を斬られていた。それが何かは解らないが、確実なのは誰かに

殺されかけた事。慌てて振り向くと、草むらをがさがさと何者かが移動していくのが見えた。

 逃がす訳にはいかない。

 追う。ひたすらに追う。

 追い続けていると、自分が今生きている事に疑問が湧いてきた。自分は何故こんな場所で、見も知らぬ何

者かを追っているのだろう。

 無意味な問いとは知りつつも、そう思わないではいられない。

 追われている方は何を考えているのだろうか。

 何者かが立ち止まる。鉈を伸ばすと、覚悟したのか草むらから獣がのっそりと姿を現した。薄暗い影に隠

れているが、多分同じ種だろう。

 獣が腕を伸ばして襲ってくる。

 慌てて鉈で払った。腕が肘から裂かれ、転がる。獣も叫び声を上げていたが、聴こえた声は自分のものだ

ったのかもしれない。

 獣は震えたままもう一度飛び掛ってくる。

 その姿があまりにも間抜けに見えたので、慌てて鉈を振り下ろした。鉈は無造作に獣の頭を断ち、血を流

して弾け飛ぶ。獣は仰向けにひっくり返り、みるみる血が流れた。

 それをじっと眺め、満足する。

 勝ったのだ。

 骸を川に蹴り落し、その流れに沿って移動する。

 ぷかぷかと浮いたそれを眺めながら一緒に進むのはあまり気の進む行為ではなかったが。川沿いに進めば

道に迷わない。仲良く獣と並んで行く事にした。

 流れはゆっくりで、歩幅と不思議なくらい一致している。獣が追ってきているかのようで、何だか不思議

な気持ちになった。

 良いのか悪いのか、何も解らないが、とにかく進む。

 日が落ちてきた。そろそろ期限が終わる。一体何をすべきだったのか、結局最後まで解らなかった。

 流れ付いてくる獣の残骸だけがその名残を生々しく示しているが、そういう事で良いのだろうか。この獣

を殺し、自分こそが生きるに値するのだと示す事が、その条件だったのか。

 たまに何かの声が遠くで聴こえる事があるが、二匹目の獣を殺してからは近くで獣を見る事は無かった。

 しかしこの獣。なんて不思議な形をしているのだろう。何かにそっくりだが、何にそっくりかが解らない。

ありふれたものであるような気もするのだが、まるでその部分だけが欠落してしまったかのように、知って

いる事だけは解るのにその答えが浮かばない。

 悩み、森の匂いにも飽きてきた頃、森の終わりが見えてきた。日は完全に落ちていないが、世界は朱に染

まり、真っ赤な光が血のように獣を照らしている。出口に着く頃には程よく落ちているだろう。

 耳をすますが何も聴こえない。獣の声も、誰かの声も、何も聴こえなかった。不思議なくらい静かだ。入

ってきた時と同じくらいそう思うのは、全てが終わってしまったからかもしれない。

 森を出た。止められるかと思ったが、誰も邪魔してこない。見張っている訳ではないのか、それともその

必要が無いという事なのか。

 誰も居ない。

 誰も待っていなかった。大人達には初めから全ての結果が解っていたのか。

 溜息を吐き、うんざりした心でふと川の方を見た。

 そこには血塗れの遺体が浮かんでいた。

 目を疑ったが、それは確かに人だ。自分と同じ、そしてもう二度と出会う事の無い姿。無残に割られた頭

は確かにこの手でした証。

 だが冷静に考えろ。あれは確かに獣だった。見た事も無い、誰よりも見知った獣。

 記憶が混乱している。何かを思い出せそうだがそれを心が拒否している。そんな気がした。

 眩暈と共にへたり込む。そして思い出す、この森でしたもう一つの事を。

 それはその行為だけで充分だった。

「うげええええええええっ」

 生臭さを思い出し、抑えられない吐き気と共に全てを吐き出した。が、それが無駄な行為だとも解ってい

る。あの香ばしく焼けた肉は確かにこの肉体の隅々に行き渡り、新たな活力を生み、獣以上の獣に変えた。

 いや、それを言えばこの森に入った時からおかしかった。いつも以上に力が漲(みなぎ)り、いつも以上

に全てがくっきりと見え、この鉈も簡単に揮(ふる)う事ができていた。紙切れでも操るように自在に揮い、

役目を果たしたのである。

 疲れも覚えない程力強く、そして荒々しかった自分を思い出す。

 そしてその力を失うのと同じだけ記憶が鮮明になり、偽りの記憶を塗り潰す。それは明らかにその事を物

語っていた。ある一つの事実を。

 流れ逝く遺体はそれを証明するに充分な証拠。

「うげぇぇぇぇぇぇっ」

 もう一度吐く。無意味な事と知りつつ、胃の底からくる瘴気(しょうき)と肉の焼ける香ばしい匂いが取

れない。何度も何度も吐きながら、嘔吐(おうと)物から明らかな物体が見え隠れしていた。

 大人達が皆黙っていた訳が理解できた。何よりも深く理解できた。

 森に入った時点で、それは決まっていたのだ。

「ああああああああああああああああああああっ」

 喉を引きちぎるように叫ぶ。

 似たような声が近くから遠くから聴こえてくる。彼らも同じように同じ事を悟ったのだろう。この森の酔

いから覚めた時、自分がしてきた本当の事が解る。

 子供が半人だとすれば、その二つが一つになる事で成人する。

 しかしそんな事を考えている余裕は無く。罪悪感に押し潰される余裕すら無く。ただただ全てが生臭く、

息苦しかった。それは許容量を遥かに超えていた。耐えられない。でも忘れられない。今もずっと憶え、捨

てる事のできない事実。

 それも二人も。一人で充分だったのに、自分は二人も。

 吐きに吐いた後は川の水をがぶ飲みした。その後したのと同じように。それでもあの時のように生臭さが

消える事は無かった。

 もう二度とそれは消えないのだろう。いつまでも、いつまでも。死に逝く、その時まで。

 それが生きるという事なのか。




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