歯車


 人は歯車、そして人の世は歯車が組み合う事で成っている。

 中には空回りする歯車もあれば、無理に回そうと必死に働く歯車もある。

 噛み合ったからと言って、必ず上手く動くとは言えず。むしろ噛み合ったからこそ上手く行かない場合

が多い。

 元々噛合う為に造られた歯車も、困った事に様々な差異があり、何処にでも組み込めるという訳ではな

いのだ。

 歯車の大きさ、回る速度の差、それでも歯車達は困惑の中社会を組み上げている。

 誰一人として歯車として生れたからには、その社会と言う大きな機械からは逃れる事は出来ない。逃れ

たと思っても、その場所もまた、所詮は噛み合う何処かなのだ。

 足掻いてももがいても、歯車は歯車、それ以上でもそれ以下でも、それ以外の何かでもない。

 だからこそ、そこから外れる意味も、逃れる意味もない。

 噛み合ってこその歯車であるし、命尽き果て回転が止まる日まで、永劫に動き続ける。そしてまた、噛

み合い、回り続けるからこそ生きていけるのだろう。

 外れた歯車、これはまったくもって不可思議な存在としか思えないし。存在していられまい。

 しかしここでもし、本当に外れてしまった歯車が居たとしたらどうだろう。

 その歯車も別段自分からどうこうしようとした訳ではなく、不意に外れて、いや外されてしまった。

 例えば車でドカンと突き飛ばされてしまったとしよう。それは歯車の人生の中でままある事で、まった

く意外であるとは思えない。

 ままある事だけに、普通なら修理されて元の場所へ戻るのだが、損傷具合によっては修理しきれない場

合がある。けれどまだ寿命が尽きてはいない、回らない訳ではない。そこで仕方なく、一人だけで回るこ

とになる。

 何故なら彼は、歯車なのだから。止まるまでは回らなければならない。

 しかし一人で回るとはありえるのだろうか。いや、今ある歯車達も、もとは一つの歯車だったはず。ど

こでどう増えたかは知らないが、それなら一人でも回れるかもしれない。

 車に突き飛ばされた衝撃だろうか。それとも歯車の神秘か。それは解らないが、とにかく一人で回って

いるとしよう。

 不思議そうに眺める他の歯車達、普通では考えられない事、考えられない場所で回っている。そこで必

死に彼らは戻そうとする。まるで独りで回れる事が罪であると言わんばかりに。

 それでも修理できなければ戻せない。壊れているから元の場所には嵌(はま)らないのだ。

 生きては居るが、回っても居るが、もう元の場所へは帰れない。

 他の歯車達は次第に諦め、代わりにその存在を何処かへ忘れていく。

 隠し、思い出さない。そうすれば無いのと同じである。いかにもそう言わんばかりだ。

 だが相変わらず、壊れたままの歯車は回る。しかもそれなりに自己修理して、良くなってすらいる。勿

論、元に帰れる程には治らないけれど。

 そうして一人回っていると、外れた歯車も戻る事を諦める。

 それどころか、何故か解らないけど自分は外れても生きて回っていられるのだからと、むしろ一緒くた

になって噛み合ってる歯車達を、不思議そうに眺め始める。

 ほんとはお前らも一人で回れるんじゃないかと、そんな風な懐疑的な視線で。

 しかし噛合う事に疲れる時があっても、噛み合う事で安心している歯車達は何とも思わない。相変わら

ず外れた方が悪いのだ。何故ちゃんと噛み合ってる我々が、外れた奴に合わせなくてはならないのかと、

怒りすら抱き始めるようだ。

 しかし彼らの視線が怒りに変わるにつれても、外れた方はどうしようもない。外れてしまったのだから、

治らないものは仕方が無いじゃないかと憤慨し、ふてくされる。

 そして回る。

 回る。

 回り続ける。

 するといつしかその独りぼっちの歯車に、噛合おうとする歯車が出てくる。

 元々外れた歯車に対し、同情的な気持を抱いていた歯車なのだろう。

 或いは憧れていたのかもしれない。自分も外れたい、今の場所は嫌だと思っていたのかもしれない。

 理由は解らないが、確かに噛合う歯車が出てくるはずだ。何しろたった一つの歯車が、何処でも噛合え

とばかりに、魅力的に回っているのだから。

 それに比べて今の場所はどうだろう。ギチギチがガタガタで、何処もギュウギュウ堪ったものじゃない。

息苦しくてたまらないのだ。

 それならあの開放的な場所で回りたい。そう思っても不思議ではない。

 こうして外れたはずの歯車は、もう一つの機械の核になるのである。

 世界の歯車から離れた歯車は、新たな世界の歯車となる。

 しかし、どちらにしても歯車は歯車。いつまでも回り続ける。

 そしていつかギチギチのガチガチになるのだろう。或いは核が壊れれば、そこでその機械は終わるのだ

ろうか。

 どちらにしても、歯車は歯車の生から逃れる事は出来ない。何故なら、何処まで行っても歯車は歯車な

のだから。別の機械であれ、噛合って回るのは一緒である。

 それでもやっぱり歯車は、今の場所から外れたいと思うのだろうか。

 単に見晴らしが良くなったというだけであるのに。その新たな核となった歯車でさえ、決して自分から

外れたいと思ったわけではないのに。

 回る事に何を求めているのか。歯車はただ回るだけだ。

 しかい考える事は許される。どうでも良い事を考えながら彼らは回る。

 何の意味も無い答えを、そこに無理矢理継ぎ接ぎでくっ付けようとして。

 どうでも良い想いを抱きながら、いつまでも歯車達は回り続けるのだろう。

 全ての歯車は回る。止まるまで回る。

 こっちの世界でも、むこうの世界でも、歯車達は回り続けるのだ。

 何処へ行こうと、歯車は歯車なのだから。

 そしていつか歯車は思い知る。自分はただの歯車である事を。

 けれども、歯車だからこそ、歯車の幸せがある事を。

 歯車は歯車である事を悩んだりしない。ただ回るだけ、歯車に生れただけなのだ。

 そこに何か意味があるとすれば、単純に、何処でどう回るか、であるだろう。

 或いは、それにも意味など無いのかも知れないが。


                                                            了




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