群青の空


 鮮やかで雲一つない空。

 その向こう彼方には宇宙が見える。

 あまりにも鮮やかすぎる青は、レンズのようにその深奥までを映し出し、結果として宇宙までを当たり前に人

の目に触れさせる事となった。

 初めは歓迎された。

 美しい宇宙。墨で塗りつぶし、その上から漆で染め抜いたかのような美しい黒は誰をも魅了し、人々は見る度

に溜息をもらした。

 近い星ならば割合くっきりとその姿が見えるという事も星好き達の心を満たし、世界から喜びの声をもって迎

え入れられていた。

 昼には青の向こうに見え。

 夜には漆黒の向こうに見える。

 その二つの新たな星空は何とも言えない感動を人々に与えた。

 しかしそんな状況も一ヶ月もすると雲行きが怪しくなってきた。

 数十年に一度とか、数百年に一度とか、それがそういう現象であれば良かったのだろう。そうであれば人はそ

の美しさに魅了されるだけで済み、感動のままにその瞬間を愛おしいものとして覚えたはずだ。

 だが当時の人間にとって残念な事に、それは一瞬の夢の出来事ではなかった。

 数百年と続く出来事であったのだ。

 宇宙の暦で考えれば、その時間は瞬きにも満たないあっという間の、計ることさえ困難な期間に過ぎないのだ

が。人の暦で考えれば、一生を覆い隠す程の途方もない時間である。

 人は新たな昼空に対し、次第に不満をぶつけるようになっていった。

 青に透けて見える宇宙が気持ち悪い。夜よりもはっきりと見える星々の姿はまるで終末の日のようだ。白い雲

はどこへいった。あの美しい朱空はどこへいったのだ。云々。

 それが稀に見える、普通は得難いものであればこそ良かったのだ。日常となり、日常であったものが得難いも

のとなった状況では話が違ってくる。

 それが美しいとか、宇宙がよく見えて素晴らしいとか、人の善し悪しを定める判断基準はそういう点にはなか

った。我々が重視するのは単にそれが珍しいかどうかというだけ。いつも見慣れていないものが、ごくごく稀に

目に映る。人が求める価値とはそういうものであった。

 ダイヤが石ころのように溢れ、石ころがダイヤのように希少であればその価値が逆転するように。人の価値基

準というものはその物の本質ではなく、むしろそれに対した時に生じる気分に左右される。

 群青の空はいつしか人々から罵声を浴びせられるだけの現象となった。

 これほどに美しいのに。

 これほどに素晴らしいのに。

 それを見飽きた人間達にとっては、この得難い景色、数億年、或いは数兆年に及ぶ時間の中で、わずか数百年

しか続かないだろう、もしかしたらもう二度と発生しないかもしれないこの現象は、ゴミ屑のように醜いもので

しかなくなっていた。

 群青の空は嘆息した。

 彼としても別に歓喜をもって迎え入れて欲しいなどと思っていた訳ではない。むしろ忌避されるものとして扱

われても気にはしなかった。自分はただの自然現象に過ぎない。人の気持ちなどどうでもいい。何一つ関わりの

無いことだ。

 けれどもこの落差はなんだろう。

 最初の歓喜からのこの罵声。あまりにも身勝手な変化に、さすがの彼もうんざりとした気分になる。

 解って欲しい訳ではない。人のように無制限に褒められたい、認められたい訳でもない。自分はただの自然現象

として、その他のありふれた現象と同様に僅かな期間を過ぎ去っていければそれで良かった。

 初めから人に興味など無かったのだから。

 しかしこれほどに失望の念を押し付けられてしまえば、さすがの彼も考え込まざるを得ない。

 相も変わらずつまらない事で一喜一憂しているあの者達の、自分という彼らの価値基準に照らし合わせても非常

に貴重で、おそらくこの現象が終わる数百年後には全財産払ってでも一瞬で良いから見たいという人間が掃いて捨

てる程現れるだろうこの現象を、まるで無価値であるかのように扱われるとはどういうことなのか。

 たった数百年続くというだけで、それだけの事で何故にここまでの仕打ちを受けなければならないのか。

 怒りを通り越して哀しみが湧いてくる。

 群青の空は数百年の間この愚かしいかわいそうな人類を哀れんで過ごし、全宇宙から惜しまれてその姿を消した。

 それ以後、群青の空と同様の現象が起こる事は全宇宙どこを探してもなかったという。

 そんなお話。




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